妖姫歌(3)
「うぉっ?!」
「滑り落ちるなよー」
此処らは湿地だから、と言って伊月は先頭を、慣れた足取りで歩いていく。間一髪木の枝に捕まった火神は、早く言って欲しかった、と心の中で毒づいた。火神の少し前を、慣れない足取りで歩く黒子に、日向が手を差し伸べる。
「平気か?」
「…っはい、何とか」
やはりというか、体力がないらしい。けれど此の障害物だらけの獣道は、体力に自信のある火神でもキツい。慣れていなければ、簡単に木の根や泥に足を取られてしまうのだ。伊月の家は山の中腹。麓の街に降りるだけでも一苦労である。
火神は木の幹に手を付き、足を止めた。顎から滴る汗をぬぐっていると、さらさらとした流水音が耳に届いた。ふと左を見れば、背の高い草に隠されるようにして、細い小川が流れている。
「…日向先輩」
「ん?」
立ち止まった火神を待っていた黒子の隣で、日向は顔を火神に向けた。
「此の山の川って一本ッスか?」
「ん、ああ。あの小川はお前の流された川が、細くなった奴だ」
「…服、汚したらすいません…」
「は、火神?!」
日向の制止も聞かずに、火神は小川に向かって飛び出した。しかし、直ぐに腕を捕まれそれを止められる。
「黒子…っ」
「まだ怪我が治ってないのに、体を冷してはダメです」
平気だと言っても、黒子は頑として手を離そうとしない。剣はともかく、指輪は小さい。何処かの岸辺に引っ掛かっているかもしれない。可能性があるなら。
「黙ってられるかよ!」
火神の剣幕に驚いた黒子は、肩を飛び上がらせるも、きゅっと服を掴んだ手を離そうとしなかった。流石にこれ以上怒鳴る事は出来なくて、火神は仕方なく飛び出すのを諦めた。名残惜しそうに小川を見つめる火神に気付いて、伊月は溜息と共に肩を下ろす。
「しょうがない。オレの出番かな」
首を傾ぐ火神の前で、お前も充分甘いよ、と日向に毒づかれながら、伊月は口元に木の葉を当てた。
ピュイー……
風が吹き抜けてくみたいな音が響く。音色は直ぐに、辺りに溶けて消えた。暫くすると、バサバサと大きな羽音がして、伊月の肩に黒い何かが舞い降りる。子供1人程の大きさの其れは、漆黒の翼を持つ鳥。
「オレの使い魔のイーグルだ」
「魔導師…っ?!」
正解、とでも言うように、伊月は片目を瞑って見せた。
世界には、神聖とされる役職が4つある。聖騎士――神を守護せんとする騎士たち。聖職者――神を崇め称え、御言葉を聴く者たち。王――神に選ばれ、神の御力を授かった人を統べる者。そして、魔導師――神の御力を独自に手にした為、咎人等と言われることもある、王の次に神に近い人間。多くは使い魔と呼ぶ動物を使役し、力を使うと言う。
伊月はイーグルを空高く舞わせると、自らの右目を手で覆った。
「…うん、此処らにはないかな」
「へ?」
「あの鷲――イーグルの視界は広いんだ。で、奴の見ている物は、オレの目でも見える。これなら、誰も風邪引かないだろ?」
分かったらさっさと山下るぞ。傾きかけた太陽をみて、伊月は足を早めた。日向たちも、慌てて後を追う。
「ん?」
火神は先程の小川に何かいたような気がして、しかし改めて見ると何も無かったので、大分先を行く三人を追いかけた。
黒い翼が小川の水を飛沫上げたのは、其の直ぐ後だった。
◆
結局、日向たちが誠凛に着いたのは、日が大分傾き空を紅く染める頃だった。
「仕方無い。今日は此方に泊まるか」
伊月は溜息混じりに言って、宿と食料を調達してくる、と日向たちと別れた。
「じゃあ、オレたちはあいつらの所に行くか」
