蛇の軍
 ざぶん、と冷たい濁流に身を投げ込まれる。思わず口が開いて、大量の気泡が水面へと逃げていった。直前まで抱えていた温もりの影もなくなって、そのことに少しだけ安堵する。
 コポコポと、耳元で音がした。僅かに揺らめく光りに手を伸ばせど、到底届きそうにはない。それどころか身体はどんどん沈んでいき、目蓋も徐々に重くなる。
(……ぼく、は……)
 ここで死んでしまうのか――何処か安らかな気持ちで呟き、目を閉じる。
 最後に、こちらへ向かって必死に手を伸ばす、赤色の何かが見えたような、そんな気がしたけれど。



 ぱち。目を開くと、見慣れた生成色の天井が広がっていた。それをマジマジと見つめるように二三度瞬きを繰り返してから、瀬戸幸助はゆっくりと身体を起した。気だるげに背を丸めて固いベッドから降り、部屋に常置されている洗面台へと向かう。
思い切り蛇口を開いて流れる水をそのままに、顔を洗う。パシャ。手探りで壁にかけたタオルを取り、顔を拭う。洗いすぎて固くなったタオルに顔を埋め、ふとセトは壁に取り付けられた鏡に目を止めた。
「……」
 黒髪。十代半ばに適当な幼い顔立ち。両の目は、琥珀。
「……」
 きゅ。蛇口を捻る音が、無機質な部屋に響いた。

 戦争とは、この世界では当たり前のものだった。セトが産まれる遙か以前からこの国は、近隣諸国との小競り合いを繰り返している。まるで、それしか知らないように。
 緑のパーカーの上から、黒い軍服を羽織る。その胸元で輝くのは、この軍隊の紋章だ。袖を折り、ゴーグルを首から下げる。これは幼い頃からの癖で、一種のお呪い。
拳銃に弾をこめてスライドさせる。ジャキ、と無機質な音を立てて黒光りするそれを見つめ、セトは一度目を閉じた。手に馴染んだグリップを握りしめ、太腿のホルダーに突っ込んだ。
 セトほどの年頃の少年兵は珍しくない。寧ろ、彼より年下の兵士だって存在するし、セト自身そういった兵士を知っている。セトが兵士となったのだって十になって間もない頃であるし、そもそもここは彼らのような少年兵だけで構成された軍隊である。
「お早う、セト」
「お早うっす、カノ」
 食堂へ向かう道すがら鉢合わせたカノが、ヒラリと手を振った。彼とは、セトが兵士になる前からの付き合いである。もう一人の少女と合わせて、気の置けない幼馴染たちだ。
 制服である上着の下に着た黒いパーカーのフードをかぶり、カノはセトの隣に並んで歩く。二人の着るパーカーは、彼ら幼馴染の目印のようなものである。
「そう言えば聞いた? キドから」
 湯気の立つ朝食のトレイを運びながら、唐突にカノは言った。
キド、とは彼らの幼馴染で、二人が所属する一○七大隊を取り纏める少女大佐・木戸つぼみのことだ。可愛らしい名前に反して、男性用の軍服を常時着用するような男前。
セトは首を振り、カノの向いに腰を下ろした。
「いや、昨日からまだ会ってないっす」
「じゃあ知らないね」
 固いパンを割ってバターを塗り、カノは大きく口を開けてそれを頬張る。行儀悪く、彼はそのまま話を始めた。
「新しい兵が、配属されるんだって」
「へえ」
 頷きながら、セトは味の薄いスープを啜る。パンもだが、ここの食事は温かい以外、褒めるところがない。カノも噛み辛そうに口を動かして、ようやっと喉を上下させた。
「新人っすか?」
「いや、転属」
 名前は……とぼやきながら、カノは次の欠片を口に放る。その答えをセトが聞けたのは、彼が咀嚼してからだった。
「如月伸太郎少佐」

「降格して、今は中尉だ」
 嫌味のつもりかとじと目で見やれば、そういうつもりはないと小さく笑いながら、キドは首を振った。彼女は執務机に手をついて立ち上がり、来客用に配置したソファでだらしなく座るシンタローへ書類を投げ渡す。ローテーブルに落ちたそれを目だけで追い、シンタローはキドに視線を戻した。
