そこで回想から還り、真田は改めて如何しようかと唸った。畳の上で胡坐をかいた彼の前では、その徳川家康が布団に伏している。枕元には彼が着ていた、布を貼りあわせただけの簡素な衣服が丁寧に折り畳まれて置いてある。真田が忍の仕業だ。現在の衣も、彼の手によって朱色の寝着になっていた。常は金の戦闘着で身を固めているだけに、今の姿は真田に違和感を抱かせる。己が常日頃掲げる色を、彼の男が纏っている―――それが酷く真田を高揚させた。
「大将」
猿飛の咎めるような声に、真田はハッと我に返った。いつの間にか伸ばしていた手に気づき、何処となく居心地悪い心持でそれを引っ込める。
背後に位置していた障子戸を開け、猿飛は手に茶菓子を持って部屋を訪れていた。悩みこんで動こうとしない真田を気遣ってのことであろう。彼はひょいと枕元の衣服を跨ぐと、真田の向かい側に膝をつき、湯気立つ湯呑を差し出した。真田は無言のままそれを受け取って茶を啜り、更に猿飛の差し出す団子も無言のまま頬張った。
「そいで。どうすんの、この御仁」
自身用の湯呑に息を吹きかけながら、猿飛は事も無げに問う。石田に伝えるか、このまま匿うか。これに関しての真田の答は、初めから決まっている。
「無論、このままだ。前田殿は俺こそがと信じて預けていかれた。それを裏切るは、武人の名折れよ」










虎は陽の目覚めを待つ










「ま、そう言うと思ったよ」
猿飛は小さく肩を竦めるだけで、特に反論しない。
「俺が悩んでいるのは、そのようなことではない」
「うん」
「何れ、徳川殿は目を覚まされるだろう。その時俺は―――どのように接すれば良い?」
敬愛する師が生涯で唯一好敵手と定めた最上の理解者から、虎の後継者と認められた男。一番弟子は己だと自負していただけに、衝撃は大きかった。男自身は真田こそ虎の正統なる後継者だと言ってくれた―――しかし。
「やはり俺は、徳川殿に劣等感を持たざるを得なんだ」
直接教えを受けていたのに、何と云う体たらく。この腹の底に堪る感情は、己に対しての失望か、将又、徳川に対する妬みか。
「……それでいいと思うよ、俺様は。人間らしくてさ」
真田が握りしめる拳の中から湯呑をひょいと取り上げ、猿飛はお代わりを注ぐ。若葉の液体は薄い湯気を伴って滑り落ちた。
「大将は、徳川の旦那の『人質大名』って呼び名の由来は知ってる?」
「織田・豊臣傘下という不遇の時代を続けざまに迎えたからではないのか?」
「あーまあ、それもあるかもね」
猿飛は苦く笑って頬を掻く。彼から湯呑を受け取り、真田は小首を傾げた。
「……徳川家康は松平竹千代時代、お家存続のために今川家へ人質に出されていた」
それなら知っている、と真田は頷いた。聞いた話によれば、徳川は今でも今川を「義元さま」と呼び慕っているとか。
「けど人質として今川家へ送られる途中、同盟相手の裏切りにあって織田家に浚われたんだ」
まだ織田信長が吉法師と名乗っていた頃の話である。今川ではなく織田への服属を迫る目的があったのだが、竹千代の父はそれをきっぱりと跳ね除けた。普通ならそこで竹千代の存在価値は消え、いつ殺されても可笑しくないと考える。つまり、彼は松平家から見放されたも同然なのだ。幸運なことに、織田側の家臣の説得によって殺されることはなかったが。
当時、十にも満たない年齢だった竹千代にとって父から見放されたことに対する心情がどのようなものだったか、猿飛には想像し難い。彼には家族と呼べる存在を、明確に知り得ていないからだ。しかしそのすぐあと、父・広忠も家臣の謀反によって殺されている。親の愛情を知らない、という点では似ているのかもしれない。
(……なんて)
そんなことを思うなんて、らしくない。猿飛は思わず自嘲の笑みを溢した。
「織田家での日々を過ごした後、松平竹千代は今川に送られ当初の予定通り人質生活を過ごすことになる……あとは大将が言った通りだ」
織田によって今川義元が討たれたことを切欠に、織田・徳川間で清州同盟を組む。織田が明智に討たれた後は、豊臣秀吉に敗北し傘下入りしている。
「……そして今では、嘗ての知己と天下を賭けて一騎打ち……中々に壮絶な半生でござるな」
「私見を言わせてもらえば、これを聞いただけであの笑顔の胡散臭さが増すよね」
父から見捨てられ、両親の愛情も受けず、「お家のために」を合言葉のように過ごす日々。そんな幼少期を過ごしても尚、自己を殺して他者のためにと笑えるものか。彼の男を狸と呼んだのは、誰が初めであったか。
「あんな風に笑うくらいなら、神様なんてならない方が良い」
そうだろう?と猿飛は小さく笑む。真田は思わず床に臥す徳川に視線を落とした。神様にならない―――それはつまり、徳川に追いつかなくて良いと、彼は言っているのだ。
「……そうかもしれぬな」
しかし呟いた真田の声は酷く平坦で、そこには納得も安堵も感じられない。猿飛は見えないように肩を竦めて大分温くなった自分の茶を啜った。
真田は両の膝の上で拳を握った。己とて、決して平坦な半生を送ってきたわけではない。この世に生を受けて間もなく、実の父母から引き離され養子に出された。しかし戦で上二人の兄が命を落とし、真田家嫡子として呼び戻された。本来ならば徳川のように国を守るため質として扱われるような立場だったのだ。
この戦国において、国主の家に生まれ出たからには、人質は避けて通れぬ道。己も、そして徳川もそれは承知のこと。彼の場合、他よりその回数が多かっただけのこと。そこに深い同情は生まれない。真田の腹に沸いたのは、静かな苛立ちだ。
(貴殿は何故、そのように笑う)
運命と諦め、笑う。それが心底腹立たしい。綺麗ごとばかりを並べて作ったような男だ。
(だから俺様は、あの男の次に、この人が気に喰わないんだよなー)
じっと無表情で徳川を見つめる真田を眺めながら茶を啜り、猿飛は心中で呟いた。己が汚れ役の忍である故か、彼の言葉が気に喰わない。戦世に抗うくせに、己の過去を嘆きも恨みもしない。絆と説き、主人の生きれぬ世を作らんとする男―――それが最も大きな理由か。つくづく忍らしからず、一人の主を慕う己に猿飛は苦笑を漏らした。
この思いすら、あの狸は絆と名付けるのだろうか。そんな簡単なものでは、ないだろうに。





20130926
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