妖姫歌(1)
月がキレイだ。満月の金色が、藍色の夜空によく映えている。
「…なに考えてんだ」
ベッドに座り込んで、窓辺に頬杖をついていたら、背後から抱きしめられた。背中に密着し、項に顔を寄せてくるその様が犬のようだと、呑気に思った。
「…別に。ただ、月がキレイだと思っただけで…」
「…ふーん…」
気のない返事。本当に他人のことに興味のない人だ。
「…」
「ちょ、…っと。なに、を………っん」
グッ、と回される腕に力が込められたかと思えば、ピリッとした痛みが首筋に走った。ポタリ、と白いシーツに赤い染みができる。つぅ……、と首筋から鎖骨にかけて落ちていく雫を追って、赤い舌が肌を滑った。ゾクリ、と背筋に悪寒が走る。
「ん…や…ぁ」
何度も鎖骨から首筋を嘗めあげられ、体の震えが止まらない。振り払おうと上げた手を取られ、向かい合わせにさせられる。
「……」
「あお……っん」
言葉を紡ごうと開きかけた口を塞がれ、そのまま押し倒された。冷たい夜風に押され、白いカーテンが舞い上がる。鉄臭さに噎せながら、潤んだ瞳はそれを捉えた。青い髪の隙間から、やけに黄色い月が、嘲笑うかのように輝いているのが見えた。
◆
このままではダメだと思った。自分にとっても。彼にとっても。だから、逃げたのだ。
「……っはぁ」
普段あまり運動しないせいか、それとも右足にはめられた重い枷のせいか、息が上がるのが早い。裸足なので足元の草が皮膚を何度も裂いている。小さな痛みなので、走れないことはない。
時刻は夜。周囲を照らすのは半月の明かりのみ。追手の声はまだ聞こえない。これなら、何とか逃げ切れそうだ。
そう思った瞬間、頭上から降り注いでいた月光が何かに遮られた。
「見ーっけ」
幼子のような口調。一番厄介なのに見つかってしまった。咄嗟に前に飛び込む形で身を低くする。だけのつもりが、二三度前転をする形になってしまい、あちこちを擦りむいてしまった。
一瞬、間が合って、先ほどまで立っていた場所の地面がえぐられた。
同時に立った砂煙の所為で、口に砂利が入る。
体を起こして必死にそれを吐きだしていると、目の前に誰かが立った。
「……っ」
「つーっかまえた」
ゾワリ、と嫌な風が背筋をなめる。短く切った髪を掴まれ、頭一つ分以上ある身長差をものともせずに引きずりあげられた。
「…いっ」
「だめでしょー逃げ出しちゃー」
オレが怒られるんだから、と口を尖らせる様は、本当に幼子のようで。それ以上に彼の純粋な残酷さが見え隠れしていた。
「あっ…」
突然体が宙に浮いたかと思うと、ドサリ、と地面に叩きつけられる。
「まだかなー、皆」
どうやら、彼が一番初めについたらしい。やってきた方向を見つめ、つまらなさそうにぼやいている。その隙に逃げようと体を起こす。
グサッ
彼の隠し持っていたナイフが、右手を地面に縫い付けた。
「…!あ、ああああ!!!!!」
「あはは。良い声」
頭上から、陽気な声が降ってくる。彼はこの状況を楽しんでいるのだ。ギリリと、奥歯をかみしめる。こんなところで、捕まるわけにはいかない。痛みに耐えつつ、手と地面を繋ぐナイフの柄を掴む。奥歯をかみしめ、痛みに耐える準備をしてから、一気に引き抜いた。
「うっ…」
ズルリ、と嫌な感覚が腕に伝わる。あーらら、と残念そうな声を聞きつつ、立ち上がった。キッと睨んで、血まみれの手でナイフを向ける。それを見て、心底面白いとでも言うように彼は微笑んだ。
「やっぱさ、オイタが過ぎる子にはオシオキ、だよね」
闇夜に、物を切り裂く音と血が吹きしぶ音。
それからしばらく経って、水に何かが落ちる音が響いた。
「あーらら」
崖から眼下に広がる黒いうねりを見て、彼はそう呟いた。
「怒られるなー」
◆
木の葉の間から、朝の日光が降注ぐ。川のせせらぎ以外、音のしない森の中。そこを歩いていた青年は、ふと川辺になにか白いものを見た気がして、足を止めた。
元々、水を酌みに来たので、彼の用事は川にある。けれど、それは水の澄んだ上流であって、こんな中流ではない。彼は暫く考えた末、飲めればいいか、とそちらで酌むことにした。とは建前で、その白い物体を確かめるためである。
ガサリ、と草を踏む音がやけに大きく聞こえた。
「…っ」
彼は思わず息を飲んだ。
川岸にもたれかかるようにして引っ掛かっていたのは、人間。
まだ、少年だ。水色の髪に白い肌。頭まで水に浸かっていたらしく、前髪は額に張り付いている。気絶しているようで、両の目は固く閉ざされていた。
よく見ると、その少年の周りだけ水が濁っている。赤い。少年の真っ白い服もまた、赤い。
「……」
彼は水を酌むのを諦めると、少年の肩と膝裏に手を回し、抱えあげた。服の布地が水を吸っているが、それほど重くない。少年の軽さに呆れながら、彼は家路を急いだ。
◆
一年後。川のせせらぎしか聞こえない森のなか。
中流であるその川岸に、一人の青年がもたれ掛かるようにして水に浸かっていた。
赤い髪は濡れて、ベッタリと顔に張り付いている。紅蓮色の服には、微かな真紅が混じっていた。
「……」
川辺に立って、その青年を見下ろす影が一つ。
白い肌と水色の髪を持つ彼は、手に持っていた水瓶を地面に置くと、青年の肩に腕を回した。
時間が、動き始める。
初出2011.04.06