第4話 chapter6
懐かしい夢を見た。
ベッドで起き上がり、芽心はぼんやりと宙を見つめる。暫くそうしてから、枕元を探って眼鏡をとり、耳にかけた。
家は静かだ。芽心以外誰もいないのだから、当たり前。そのせいか、今日は懐かしい夢を見た。懐かしく、今の芽心には優しすぎる夢。
ふと、左手の人差し指へ目を落とす。
あのとき、花瓶の破片で切った指の傷は影も形もない。
綺麗な指。静かで芽心以外いない部屋。
勉強机に目をやると、黒いデジヴァイスが鎮座している。
今はそのデジヴァイスだけが、芽心のもとにメイクーモンがいたという証で、繋がりとなっていた。
そんなことを考えるのも、あのような夢を見るのも、きっと今日だからだ。
「……八神くんたちは、もう行っているのかな」
八月一日、今日はサマーキャンプの出発日だった。

◇◆◇

「光子郎くん、おっそーい」
「すみません」
光子郎がバタバタと駆け寄ると、ミミはぷっくりと頬を膨らめた。
既に光子郎以外のメンバーとその家族は、集合場所に集まっているようだ。
ヒカリは、母から強く抱擁を受けていた。
「ヒカリ、気を付けて。身体を冷やさないようにね」
「分かっているわ、お母さん」
「太一も」
ヒカリから腕を離し、裕子は太一の肩を叩く。
「ヒカリをお願いね。でも、アンタも無理するんじゃないわよ」
「ああ、分かっているよ」
太一はニカリと笑って見せる。
両親から「テントさんによろしくね」という言葉を受け、光子郎は頷いた。それから、太一の方へ駆け寄る。
「遅くなってすみません」
「また根を詰めて夜更かししてたんだろ」
図星を突かれて、思わず光子郎は目を逸らした。
彼は周囲を見回して、見慣れないバンが止まっていることに気が付いた。
聞けば、西島の手配した車で、御神渓谷まで送ってくれるということだ。
運転手は、西島の後輩だという若い男だった。人の好い笑顔を浮かべる彼も、西島と同じように警察なのだろうと光子郎は想像した。
「どうも、西島先輩はちょっと動けないので、代わりに俺が送りますよ。保護者の方々も、お任せください」
良く言えば、今どきの若者然とした男だ。しかしさすがは公務員といったところか、太一の両親たちへ頭を下げる挙動はキビキビとしていて礼儀正しい。突然の登場に不安を見せていたミミの両親も、少しホッとしたように表情を和らげる。
「行くか」
車に荷物を積み込み、子どもたちは乗車した。見送る両親たちへ窓から手を振り返す。バンは、ゆっくりと発車した。メンバーの一部を欠いたまま。
「来なかったですね、空さん」
「……」
太一は、左隣に座った光子郎に囁かれ、曖昧に言葉を濁した。右隣のヒカリは、じっと外を眺めている。
「しかし丈、荷物多すぎじゃないか?」
一番後ろの席に座っていたヤマトが、一つ前の席に座る丈へ声をかけた。
丈がトランクへ大きなボストンバッグを入れていたのを見ていたのだ。
「救急道具と着替えとブランケットと寝袋と……とにかく必要なものだよ!」
心外だと眼鏡を正す丈の膝には、大きなリュックサックもある。口には出さなかったが、光子郎も荷物が多すぎだと思った。
デジタルワールドから日帰りできたとしても、御神渓谷で一泊する計画だ。適当な場所にテントを張って、そこに幾らか荷物を置く予定でもある。因みに、テントは太刀川家から拝借している。
「さすが丈さん。僕、自分の着替えくらいしか入れてなかったよ」
肩から斜めかけるボディバッグ一つのタケルは、感心しているようだ。ウエストにボディバックをつけているヤマトも同じように最低限の荷物らしく、気まずそうに視線を逸らした。
「そーよ、持ち物って重要じゃない!」
話に参加したのは、丈の隣に座っていたミミだ。彼女も大きなボストンバッグとショルダーバッグをトランクに入れている。二つとも、パンパンに膨らんでいた。
「ちなみに、ミミさんは何を持ってきたんですか?」
「えっとね、着替えでしょ。それと寝袋とレジャーシートとサバイバルセット。あと、調味料!」
「調味料?」
「だって向こうから日帰りできる確証なんてないじゃない? 前のとき目玉焼きの調味料で意見が分かれたから、一通り必要かなって」
「……ちょっと待ってください」
サッと、光子郎の頭から少し血の気が引いた。自分の見落としている点に気が付いたのだ。
「そうだ、すぐ帰れる保証はなかったんです」
「光子郎さん?」
「皆さん、持ち物を確認しませんか?」
光子郎はシートベルトで制限された姿勢で、後部座席を振り返った。タケルとヤマトは少し顔を見合わせる。
「着替えと水筒と、筆記用具だけど。あとおにぎり」
「着替えとサバイバルナイフとハーモニカ」
「何だよ、ハーモニカって」
「良いだろ、別に。そういうお前はどうなんだよ、太一」
「着替えと駄菓子と双眼鏡」
「お前……」
ケラケラと笑う太一に、ヤマトは顔を顰める。
二人のやり取りを眺めていた丈は、まさか、と口元を引きつらせた。
