雨垂れの鎮魂歌
(大人光太)



何時からなんて知らない。気がついた時には既に抱いていた恋心を、捨てきれずに早数年。そういった意味で触れたのは、一回だけ。

「…光…子郎…?」

触れた唇を指で覆い隠し、行動の意味を図り予ているのかきょとんと見つめてくる瞳に。笑える程はっきりと、血の気が引いていくのが解った。

「…す、すみません!」

それからはもうただ、平謝りだ。膝を折って掌と額を床につけひたすら、それ以外言えないのかと問われてしまいそうな程、何度も。初めは理由を問うてきた太一も、謝罪の言葉しか呟かない光子郎の態度に諦めたのだろう、小さく息を溢し、もういいよと、それだけ。すみません。下唇を噛み締め、蚊の鳴くような声で光子郎はもう一度だけ呟いた。苦笑したような声を溢す太一の、今の表情を見たくなくて頭を上げることが出来ず、暫くの間じっとフローリングの木目を見つめていた。

それは確か、光子郎が高校に入学した年のことだ。きっかけや理由なんて、当の昔に忘れた。ただあの瞬間の、腹から頭にかけて駆け上った熱の感覚だけは、今も消えずに脳裏に焼き付いている。










雨垂れの鎮魂歌










唐突に思い出した苦い思い出に顔をしかめ、光子郎はハンドルを握る手に力をこめた。フロントガラスには絶え間無く雨粒が叩きつけており、世話しなく動くワイパーを嘲笑っている。はっきりしない視界、中々変わらない赤信号、雨天による渋滞。全てが通常よりも遥かに光子郎を苛立たせており、滅多にしない舌打ちをさせる始末だ。後部座席には本年四歳になる娘が座っており、ミラー越しに落ち着かない父親に対するうんざりとした顔が確認出来る。しかしそれに構う余裕も、今の彼にはない。やっと変わった信号に眉をひそめつつ、光子郎は違犯しない程度で全速力がでるよう、アクセルを踏んだ。

あの日の小さな過ちを、あの人はいつもの寛大な心で許してくれたらしい。それからも二人の関係に何一つ変化はなかったからだ。変に避けられるよりはマシだと思ったから、光子郎の方からも特に言及はしなかった。親しい先輩後輩の関係はそれからも続いた。
そんな太一が結婚すると聞いたのは、ヤマトと空の結婚報告が知らされて暫くたった頃だ。職種は違えど共にデジタルワールドに関わる身故、度々顔を合わせていた光子郎は、他の仲間達よりも早くその相手を知っていたし、会ったこともある。花の香りと笑顔がよく似合う、普通の女性だ。太一に相応しい人だと光子郎は思った。

光子郎が結婚したのもその頃で、相手とは上司の薦める見合いで出会った。正直に言えば太一の結婚報告で半分自棄になっていたのかもしれない。あっさり決まった結婚はその数年後、娘が産まれて二年してあっさり終わった。
元来、人よりパソコンと向かい合う方が好きな光子郎だ。更にデジタルワールドの研究で家にはほとんど寄り付かない。そんな擦れ違う毎日に、結婚生活に愛を求めていたロマンチストな妻は、さっさと愛想をつかしてしまったらしい。それでも構わないと思ってしまう辺り、光子郎にも非はあるのだろう。
そんな女であるから娘を引き取ろうとするのは当然だったが、悲しいかな娘のほたるも父光子郎と同種、つまり対人関係よりも知的好奇心探求を優先する人間だったのである。別れる理由がそれだった為に女の心境は図り知れず、齢二歳にしてパソコンに興味を示す愛娘と離婚届を元夫に残して、彼女は家を出て行った。

「光子郎くんも、太一くんのことが好きなのね」

また赤信号。車を止め光子郎は額をハンドルにぶつけた。今日はとことんついてない。嫌なことばかり思いだす。

あのふんわりとした笑顔が憎らしいと感じたのは、後にも先にもその時だけだ。初めて会った日、太一が少し席を外したのを見計らって彼女は言った。その唐突さに光子郎は焦り、なんとかティーカップを置いて惚けるくらいしか出来なかった。そんな彼の態度を見て、彼女は小さく笑った。その自信ありげな態度に、思わず光子郎は訊ねてしまう。何故そう思うのかと。それが彼女の言葉を肯定することになると、気づかないふりをして。

「だって太一くんを見る目が同じだもの」

誰の、とは知れたこと。光子郎はただ、午後の陽射しを受けて煌めく、水面のように澄んだ瞳を見つめていた。まるで心の奥まで見透かされそうなその色を、光子郎は一生好きになれないだろうと感じる。それが表情に出ていたのだろう、彼女は小さく苦笑した。

「ごめんなさい、からかって」
「いえ…」
「でも…」

笑いながら溢された言葉を、光子郎はあの時確かに信じていた。

「あの人を手放す気はないから」
(嘘つき…)
「お父さん」

回想から現実に引き戻したのは娘の声で、青の光を視認した光子郎は慌ててアクセルを踏んだ。

それから暫くして着いた目的地は病院で、雨の所為か不気味さが漂っている。それを見上げた光子郎は静かに唇を噛み締めた。ほたるを連れ、案内された病室に入る。既に知り合いが何人かおり、光子郎に気づく者はいたが、ほぼ全ての人間が頬を涙で濡らしていた。その中心とも言える場所で、部屋に一つしかないベッドの傍に座っているのは。