「それでめでたく、本日付でお前も一○七大隊のメンバーだ」
「……それは至極光栄」
「口先だけの言葉には慣れている」
 嫌味にならず残念だったなと言いながら、キドはシンタローの向いへ腰を下ろした。シンタローは背凭れから背を離して、机に散らばった書類に目を落とした。顔写真付きのそれらは、彼自身も含まれた、この一○七大隊に所属する兵士の情報だ。
「……鹿野修哉大尉……瀬戸幸助少尉……小桜茉莉伍長……雨宮響也曹長……」
「それと、如月桃一等兵……コイツはよくご存じだったか、兄君?」
「迷惑をかけているようで」
「元気があるのは良いことだ」
 キドの言葉は、遠回しな肯定だ。シンタローは力なく笑って、纏めた書類を机に戻した。そんな彼をじっと見つめ、キドは腕を組んだまま視線をずらす。
「ところで、それは一体なんだ?」
 フードと長い髪のせいで片方しか見えないキドの瞳が、シンタローの隣に立てかけられた黒く細長い袋を映す。シンタローは小さく肩を竦めて、それを隠すように自分の方へと引き寄せた。
「……刀だ」
「ああ、聞いている。剣術の使い手だったか」
「ああ。……もう使うつもりはないが」
 シンタローは目を伏せ、ぎゅっと袋を握りしめた。後半は誰に言うでもなく呟かれたもので、キドも空耳と錯覚しかける。しかし事情がある兵士は他にもいたので、彼女はそれ以上追及しようとは思わない。
「……まあ、お前は殆どデスクワークだろうがな。有効活用させてもらうぞ、その無駄に高いIQ」
 目を細めて笑い、キドはぴ、と指を向けた。書類の写真より濁った瞳を動かすこともせず、シンタローは口だけで笑って見せるのだった。

「夢を見たんす」
 患者用の回転椅子に座り、セトは何処かぼんやりとした表情で言った。横で花に水をやりながらそれを聞いていたマリーは少し手を止め、そう、とだけ返す。
「多分、あの時の……」
 眩しい日差しの入る窓を見つめたまま、セトは左手で顔を覆った。琥珀色の瞳が大きく開かれ、そこに僅かな赤が混じ入る――と、唐突にセトの視界は白い布で隠された。マリーが踵を上げて伸びあがり、セトの頭を抱き込んだからだ。
「大丈夫だよ、セト。無理しないで」
 母が子どもに言い聞かせるように呟いて、マリーはセトを離すとニッコリと微笑んだ。セトもつられて、小さく笑う。
「今日はここまで! これから用事あるんでしょ?」
「そう。新入りの中尉が来るから、キドの部屋で顔合わせ」
 立ち上がって、セトは軽く身体を伸ばす。ああ、と頷いてマリーは半分水の残った如雨露を取り上げた。
「如月伸太郎中尉、だっけ。モモちゃんのお兄さんなんだってね」
「らしいっすね」
 セトはベッドに投げていた軍服を取り、袖を通す。
「どんな人か楽しみっす」
「私はもう会ったよー」
 窓辺で伸びる青々とした葉を撫でながら、マリーはその時のことを思い出したようにフフ、と笑った。へえ、と相槌をしながら、セトはボタンを留める。
「皆みたいに力があるって感じはしなかったな。少しだけ、そんな雰囲気はあったけれど」
「でもこの大隊に配属されたってことは、何かしらあるんすよね?」
「……モモちゃんが言ってたんだけどね、」
 マリーは空になった如雨露を脇に垂らし、少し背伸びをしてセトの耳を引っ張った。セトも膝を曲げ、耳を貸す。
「シンタロー、『あの事件』で責任取らされて、最近まで謹慎してたんだって」
 は、とセトは笑みを浮かべたまま、表情を凍らせた。

「八・一五事件が、シンタローくんの責任?」
 何それ、とカノは呆れた顔でモモを見やった。彼女の隣に立つヒビヤも、年の割に酷く冷めた表情を浮かべている。それに少々顔を引き攣らせ、モモは思わず肩を揺らした。
「ほ、本当です! お兄ちゃん、自分でそう言ったんだもん」