「ちなみに、光子郎は?」
「……パソコン、充電器、その他諸々通信機器です」
額へ手をやる光子郎の様子で、太一も察した。慌ててヒカリにも声をかける。彼女はサブバッグ程度の鞄に、着替えと水筒、そしてカメラを入れていると答えた。
「まさか誰も、食料を持ってきてないのか?」
しん、と子どもたちの間に沈黙が落ちた。
「タケルがおにぎり持ってるだろ」
「今日の分だけだよ。もしデジタルワールドから暫く帰れないってことになったら……」
「調味料はあるのに〜」
ある程度のサバイバルの覚悟はあったが、まさかまた六年前のように食糧捜しから始めるのかと思うと、僅かな不安が生まれる。
「まあまあ、取敢えず、高速乗る前にコンビニでも寄って買えば、」
会話を聞いていた男は、思わず笑みを溢す。その途中、フロントガラスから見える道を見て、言葉を止めた。
少女が一人、親指立てた腕を伸ばして立っている。
それを見つけ、運転手は口元を緩めた。
車が、ゆっくりと停止する。何かあったのかと訊ねようとした太一は、「お兄ちゃん」とヒカリに名を呼ばれたことでそちらに顔を向けた。
太一たちは、目を丸くした。
停止した車は、運転手の操作で自動的に扉を開く。
「空……」
そこに仁王立ちで立っていたのは、空だった。
彼女の足元にはボストンバッグが置いてあり、少し離れたところには両親の姿も見える。
「遅刻してごめんなさい。太一たちのことだから、食料の準備なんてしてないだろうと思って、準備に手間取っちゃった」
「うわあ、空さん正解!」
茶々を入れるミミの肩を引き、丈は彼女を黙らせる。
太一はじっと空の目を見つめた。空も同じように見つめ返す。そして、フッと微笑んだ。
「遅れて、ごめんなさい。もう大丈夫よ」
「……そうか」
太一も表情を和らげる。
空の荷物もトランクに積み込み、彼女が助手席に乗ると車は再び発進した。
「良かったぁ、空さんが来てくれて」
背もたれに体重を預け、ミミは大きく息を吐く。
助手席から少し後ろを見回して、空は眉を下げた。
「芽心さんは来ていないのね」
「ああ……特に返事も来ていないな」
ヤマトはもう一度携帯を開き、未読のメールがないことを確認する。空は小さく息を吐いた。
「私も声をかけたんだけど……」
「やっぱりメイクーモンのことを気に病んでいるのかな」
もっと話をすれば良かった、とタケルは呟く。そうだね、と同意したのは丈だ。
「まだ分からないことが多いからね、メイクーモンについても……」
「……御神渓谷で、何か分かると良いんだけど」
少し沈んだ空気に落ちる車内。思わず視線を揺らした運転手の男は、何かを思い出したように声を上げた。
「そうだ、みんなに渡すものがあったんだ」
男は空に、助手席前方のダッシュボードを開くよう頼んだ。そこには小袋が入っていて、持ち上げた空はずっしりとした重みを感じた。
「西島先輩からの差し入れ」
空はその袋を太一へ手渡す。太一が袋を絞る紐を解くと、白い直方体の形をしたものが手の平に転がり落ちた。
「ワイヤレス無線機。君たち、連絡手段はメールか電話なんでしょ? ウチが最近使ってる無線機だから、性能は保証するよ」
「良いんですか?」
「ま、先輩のポケットマネーだし。それに先輩や俺にもつながるから、何かあったら連絡しなさい。君たちにしかできないことかもしれないけど、全て任せきりにするつもりはないから……大人を頼んなさいってこと」
全て西島からの伝言だと付け加え、男はニヤッと笑った。
西島の後輩は、御神渓谷の入り口まで見送ってくれた。バンに持たれて手を振る彼に手を振り返しつつ、太一たちは久方ぶりの山道を進む。
見憶えのある宿営地に辿り着いたとき、時刻は昼を少し過ぎていた。
荷物を置くテントを張り、軽食を済ました太一たちは光子郎の提案でオーロラを目撃した場所――山の中腹にある祠を目指した。
「あった、あそこだ」
最初に見つけたのは、タケルだった。
彼が指さす方向には、確かに小さな祠が見える。小学生の頃はもう少し大きかったと記憶していた。高校生となった今改めて見ると、大分小さく感じる。
空が折角だからと饅頭を二つ並べて、少し手を合わせた。
「で、これからどうすれば……」
ヤマトは辺りを見回す。
――ピロピロリン。
聞きなれた機械音が、複数聞こえてきた。
太一たちは一斉に、自分のデジヴァイスを取り出した。
「これは……」
デジヴァイスが、光っている。それぞれの紋章色に。
オレンジ色のデジヴァイスが、熱く脈打つ心地がする。太一が思わず握る力をこめると、画面に紋章が浮かんだ。
他の子どもたちのデジヴァイスも同様のようだ。理由が分からず、戸惑っている。
やがて浮かび上がった紋章たちは、太一たちの頭上で円を作るようにして並んだ。光がますます強くなる。それは太一たちの目を焼き、開いているのも困難なほどだった。
太一は顔の前に腕を翳し、目を瞑った。