「太一…さん…」

名前を呼べば気づいたように振り向く。その顔は確かに笑みを浮かべていたが、目尻は赤い。彼にそんな顔をさせるあの人が、心底憎らしかった。

***

久々の休日、天気は雨。晴れていたら遠出をしようと約束していたので、がっかりしないと言えば嘘になる。渋い顔をする太一の心情を察してか、彼女は小さく笑って提案した。

「お買い物行きましょう」

まだ幼い太陽を腕に抱き、傘をさす彼女と並んで歩く。太一は太陽が濡れないよう傘を調節するのに手一杯で、買いだめした食料品は彼女が持っていた。太一がそのことを詫びると、彼女はふんわりとカールした髪ごと首を揺らす。

「でもちょっと残念」

くしゃりと笑う彼女に同意して、太一は灰色の雲から滴り落ちる雨粒を見つめた。晴れたら海に行こうと約束していた。けれどこの天気じゃ、逆に危険だ。

「また日はあるさ」

もう少し太陽が成長してからでもいい。まだ時間はある。すぐに切れてしまうような関係性では、ないのだから。

「俺達三人、ずっと一緒さ」

それが家族というものだ。彼女はちょっと笑って、そうね、と呟いた。それからまるでステップを踏むように一人先を行き、そして唐突に立ち止まる。振り返った彼女は笑っていた。どこか子供っぽい、透明な水を思わせる笑顔。太一が愛しいと思った笑顔だ。

「それ、すごく素敵ね」

心底嬉しそうに言うものだから、太一も笑みを浮かべしっかりと頷いた。…正確には頷こうとした。しかしその直前に目に飛び込んできたのは、彼女の背後に迫る無人のトラックで。

「―――!」

雨音の所為で、誰一人気づかなかった。暴走したトラックのタイヤが擦れる音も。太一が彼女の名前を呼ぶ声も。彼女が、最期に呟いた言葉も。

「…ふぇ…ぅああああん!!」

激しい轟音。それに驚いた太陽の泣き声を聞きながら、太一は雨と共に排水溝へ流れていく赤を、呆然と見つめていた。

***

彼女に、身寄りはいなかった。太一の家族と友人達、そんな少人数が参列した葬式は雨の日に行われた。幼いながらにも雰囲気を感じとったのだろう、泣きじゃくる太陽を、その背を撫でながら抱き締め、太一はじっと式の進行を見つめていた。目尻が赤いのは変わらない。本人はあの日に泣き尽くしたと軽口を叩いていたが、嘘だろう。仲間にも息子にも隠して、毎夜泣き暮らしていることは何となく察せられた。

そんな彼を雨の中、レインコートを着た娘の手をひき傘をさしたまま佇んで、光子郎は見つめていた。お父さん、とほたるが袖を引く。それに生返事をして、光子郎はやっと太一に背を向けた。

女々しい奴だと、自身で何度も罵った。不可抗力とはいえ裏切った彼女が、恨めしいなんて。でもそれは検討違いも甚だしかったのだと、光子郎は葬儀を訪れてやっと理解した。あの日、あの人によく似た陽光の降り注ぐ中で宣言した彼女の言葉は、本当だったのだ。

(死んでもなお、太一さんの一番近くにいるんですね…)

その心に恐らく一生留まり続ける。それが光子郎には腹立たしく憎らしく―――確かに羨ましかったのだ。

***

暖かいコーヒーから立ち上る湯気が、あの日の線香の煙とダブる。振る舞われたそれに手をつけずただ見つめていたら、冷めるぞ、と苦笑を溢された。軽くトリップしていた光子郎は我に返り、慌てて温いカップを持ち上げる。一口含んでからミルクも何も入れていないことに気づいたが、別に飲めないわけではないのでそのまま嚥下した。ふと視線をそらせば、親達が向かい合うダイニングテーブルの横でじゃれ合う子供達の姿が目に入る。三歳差ということもあってか、ほたるがまるで太陽の姉のように見えるから微笑ましい。

「悪い、少し外すな」

仕事の電話だろうか、着信音の響く最新機種を振り、太一は申し訳なさそうに断ってから自室へと下がって行った。その背中を見えなくなるまで見つめていた光子郎はそのまま首を曲げて、仲が良さそうな子供達を見やる。それは、単なる思い付きだった。

「ほたる、弟が欲しくはありませんか?」

ピタリ。太陽をあやしていた手を止め、ほたるは父を見上げる。その瞳はあまりにも真剣なものだったが、光子郎も恐らく同じような瞳をしていたことだろう。思い付きではあるが、本気だったのだ。

「…私をダシにしてもいいけど、泣かせたら怒るよ」

その年には似つかない、冷えた声だった。太一が電話を終えて戻ってくるのと入れ違いに、ほたるは太陽の手を引いて公園で遊んでくると家を出て行く。ほたるがしっかりしていることを太一も知ってはいたが不安なのだろう、大丈夫だろうかと、眉尻を下げて光子郎を振り返った。大丈夫でしょうと適当に返して、光子郎は冷えたコーヒーの水面を見下ろした。放任主義にもとれる光子郎の返答に呆れつつ、太一は彼の向かいに座り直す。

机の上に何気なく置かれた左手の、薬指で煌めきを放つ銀。それを見た瞬間、あの時感じたのと同じ熱が、光子郎を突き動かした。





――――――――――
デジモン03の裏設定です。別にこれ読まなくても話は通じますが。書いてる奴が腐ってるからしゃーない。一応この後の設定としては、光子郎さんはプロポーズして指輪まで渡す、太一さんは返事をしないまま指輪を鎖に通して首から下げてる。ほたるは太一さんLOVEな感じで。03の方でうっすらこれを反映した描写が出てきたら生温かい目で見て下さい
×
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -