ロストメモリー
(光太)



走る。

運動不足の体はすぐ根を上げ、息を切らせた。額から落ちる汗が煩わしい。それ以上に忙しない鼓動が耳障りだった。履き古し色褪せた靴が煉瓦の道を蹴って固い音を響かせる。早く、早く。自身の足の遅さを叱咤しながら、浅くなりがちの呼吸を深くする。
狭い路地の終わりが視界に入って、小さな安堵が心には生まれた。しかし開けた場所に飛び込んだ途端、それは絶望に塗り替えられる。

ひそひそと遠巻きに言葉を交わし合う野次馬。その先に居るのは、スラム街にしては小綺麗な服装をした男と、その傍らに控える馬車。その前には粗末な服を着た女性が顔を覆っている。そして今、男に促され馬車に乗り込もうとしている少年―――その姿に、自分が遅すぎたことを知らされた。

「――――!」

思わず叫んだのは少年の名前で、しかし色んな感情の混じった熱は喉をひきつらせ、結局辺りに反響したのは意味を持たない、ただの音だった。
その場にいた全ての人間の視線が集まる。肩で息をし、それを全身で受け止めながらも、見つめるのは一人だけだ。
ともすれば睨みつけるようなそれに気づいた少年は、からりとした笑顔を浮かべた。

「じゃあな、光子郎」

それがあんまりにも自然で、常日頃彼が浮かべるそれと変わらないものだったから、思わず脱力した。ぺたりと座り込む間に、少年は男と共に馬車に乗り込み、直ぐ様鞭が振るわれる。
無意識に耐えていたのだろう、目尻から頬へ落ちる涙の温もりを感じながら、呆然と小さくなる馬車を見つめることしか出来なかった。

***

この世界は一人の神と四人の天使によって創造されたらしい。他愛ないお伽噺のようなそれは、この世界に住む者達にとっては真実だった。伝説に拠れば、世界を創り終えた神は天上へと帰り、四人の天使達は地上に留まった。その四人の天使は今でも、この世界のどこかで神の啓示を待っている。

誰もが知るお伽噺を頭の中で復唱しながら、光子郎は周りと一緒に腰を屈め頭を垂れた。新米学士十数名が敬意を表す中、固い音を響かせて現れた人間が一人。光子郎と年は然程離れていない青年で、彼は両脇に騎士を引き連れて登場すると、学士達の前で立ち止まり、その純白のマントを翻した。

あのお伽噺がお伽噺で片付けられないのは、確かに天使の転生者が存在しているからだ。天使達には其々神から与えられた紋章があり、それを証として躯のどこかに刻んでいる。
今、光子郎の前に立っている青年はまさしく、太陽の『勇気』を持つ天使で、この国の現王―――そして五年前、光子郎の目の前で姿を消した幼馴染み、太一その人であった。

***

太一が王都に連れていかれたと、教えてくれたのは風の噂だった。遥か遠くに、立派な宮殿の頭だけ覗かせるそこを見つめ、光子郎は彼を追いかけることを決意した。
元々頭の出来は良かった光子郎は、僅か五年の内に教育課程を全て終え、それが認められて王宮直属の学士のメンバーに抜擢された。王都に住み、そこの学舎で勉学に励めるという優遇がされるものだが、更にそこで実績を出せば王宮仕えも望める。彼の専修は理工学と軍事学で、特に後者は重宝されるものだ。光子郎の狙いはそれだった。太一の隣にもう一度立つ為、彼は今ここにいる。

「…お久しぶりです、太一さん」
「…」

選抜学士の特権である王宮図書館の出入り。早速そこへ出向いていた光子郎は、偶然にも彼と出くわした。
二人以外誰もいない、広い廊下。そこで立ち止まって向かい合って。懐かしさに頬を緩め声をかけた光子郎を、太一はきょとんとした表情で見返した。

「…どこかで会ったか?」

申し訳なさそうに眉尻を下げて告げた彼の言葉に、光子郎はあの時と同じ絶望感を味わった。

大臣に呼ばれた太一が他人行儀に会釈をして去っても暫く、光子郎は借りたばかりの本を抱えたまま動けないでいた。ぐるぐると頭の中では、太一の言葉ばかりが回っている。彼が光子郎のことを綺麗さっぱり忘れているだろうことを、簡単に予想してしまう自分の頭が、今は疎ましい。でも、何故。