「ま、俺のとこに来た報告書にも、似たようなことは書かれていた」
「ですよね!」
「だが腑に落ちない」
 執務机に並べた書類に目を落としたまま、キドは米神を抑えた。
八・一五事件。当時まだ兵士ではなかったキドたちでも、その名前と概要は知っている。軍本部を、一般市民で構成されるレジスタンスが襲撃したテロ事件だ。レジスタンスのリーダーはその年に死亡したと言われており、組織自体も自然壊滅しただろうという共通の見解が通っている。
「レジスタンスを手引きした、という疑いがあったらしいが……」
「どんな手引きを、とか、証拠とか、一切合切不明なわけ?これ、完全に蜥蜴の尻尾にされてんじゃん」
 キドの視界から報告書を奪ったカノが、呆れの色を増した声を上げる。
「それに、そんな危険人物を、上層部が後生大事にしているこの一○七大隊に配属させたってところも可笑しいよね。その人、赤くないんでしょ、目?」
 ヒビヤも腕を組み、年の割には回転の早い頭から叩き出した疑問を口にした。それにキドは頷きを返す。カノも眉間に皺を刻み、一人目を瞬かせているのは謀が苦手なモモだけだ。恐らくそういった才能は、兄に全て奪われてしまったのだろう。
 レジスタンスと繋がりがあった可能性を持つ男――もしそれがでっち上げだとしても、蜥蜴の尻尾を経て尚、彼が軍部に忠誠を誓っている確率は下がるわけで。そんなグレー塗れの彼を、軍が今まで秘密裏に育て上げた兵で構成するこの大隊に配属させるなど、何の思惑があってのことなのだろうか。
「……それとも『それほどまでの忠誠心』があるから、なのか……?」
 自分で呟いておいてキドは、それは無いなと一蹴した。――もう使うつもりはないが、と、武器を見ながら彼は確かにそう言っていたのだ。軍の忠犬なら、そんなことは言わない。
「……兎に角、この件は保留だな。誰か監視をつけるか」
「僕やろっか? 位も近いし、何かと便利だし」
「そうだな、頼む」
 お安い御用、と笑ってカノは手を振る。実妹のモモは、軍にとって利用しやすい存在。当然彼も警戒している筈であるから、その方が無難であろう。
 そこで一先ず話は終わったと見て、ヒビヤはキドに自分とモモを呼び出した案件を訊ねた。ああ、と頷いて、キドは取り出した別の書類をヒビヤへ渡す。ヒビヤが受け取って目を落としたそれを、モモも傍らから覗きこんだ。ヒクリ、とヒビヤの頬が引き攣る。
「は……何の冗談?」
「残念ながら大真面目だ」
 予想通りの反応に、キドはこっそりと息を吐いた。
「雨宮響也曹長、本日付で准尉に昇格、及び如月桃一等兵の指導役を任ずる」
「……最悪だ」
 改めて言葉で伝えられたからか、ヒビヤはがっくりと肩を落とす。色々と複雑な心境をそのまま顔に浮かべ、モモは恐る恐る手を挙げた。
「た、大佐さん……何で私が……」
「一応、ヒビヤはお前の上司だ。教官だと思っておけ」
「こんな生徒、こっちが願い下げ」
「酷い!」
 見慣れたそんな風景にキドは思わず口元を緩めたものだから、モモに「大佐さんまで!」と泣きつかれてしまうのだった。

 さて、そんな話題の中心である如月伸太郎中尉といえば、噴水が枯れてすっかり人気のなくなった中庭のベンチに一人腰かけていた。左右に視線だけ動かして本当に人の子一人いないことを確認すると、彼は軍服の内ポケットを探り、何かを取り出した。
「……おい、エネ」
 それは手の平サイズの携帯端末で、ツルツルとした画面の中では、今し方シンタローがかけた声に応じて青い少女がクルリと一回転していた。
「はいはい、ご主人ー」
 エネと呼ばれた少女は、ニシシと笑って敬礼のポーズをとる。呑気なものだとシンタローは溜息を吐き、端末を持っていない方の手で膝に頬杖をついた。
「で、どうだ、首尾は?」
「セキュリティはガッチガチですよー。侵入は骨が折れそうです」
「だろうな」
 予想の範囲内だ。あの八・一五事件後から、軍部の情報という情報は管理が厳重になった。表向きは、情報の横流しやハッキングがされぬように、である。その裏の事情を、シンタローは知っている。まあ、どれほど強固な――それこそ鉄扉のようなセキュリティであろうと、エネがすり抜けられぬものはないだろう。
「目当ての情報は手に入りそうか?」
 そう聞けば、エネはシンタローの予想通り悪戯っぽく笑ってみせた。
「解りやすーくロックが何重にもなってるところがありましたから、恐らくそこかと。時間はかかりますが」
「それは構わない」
「あ、それとご主人」
 エネはポンと手を叩き、画面の中に浮かぶアイコンの一つに手を触れた。開いたファイルはメールのブラウザで、新着のマークが点滅している。
「メールです。……あの人から」
「……」
アドレス登録をしていない、サブタイトルもないメール。シンタローは据わった目でそれを見つめた。
「本当にあの人、信用出来るんですか?」
 唇を尖らせ、エネはメールのブラウザに凭れかかる。その不満気な様子に、シンタローは小さく肩を竦めた。
「まあ、百パーは俺だって無理だが」
 今は彼以外、頼れる指針がないのだからしょうがない。
エネはまだ文句を言いたそうにしていたが、素直に口を噤んで身を引いた。シンタローは未開封のメールに視線を戻し、開こうと指を――
「あれ、もしかしてシンタローさん?」
 突然そんな声がかかったものだから、シンタローは大きく肩を飛び上がらせた。慌てて携帯端末をポケットに突っ込んだ彼が顔を上げると、そこに立っていた少年兵はどうかしたのかと言いたげに小首を傾げた。
「えっと……」
 冷や汗を流しながら記憶を探り、シンタローは先ほどキドから見せられた名簿の中からその顔を引っ張り出す。
「瀬戸幸助、少尉……だったか?」
「そうっす!」
 セトはニッと人懐っこい笑みを浮かべた。それに対し、シンタローは苦手な笑顔を何とか取り繕う。見えない筈なのにそれを察してか、携帯端末からぷくく、と笑う声が聞こえた。
「こんなところで、どうかしたんすか?」
「いや、時間があったから、単にブラブラと歩いてただけだ。そっちこそ」
 確か彼とは、数分後に大佐室で顔合わせする予定だ。そう聞くと、セトは小さく笑って頬を掻いた。
「医務室からだと、ここが近道なんす」
「へえ……」
 怪我か病気でもしているのだろうか。そんなことを考えつつ言葉を返して、シンタローは背凭れに背を預ける。
「……」
「……」
 沈黙。気まずい、とシンタローの背に汗が浮かぶ。元々口数は少ない方なのだ。他愛もない世間話すら思いつかない。セトは見た目からしてお喋りでありそうなのだが、とシンタローはこっそり彼へ視線をやった。セトは何処か落ち着か投げにソワソワと視線を動かし、頬を掻いた。
「……あの、シンタローさんは、」
「セトー」
 ようやっと彼が口を開いたと思ったら、そんな間延びした声がそれを遮った。二人して肩を飛び上がらせて声のした方を見れば、将校格の軍服を羽織った青年が手を振って見せる。
「カノ」
「ここにいたんだ。あ、シンタローくんもいる」
 猫のような雰囲気と見た目を持つ男だ。確か鹿野修哉大尉だったか、とシンタローは思い至り、さっさと立ち上がった。
「あ、いいよー。キドと同じく、そういうのなしで。シンタローくんの方が年上だし」
 敬礼しようとする彼に苦笑し、カノはヒラヒラと手を振る。キドからも似たようなことを言われていたし、そもそも畏まることが苦手だったので、有り難いと溢してシンタローは手を下ろした。
 自分より背の高い二人を見やって、カノは丁度良いやと笑った。その顔は、猫というより狐を彷彿とさせた。
「任務だよ。……街で立て籠もりだ」

 一○七大隊――大隊と名はついているが、所属する兵士はシンタローを入れて七人だけだ。
 軍の中でも特殊なこの部隊は、小隊としてどこかの配下に置くと上層部の具合を悪くしてしまう。一つの部隊として独立させるには、大隊の名前が必要なのだ。
 その中でキドとマリーの二名を覗いた五人の兵士が、今回の現場である建物前へと到着したとき、既にそこには別部隊の包囲網が敷かれていた。キドの話では、それはあくまでも包囲網らしく、実際突入して事を収めるのは、シンタローたちに任せられているらしい。
「今回、指揮権は全てお前に委ねる」
 大佐室で大凡の状況を説明したキドは、一束の書類をシンタローの胸に叩きつけた。
「これが一○七大隊に所属する兵士の能力だ」
 早速その実力を見せてみろ、ということらしい。
回想を終え、シンタローは再び嘆息した。簡単に言ってくれる。簡易の指令本部で地図を広げ、シンタローは小さく息を吸った。
 集中し始めた彼の様子を少し離れたところで見ていたカノは、その雰囲気の変わりように思わず口笛を吹いた。それに気づいたセトも視線をやって、へえ、と声を漏らす。
「何かバリバリ集中してます、って感じっすね」
「伊達に元少将ってわけじゃないみたいだね」
「……で、マリーから聞いたんすけど」
「ああ、あの事件への関与?」
 グレーだよ、グレー。素気なく言ってカノは肩を竦めた。
「能力もないって……」
「みたいだね。それは本人に確認したから間違いない」
 嘘を言っていなければ、とカノは心の中で付け加える。
 ここまで足として使った四輪駆動軽汎用車のボンネットに腰を下ろし、暇を持て余したカノは欠伸を溢した。
「カノさん、不謹慎」
「だって暇なんだもん」
 ナンバープレートに足をかけ、カノは膝に頬杖をつく。ヒビヤは呆れたように眉を顰めた。今回の指揮官はシンタローなので、彼の指示があるまで待機であるのは間違いないのだが……些か気を抜きすぎでは、と思うわけである。
「集合。作戦を説明する」
 鋭いシンタローの声が飛び、カノは待ってましたとばかり、ボンネットから飛び降りる。腰に下げた二振りの軍刀にそっと触れ、セトは小さく息を吐くと彼の後を追った。

 数分後、セトはカノと共に息を潜め、外壁に取り付けられていた非常階段の踊り場に膝をついていた。
「……こちらA。準備オッケーだよ」
 イヤホンを手で押さえながら、カノは無線に言葉をかける。少々雑音が入って、シンタローから了解の声が返ってきた。
「いいか、迅速に。人質の救出が最優先だ。主犯は生け捕りにしろ」
 先ほどから繰り返される作戦内容に、セトも小さく了解を返す。無線の向こうで、一人本部に残ったシンタローがカウントを始めた。それが〇を刻んだとき、セトは扉を蹴り飛ばした。
「能力を使うな」
 建物の図面を広げた机の周りに集まったセトたちへシンタローがまず言い放ったのは、それだった。
 キドの言葉からてっきり能力を使う任務――というか、一○七大隊が呼ばれるのは大抵、能力が必要な任務ばかりだ――だと思っていたセトたちは、揃って間抜けな面を晒した。唯一カノだけは、何が面白いのか吹きだしていたが。
「ここに着くまでに、お前たちのデータと関わった作戦の記録全てに目を通して、記憶した」
「あの短時間で……」
 バサバサと音を立てて図面の上に山積みされていくのは、分厚い書類の束ばかりだ。膨大な量だろうに、よくもまあ。そう言いたげな嘆息があちこちで漏れる。成程、流石は元と言えど少将だ。
 カノたちがこっそり感嘆する間にも、シンタローは建物の図面の上に別の書類を置いて話を続けていた。
「それと今回のテロリストたちの動き……この報告を合わせると、お前たちの能力を使う必要性はない……そうだな……精々、ヒビヤ、お前の能力でテロリストたちの位置を知るくらいか」