――……ト。……マト。

「ヤマト」
ハッとして、ヤマトは目を開いた。
網膜を焼き尽くすような光から目を瞑っていた。しかし今目を開くと、溢れるような光は見当たらない。代わりに、網膜へ映り込んだのは、青々とした緑溢れる自然の風景だった。
「ここは……」
緑の地面、澄んだ湖。見覚えのある場所だ。
ヤマトは辺りを見回した。彼の周囲にはしっかり仲間たちがいて、同じように辺りを見回している。
「ヤマト」
声は、近くから聞こえた。
ハッとして、ヤマトはそちらへ視線をやる。
青い毛皮をかぶったパートナーが、湖の畔に立っていた。
「……ガブモン!」
ガブモンの側には、他のデジモンたちもいる。
ヤマトたちは急いでパートナーのところへ駆け寄り、小さな身体を抱きしめた。
「ゴマモン!」
「パルモーン!」
「テントモン!」
泣きながらパルモンと抱き合うミミの頭を撫で、空はキョロキョロと辺りを見回した。太一とタケル、ヒカリも同じ様子だ。
彼ら四人のパートナーだけ、この場にいなかったのだ。
「パタモンとテイルモンは、ゲンナイの家で休んでいるよ」
その様子に気づいたガブモンが言った。
「アグモンは?」
「ヤマトたちが来るって分かる少し前に、パトロールに出かけてたんだ。もう少ししたら帰って来ると思うけど」
「ねぇ、ピヨモンは?」
空が訊ねると、ガブモンたちは少し顔を見合わせた。それからチラリと、空たちの背後へ視線を向ける。
空がそれに気づいて振り返ると、樹の後ろへ桃色の羽根が飛び込んでいくところだった。
「あんな調子なんだ」
追いかけようとする空へ、ガブモンが声をかける。
「自分は、空に会う資格がないって」
ツン、と空の鼻が痛くなった。思わず足を止めた空が胸元で手を握るうち、かさかさと音がして何かが遠ざかって行った。
「ピヨモン……」
緑の隙間から見える桃色の羽根を、空は見つめた。

◇◆◇

「大丈夫かしら、太一さん」
ゲンナイの家の廊下を歩きながら、一人森へ入って行った太一のことをミミは心配していた。

――アグモンを迎えに行ってくる。

そう言い張って、太一はガブモンからアグモンの向かった大体の方向を聞くと、一人で走って行ったのだ。
「空さんも、太一さんにつられて走って行っちゃうし」
彼女の目的も分かる。太一がアグモンを追いかけたように、ピヨモンを追いかけていったのだろう。
危険ではないか、と光子郎も止めた。大丈夫だ、と太鼓判を押したのはゲンナイだ。
「今、この辺りはアグモンたちのお陰で落ち着いている。そう遠くへ行かない限り、危険なデジモンに出会うことはないだろう」
ゲンナイは残りの子どもたちとデジモンを、とある部屋の前まで案内した。彼に促され、タケルがまず部屋に入る。
部屋の左右に、四角い石の台座が並んでいる。台座の上には、硝子のような球体が一つずつ置かれていた。さらに台座には、球体を囲む円と床に伸びる線の模様が彫られていた。
「――パタモン!」
球体の中には、ぐったりとしたパタモンが眠っていた。もう一方の台座の上の球体には、テイルモンの姿もある。
「テイルモン」
タケルとヒカリはパートナーの傍らに駆け寄って、そっと球体に手を触れた。
冷たい硝子の固さを予感していた。しかし、指先に触れたのは、まるでお湯の水面を撫でるような温さだ。
台座の彫刻からは淡い光が漏れており、生命力に似た暖かさを感じる。
「これは……」
「四聖獣の力によって暴走を抑えているのだ。テイルモンは、戦いの傷を癒している」
綺麗な部屋だと感嘆の声を漏らすミミ。辺りを見回す光子郎へ、ゲンナイが説明した。
タケルはそっと、パタモンの頭をなぞるように、球体に触れた指を動かす。
ふるり、とパタモンの目蓋が震え、丸い瞳がタケルを映した。
「タケ、リュ……?」
「パタモン! ごめん、ごめんね、パタモン……」
タケルの姿を認め、パタモンはピクリと羽根を動かした。タケルは手の平で球体を掴み、額を擦りつけた。
「タケル、泣いてる……? なんだ、まだ泣き虫のままだったんだ」
「……うん、そうだね。パタモンのこと、言えないな」
「ふふ。タケルに泣いてほしくないって思っていたのに、今は何だか、嬉しいなぁ……」
「パタモン……」
二人の様子を見ていた光子郎は、キュッと拳を握りしめた。それから肩かけていた鞄を下ろし、パソコンを取り出す。
「ゲンナイさん、少し試したいことがあります」
「何か掴んで来たのだろうとは思っていたよ、光子郎」
ゲンナイは柔らかく微笑んだ。
その表情の意図が読めず、ヤマトは眉を顰めた。
光子郎はタケルの傍らへ向かうと、彼へ手のひらを差し出した。
「タケルくん、もう一度D3を貸してください。今度こそ、成功させてみせる」
「光子郎はん、まさか完成させたんかいな」
「理論上はね」
しかし、一度パタモンの暴走を止めることは失敗している。タケルがもう一度光子郎を信用してD3を渡してくれるか、それは分からなかった。
微かな光子郎の危惧に反して、タケルはすんなりと黄緑色のD3を差し出した。
「信じてます。光子郎さんのことも、みんなのことも」
赤い目尻を和らげて、タケルは光子郎の手に自分のD3を置いた。
ジワリ、とD3を持つに汗が浮かぶ。重い。信頼と信用。しかし、その重みは決して光子郎にとって不快なものではなかった。
「任せてください」
光子郎は胡坐をかいて座ると、足の上でノートパソコンを開いた。D3とパソコンを繋げ、キーボードを叩く。
タケルのD3を通して開いたパタモンのデータ内には、まだウイルスプログラムが発見できた。四聖獣の力とやらで動きは抑制できているようである。しかし、完治というわけではない。
メイクーモンのデータから発見した、プログラム復元データ。それを取り入れた新しい治療プログラムを、D3にインストールする。
パチ、と球体内のパタモンに静電気のような衝撃が走った。
「うっ」
「パタモン?!」
「だい、じょうぶ……」
インストールには一分ほど時間がかかる。その間、パタモンの身体のあちこちで、火花が散っていた。
やがて、火花が収まる。
「――インストール、完了です」
ドキドキと、光子郎の心臓が早鐘を打つ。
タケルはゆっくりと、台座の右上にある四角い彫刻に触れた。ゲンナイが、球体を解除するボタンだと教えたのだ。その通り、シュンと球体は消えてぐったりとしたパタモンだけが台座に残る。
そっと、タケルはパタモンを抱き上げた。
柔らかく、子犬のようにじんわりとした温もり。生きている感触が、タケルの腕に伝わる。
「パタ、モン」
渇いた口を動かして、名前を呼ぶ。
ピクリ、と羽根が動いた。
「……なんでまた泣くの、タケル?」
いつもと同じ、丸い瞳がタケルを見上げてクスクスと笑った。
緑の瞳の端にも雫が浮かんでいるのをタケルは見つけたが、指摘せず強く抱きしめた。
抱擁し合うタケルとパタモンを見上げ、光子郎はホッと息を吐いた。彼を労うように、テントモンが肩を叩く。
パソコンの画面に映るパタモンのデータからは、ウイルスプログラムの痕跡が消えていた。
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