エメラルドの憂鬱
「シンタローさん!」
満面の笑みを浮かべ、赤ジャージの青年へと駆け寄る彼。それを目端で捉え、ソファに身を沈めていた僕は、視線を天井へと戻した。
ルーツのないセトにとって、シンタローくんほどの年の差の同性は珍しいらしい。彼の近しい同性は、僕や父さんしかいななかったから、それも当たり前か。
……そりゃ、僕だって一人っ子だったから、珍しくないわけじゃないけど、セトほど彼に心を許す気にはなれない。それは姉ちゃんを救えなかった八つ当たりと―――小さな、子ども染みた嫉妬のせい。
「……っ」
パタ、と赤い雫が布に落ちる。タオルを敷いておいて良かったとぼんやり思いながら、ピアッサーをその上へ放る。親指で擦るように耳朶を触ると、依然流れ落ちる血がヌルリと伸びた。
「……痛い」
取敢えず、消毒をしないと。ピアスの穴を開けて、そこから何某かの病気に罹りました、なんて御免だ。
季節は冬。あの夏から、一年と少しが過ぎていた頃のこと。


【episode:01 ガーネットの懸念】


木琴のようなチャイムに呼ばれて扉を開くと、そこには久方ぶりに顔を見る兄妹が立っていた。
つい、カノはヘラリと笑った。しかし彼女は全く表情を変えないまま「久しぶり」と呟く。
「元気そうだな」
「キドもね。……入る?」
マフラーに埋めた口から零れる白い息を見てそう言えば、キドはコクリと頷いた。
六畳一間の安いアパートだが、隙間風が入りこむほど古くはない。電気代節約のためにストーブは切ってある。だがまあ、来客だから特別に、とカノは電源をオンにした。
「適当に座って。珈琲で良い?」
キドはチラリと、玄関のすぐ脇に設置された小さな台所を一瞥した。しかしすぐ視線を進行方向へ戻し、それで良いと呟く。
小ぶりのショルダーバッグを肩にかけたまま、キドはベッド脇の卓袱台の前に腰を下ろした。少し辺りを見回して、意外だ、と呟く。
「何がー?」
「お前はもう少し散らかしていると思っていた」
「あはは」
ではキドは、そんな散らかった部屋を片付けにでも来てくれたというのか。湯気立つカップを二つ持って冗談交じりにそう言えば、相変わらずのクールな表情でキドは頷いた。
「そのつもりだった」
カノは思わず頬を引き攣らせる。
ミルクと砂糖は、とカノが問えば、両方貰う、とキドは手を伸ばした。彼女の掌に、ファーストフード店で貰った余り物のシュガーとミルクを落として、自分の分のブラック珈琲を啜る。
真っ黒な水面にとろとろと落ちていく白が、ぼんやりとした視界の端で渦を描く。嗚呼、いつかも見た風景だ。
「……姉ちゃんは、元気?」
カノが楯山家を出たのは、あの夏の二年後だった。何の前触れもなく独り暮らしをしたいと言ったカノを、アヤノは深く言及してこなかった。ただ、そう、と。それだけ言って優しく頭を叩いて、必要な手続きを全てやってくれた。
共に住んでいた弟妹にそれを伝えたのは、引っ越しの前日だった。驚きすぎて怒り出す二人を軽くあしらって、カノはさっさとこの部屋に逃げ込んだ。住所は、アヤノしか知らなかった。キドともう一人の兄弟には、今年の夏、暑中見舞いを送って報せた。
珈琲で口内を湿らせてから、キドは頷いた。
「元気だよ、相変わらず。シンタローやキサラギも、よく遊びに来る」
「そう」
賑やかそうだ。ポロリと零れた呟きは、珈琲に溶けて消えた。
「……カノ」
コトリ、とキドはカップを置く。呼ばれるままにカノが視線を上げると、凪いだ瞳がじっと彼を見つめていた。
「……何?」
その瞳に―――いや、今日彼女を一目見たときから、察していた。何のためにやって来たのか、何を聞きに来たのか。
「セトと、何かあったのか?」
想像と一文字も違わないその台詞に、カノは口角を思わず持ち上げそうになった。



寒い外気に反して火照った頬に、薄らとした汗が浮かぶ。長いこと歩いていたせいで、身体は程よく温まっている。首にしっかりと巻いたマフラーが煩わしく感じて、ヒビヤはそれをとると、コートのボタンも少し外した。
マフラーを腕にかけ、ポケットに突っ込んだままの紙を取り出す。クシャクシャになったそれを広げ、ヒビヤは目前に立つアパートを見上げた。
「ここか……」
あの夏を共に過ごした独りぼっちの少年は、このアパートに、一人で住んでいる。
【episode:03 トパーズの気紛】