はぐれるなよ、と父親みたいに黒子の手を掴むと、火神の襟を引っ付かんで、夕暮れ時、帰宅中なのか人通りの多い道を、日向は慣れた足取りで進む。平均より身長の抜きん出た火神は、何度か擦れ違う人々に肩をぶつけた。しかし暫くすると、人混みを歩くのにも慣れ、回りを見渡す余裕が出来てくる。
やはりと言うべきか、新しく出来た国だけあって、街並みは綺麗だ。木造建築ばかりで、高さも揃っている。露店が目立った。賑かだなと言うと、何時もの事だと日向が言う。毎日が祭りのように賑かで楽しいのだ、と。
「…」
火神は何と無く、羨ましい気持ちを抱えながら、夕焼けに染まる街並みを見つめた。
「此処だ」
日向が指し示したのは、見るからに荒れ果てた店だった。
「…え、此処?」
火神が思わず聞き返すのも、無理はない。看板は半分が欠け、残った方も風化して文字が読めない。風が吹いただけで傾ぐ引戸の前には、箒やら壊れた桶といったがらくたが散乱している。
「へーきへーき」
日向は尻込みする火神の背を押して、戸を開けるよう促した。火神は少々躊躇った後、引戸に手をかけた。
ガラッ
「いらっしゃーい」
しかし戸は火神が開くより先に反対側から開いた。
「…!」
「お、本当に居たよ」
戸を開けた茶髪の青年の背後から、黒髪の青年が二人顔を出す。驚く火神の肩を叩き、日向は苦笑しながら彼らに手を振った。
「久しぶり。元気だったか」
「日向先輩も、お元気そうで」
黒髪の一人が言って、店に入るよう促す。
「…おい、黒子」
火神は然り気無く、隣を歩く黒子を肘で小突いた。
「此の店の店長さんと、店員さんたちです」
「此の店…って、大体何の店だよ」
店の敷居を潜りながら、黒子は火神を返り見た。
「情報屋です」
◆
店の奥に据えられた黒い椅子と、其の両脇に伸びる本棚。
「オレは店長の福田」
火神たちを店の奥へ誘った青年が、椅子に腰掛ける。
「助手の降旗」
微笑んで挙手したのは、戸を開けた茶髪の青年。
「と、河原だ」
黒髪の青年は小さく手をあげて、本棚の1つに背を預けた。
「誠凛名物の情報屋です。―――で、此度の用件は?」
福田が目を細めて見つめる先には、日向たちが並んでいる。何と無く異様な雰囲気に、火神は一歩後ずさった。
「…探したいものがある」
「宝石?魔具?其れとも神獣?」
「惚れ薬?」
本棚から古めかしい地図を取り出して、河原が歌うように言う。隣でからかうように言った降旗は、福田に頭を小突かれた。日向は苦笑して、両掌を三人に向ける。
「魅力的だが、其れは復の機会にするよ」
「じゃあ、今回は?」
言いながら、福田は火神を一瞥した。本当に察しが良い男だと、日向は関心する。
「そ。こいつが依頼人」
◆
尻込みする火神を、日向は前に引っ張り出してやった。
一方その頃、伊月は宿屋にいた。寝場所を確保する為である。
「有り難う、土田」
細目の宿屋の主人に礼を言うと、彼は柔和な顔を更に緩めて笑った。
「いいや、伊月も立派なお得意様だからね」
「そう言って貰えて嬉しいよ。四人なんだけど、部屋在るかい?」
土田はペラペラと、手元の台帳を捲った。
「二人部屋が二つなら」
「…まあ、いっか。其れで」
了解、と土田は台帳に其の旨を記す。
「お客でも来ているのかい?」
「まあ、似たようなもん。居候が復増えた」
「はは。ウチの居候共はまーた旅に出たよ」
「ああ。例の、角部屋に住んでるっていう二人組?」
「そう。何とかっていうハンターらしい」
「へえ…帰って来たら、挨拶したいね」
「紹介するよ」
土田に手を振って、伊月は宿屋を後にした。外に出た途端、冷たい夜風が襲う。咄嗟に、ローブの前を固く閉じた。
「…早く、日向たちを迎えに行ってやるか」
空を見上げると黄色い月が、輝いていた。