「仕方ないんです」

鈴を転がしたような声に、光子郎は我に返る。白金色のシンプルなドレス姿の少女が、足音を立てることもせず、いつの間にか光子郎の目の前にいた。

「ヒカリさま…」

呆然とした心地で光子郎が呟くと、少女は小さく微笑んだ。彼女は名高い預言者で、太一の実妹だった。最も、光子郎は田舎で彼女の姿を見たことはないが。

「光子郎さんですね、お兄ちゃんのお友達の」
「…まぁ」

渋く顔をしかめる光子郎に苦笑し、ヒカリはこれをと彼に橙色の硝子玉を握らせた。

「これは…」
「お兄ちゃんの記憶の結晶です」

驚く光子郎を澄んだ瞳で見返し、ヒカリは淡々と事実を述べる。まるで、他人のことを語るかのように。

太一もヒカリも、王位継承者と田舎娘の間に出来た子供だった。産まれてすぐ預言者の才を見抜かれたヒカリは王宮へ。その後、天使と判明した太一が来るまで一人、高い塔の最上階で暮らしていたのだと言う。
天使の一人、そして紛れもなく王位継承者である太一を逃がさない為―――それはヒカリを高塔に閉じ込めていたのと同じ理由だ―――元老院の術者達は彼の記憶を結晶化して、破壊した。もし何かのきっかけで思い出そうとした時、すぐに消去される呪いもつけて。

「残ったのはそれだけです」

きらきら散らばる花片の中、ただ一つ形を保ったまま、ひっそりと。きっと、一番大切な思い出なのだろう。

「…それをどうして僕に?」
「…なんとなくです」

硝子のように透明感のある笑みを浮かべ会釈をすると、ヒカリはまた静かに歩き出した。その背中を思わず睨んで、光子郎は手中の結晶に目を落とした。

***

学士達には一人一部屋が与えられる。狭いそこを蝋燭を灯して照らし、光子郎はふぅと息を溢した。机に重ねた分厚い本の数々。それらに混じるようにして硝子玉が転がり、橙色の光を乱反射する。それをじっと見下ろし、光子郎は小さく拳を握りしめた。

淡い恋心、というのだろう。そんな感情を抱いたのは、まだ幼い時だった。気の迷いと言えばそれまでだが、それでも今日再会して確信した。これは気の迷いなんかじゃない、と。
だからこそ怖い。彼が、一番守りたかった想いの塊が、その思い出を見るのが。

(…けど見方なんて解らないし、第一他人の記憶を勝手に見るなんて失礼ですよね…)

深い溜息を溢して顎を机に乗せた光子郎は、何気なく結晶を手に取り、揺らめく蝋燭の火に透かして見る。綺麗な、綺麗なオレンジ色。

「…」

結晶を挟んだ人差し指と親指に力を込める。すると丸みを帯びていたそれはツルンと滑り、光子郎の手から床へ落下した。慌てて腕を伸ばすが遅く、焦げ茶色の床と衝突した結晶は氷のような音を響かせながら、煌めきの破片を辺りに撒き散らした。

比喩なんかじゃない。火打石から飛び出る火の粉のような煌めきは、小さな映像と音を伴って光子郎の顔を照らす。



―――光子郎早く来いよ
―――待って下さい、僕あなたみたいに体力ないんです
―――楽しいのか、それ
―――ええとても
―――変な奴
―――光子郎、大丈夫か
―――僕より自分の心配して下さい
―――俺は平気だって
―――そんな筈ないです
―――心配性だなぁ光子郎は



それは太一の声。太一と光子郎の声、そして思い出。光の渦はまるで流星みたいに飛び回り、光子郎の目に映像ばかりを映す。



―――綺麗だろここの景色、二人だけの秘密だ
―――…はい



「…約束です」

思わず呟いた言葉は映像のそれと重なった。

かくりと膝をつく。流星は未だ止まるところを見せず、くるくると光子郎の前で回っている。

―――俺、光子郎のこと好きだぜ

ば、と顔を上げる。きらきら光る太一が、積まれた本を見つめて、そこにいた。これは、太一の想いだ。

―――本に熱中してる姿も、俺のこと心配してくれるのも
―――迷うなんて俺らしくないけどさ、さすがに躊躇ったよ
―――けど、こんなことになるなら言っとけば良かったのかな

つい、と背表紙をなぞる。それから光子郎の方へ顔を向けた太一は、見えない筈なのに、確かに光子郎を見つめていた。

―――抱き締められたい、って思う俺は、気持ち悪い?

瞬間光子郎は彼に向かって腕を伸ばしたが、胸に寄せる前に光は消えた。先程よりも濃さを増した暗がりの中、床に膝をついて、光子郎は決して掴めなかった太一の体を強く抱き締める。

「…気持ち悪くなんかない…僕も、同じです…」

ぽたぽたと涙が落ちては、既に輝きを喪った結晶を濡らした。

「…あなたが、好きです…」

鼻声混じりのそれが決して届くことはなく、蝋燭は静かに震える背中を照らしていた。

やがて光子郎は軍事の才を認められて重用され、王の右腕と呼ばれるようまでになる。だが、彼の望みが全て叶うことはなかった。



fin.



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実はタケ大中心の長編パロの番外。健啓とか輝拓も混ぜたい
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