 名前を呼ばれ、油断していたヒビヤは、傍目からでも解るくらい大きく肩を揺らした。図面に手をついて、シンタローは顔を上げる。
「お前の能力、どの範囲までいける?」
「……あの建物くらいなら余裕」
「ならこれ。テロリストが入口を封鎖するとき、爆風で煽られたらしい。さっきそこで拾った」
 シンタローはそう言って、煤けた麦藁帽子を投げる。風邪に乗って危うい軌道を描くそれを、腕を伸ばして掴み取り、ヒビヤは小さく頷いた。
 麦藁帽子に額をつけて目を閉じるヒビヤを確認し、シンタローは残りのメンバーを見回す。
「無線のチャンネルは八に合わせておけよ。逐一報告を忘れるな」
 右耳にイヤホンを入れ、シンタローの言う通りにチャンネル数を合わせた本体を、上着の内ポケットに入れる。全員がそれを済ませたことを確認してから、シンタローは地図に指を落とした。
「報告では四階で銃撃音がしたとあった……恐らく、人質はそこだ。非常階段を伝って、セトとカノが四階に乗り込め。モモとヒビヤは裏口から一階ずつ見回り、雑魚を黙らせろ」
「一階から三階までは階段に二人ずつ、人質と残りの三人は四階の……ここで固まってる」
 ヒビヤは手を伸ばし、図面の一部屋に指で円を描く。その位置を確認し、シンタローは顎を撫でた。
「オーソドックスだな、有り難い」
「けど一人、変な動きをしてる奴がいるよ」
 吐息を漏らすシンタローにそう言って、ヒビヤはその男の動きを指でなぞった。その軌道を見て、シンタローは眉を顰める。
「……爆弾か」
 思わず舌打ちが漏れる。
 男の足跡は、建物の支柱を選んで辿っているようだ。見回りにしては、可笑しな軌道。奴ら、自爆テロを決行する気だ。だが、だからと言って作戦内容の変更はしない、していられない。
「のんびりはしていられない。すぐに配置につけ、五分後には状況開始だ」
 シンタローは鼻から大きく息を吐くと、そうきっぱりと言い切った。
「結構普通だったね、シンタローくんの立てた作戦」
 薄暗い廊下を駆けながら、カノはのんびりとそんな回想に耽っていた。隣を走っていたセトはその様子を察して、何を呑気なことを、と呆れの吐息を漏らす。
「こんなコテコテの立て籠もりに、トリッキーな案は必要ないっすよ」
「まあ、そうだね」
 人質をとって最上階で立て籠もり。見張りは各階の階段に、左右どちらからの敵襲にも対応できるよう二人ずつ。教科書に載るような基本的行動だ。加えて、建物も自分たちも吹っ飛ばす規模であろう、爆弾の設置。古典的過ぎて、カノは笑いを禁じ得ない。
足音を立てずに走りながら、カノはぴ、と人差し指をセトに突き付けた。
「ここで一つ新しい疑問だ――こんな『コテコテの立て籠もり』に、何故僕らが呼ばれたんだろうね?」
 一○七大隊は所謂、特別部隊。こんな大した策もないテロリスト如きの殲滅を担当すれば、お釣りがでてくるのは必然。だからシンタローは、能力を使う必要性がないと言っていたのだ――まあヒビヤは使ったが――。はたとその事実に気づいて考え込むセトに、カノはこっそりと笑みを浮かべた。
「案外、何かあるかもよ。この建物」
 そしてその『何か』を初めに見つけたのは、年の割に頭のキレる少年兵であった。

「ん? どうかしたの、ヒビヤくん?」
 二階へ続く階段を防ぐ男の喉笛を背後から素早く掻き切ってからモモは、ヒビヤの様子に首を傾げた。持ち前の身軽さとナイフ捌きでもう一人の頭上から飛びかかって喉を裂いたヒビヤは、頬に薄く跳ねた血もそのまま、壁に手を当ててそこをじっと見つめていた。彼の顔を覗きこんだモモは、その瞳が真っ赤になっているのを見て、肩を飛び上がらせた。いつの間にやら能力を発動させていたらしい。
「……ここ、地下への階段がある」
 ヒビヤが指し示していたのは、階段へ続く踊場の壁。モモには何の異常も見受けられない。けれど、彼の言うことに間違いはないのだろう。何せ彼は『目を凝らす蛇の眼』を持つのだから。
「隠し部屋? けど、この建物って元々病院なんじゃ……」
「軍が作って、民間企業に委託した病院だよ。確か……あの事件の少し後に潰れたんだっけ」
「み、蜜柑機能に、魚拓?」
「……はあ、後で詳しく説明してあげるから」
 頭上にクエスチョンマークを浮かべるモモにがっくりと肩を落とし、ヒビヤは深い溜息を吐いた。くい、と彼の親指が示す意味を察し、モモはペロリと舌舐めずり。彼女の蹴りが炸裂し、壁の粉砕する音で建物が揺れたのは、それからすぐのことだ。

 ぱら、と振動で零れた埃が、カノの肩を汚した。
「……何してんだろうね、キサラギちゃんたち」
「こけたんじゃないっすか?」
 よっ、と掛け声を漏らしてセトは気絶する男に縄を巻き付ける。この男が主犯だと判明するや否や、周りの二人の首を刎ねたセトたちは、その勢いのまま彼の鳩尾に膝を叩きこんだのだ。
 飛び散る血に怯えていた人質を非常階段から逃がしたのは、営業スマイルを全開にしたカノだ。
 残る敵は階段を見張る二人と、爆弾を仕掛けに建物内を徘徊しているらしい一人だ。前者はヒビヤたちに任せるとして、さっさと後者を捕まえて爆弾を解除しなければ。
「さて、何処に行ったのやら……」
「思ったんすけど、カノ」
 縄で縛り上げた主犯を部屋の隅に隠したセトが、ふと口を開く。
「こんなおんぼろビル、テロリストの爆弾で解体してもらえば、解体費浮くんじゃないっすか?」
「ああ、それ良いかもね!」
 馬鹿なことを言うな! ――恐らくキドがいれば飛んできただろう怒声と拳を想像して、二人は顔を見合わせた。ちょっと笑って、肩を竦める。
「おい、今の音は……て、」
 何だこれは! と慌てふためく声が、その和やかな雰囲気を壊した。揃って視線をやれば、銃器を抱えた男が二人、部屋の入口に突っ立って、広がる惨状の痕に顔を青くしている。やや鈍い頭が、この惨状を造り上げたのが目の前にいるセトたちだと弾き出すと同時に、男たちは二人へ向けて引き金を引いていた。
「わ、と」
「キサラギちゃんたちは本当に何をしてるんだか……」
 恐らくあれは見張りの二人、ヒビヤたちの獲物の筈だ。カノの口から嘆息が漏れる。
「言ってる場合じゃないっすよ」
 飛んでくる弾が当たらない距離まで飛び退り、セトは軍刀を抜いた。だよねー、とそれに軽い返答をして、カノも抜刀したダガーを煌めかせた。

 コツ、と踏み出した足音がやけに大きく反響した。
「うえー、埃だらけー」
「潰れてから、誰も来てないみたいだね」
 一歩足を進める毎に立ち上る埃に噎せながら、モモは壁に手をついて階段の突当りにあった部屋へと入る。一足先に入室していたヒビヤが、爆弾に点火するために常備しているライターで辺りを照らした。
「入口を固めて隠したってことは、もう誰もここに来る予定がなかったってことだろうけど」
 揺らめく炎が照らすのは、散乱された紙やら試験管やら。それらのせいで、研究室のような印象を抱かせる。ヒビヤの後について歩きながら鼻を摘まんでいたモモは、小さく首を傾げた。
「潰れちゃったからじゃないの?」
「つまり、誰が来るかも解らない状態のまま放置できない部屋ってことだよ」
 病院として機能しなくなったこの建物、いつ誰が迷い込んでも可笑しくない。関係者以外の目から隠したかったこの部屋は、何やら事情がありそうだ。
「兎に角一度みんなに連絡を……」
 無線の通信ボタンを押そうと耳元に手をやったヒビヤは、ふと中途半端な位置でそれを止めた。彼の行動に首を傾げ、モモはじっと止まったままの視線の先を追う。
「この人は……」
 二対の瞳の先、壁に近い床に転がっていたのは、真っ白な青年だった。
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