宝石にも花のように意味があるのだと言うと、彼は珍しくソファから身を起して詳細を訊ねてきた。いつも通り興味ないような顔を取り繕っていたけど、その目が赤くなっていたことに、マリーはちゃんと気づいていたのだ。
【episode:04 ルビーの秘密】
自分の真っ赤な瞳が嫌いだった。まるで血が溜ったようなその赤い瞳が、嫌いだった。
姉の真っ赤な目が嫌いだった。泣き腫らして赤くなった目が、嫌いだった。
彼の赤い目は、
(綺麗だと、想った)
涙で煌めくそれはまるで、ルビーを誂えたようで。とても、綺麗だった。
セトの赤い目が、カノは秘かに好きだった。それが彼のコンプレックスの一つだと、知りながらも。

セトがこの部屋を訪ねてきたのは、キドが訪問する二か月ほど前のこと。あの夏と同じように蒸し暑い日で、ピアスのついた耳朶がじくじくと疼いていた。
セトは何の前触れもなく現れて、扉を開けて顔を見せたカノを、じっと見つめていた。蜂蜜色に映る自分の顔を直視できなくて、カノは少し視線を逸らした。
「……入る?」
頭を飽和させんとする蝉の声と、肌を刺す熱に耐え切れずにそう言えば、セトは無言のまま頷いた。
【episode:05 エメラルドの憂鬱】
きぃ、と。しっかり閉じられないままの扉が、飛び出していった彼の惜しむように揺れている。そこから覗く目に痛いほど青い空を眺めながら、カノはそっと耳のピアスに手を伸ばした。

「どう思います?」
吐き捨てるように言って、ヒヨリはタンとカップを置く。景気良く部屋に響いたその音に、チラリと視線だけやってカノはまた手元に視線を落とした。
「さあね」
素気ないその言葉にヒヨリは当たり前だが不服そうで、ムッと顔を顰めて頬杖をついた。
嘗ては長く伸ばしていた後ろ髪を、今は横髪と同じように綺麗に切り揃えている。ほんのりと色づくチークと、照明を反射してテラテラ光るルージュ。恋する少女はすっかり幼さを潜め、大人の階段に足をかけていた。
姉以外でこの部屋を訪れるのは、ローズピンクがよく似合うこの少女だけだ。
【episode:06 コーラルの恋心】

羨ましいと、思ったことがないとは言わない。
本当の血の繋がりがないことが理由かもしれない。それでも、互いを思いやり支えあるその姿が、モモは少し羨ましかった。自分と兄もあんな関係であれば、何か違ったのだろうか。兄が引きこもるまで思いつめることも、なかったのだろうか。
ある日気紛れにそんなことを呟くと、彼はクスクスと笑った。
「俺たちだって、全て分かり合っていたわけじゃないっすよ」
兄が姉の死とそれに関することで苦しんでいたと、自分はずっと気づけずにいた。もっと早くに―――それこそ、この目を使って―――気づいていれば、彼の苦しみは減らせた筈だ。
「俺は、キサラギさんたちが羨ましかったっすよ」
真っ直ぐにぶつかり合って、けれど根底にあるのは互いを思いやる心に変わりはない。
そんな風に真正面から褒められると、どうしようもなく照れてしまう。赤くなった頬をそっと抑えて顔を伏せながら、モモはあんな兄でも少しは誇れるのだなと思ってしまうのだ。
【episode:07 アメジストの羨望】

「ヒーローはね、『一人』でも『独り』でもないんだよ」
【episode:08 シトリンの慈愛】
「幸助も修哉も、まだまだ手のかかる弟たちだよ」
私にとっては。
そう呟いて、アヤノは切り終えた野菜を、沸騰する鍋に滑り落とす。それを見やりながら、カノはジャガイモを潰す手を少し止めた。
「……姉ちゃんは、」
そこで言葉も止めたのは、続く何かが見つからなかったから。
アヤノは割ったルーを渦巻く鍋に落としながら、クスリと笑った。
「私は、みんなのお姉ちゃんだから」
あのときは、ヒーローとしても姉としても失格だったと思っている。先輩たちを救うことも、遺していく弟妹たちを思いやることもしなかったのだから。だから今度は、姉としてそして。
鼻を擽るように漂い始める香りに、アヤノは「良し」と満足げに頷いた。
「さ、お皿持って来て。食べようか」
にこりと笑うアヤノを、カノは無言のまま見つめ返した。

シンタローの目で消えずに残って、アヤノの目で僕らに与えられた幾つかの記憶。その中で彼と会話したのは、本当に数える程度だった。
「カノは、セトが好きなの?」
そんなことを真顔で訊ねてきたのは、その一回きりだ。
【episode:09 ラピスラズリの残影】
「セトが、好きなんだね」
あの夏。何十何百と繰り返した時の中で、ただ一度だけしたその会話。あの会話の続きを、カノはもう覚えていない。

カノとシンタローの間には、ちょっとした溝があった。
原因の殆どはアヤノのことだ。しかし、それを和解した―――とまではいかないまでも、お互いある程度の妥協はした―――後も残った。
(またか……)
背に突き刺さる視線に気づき、シンタローはこっそり吐息を溢した。目の前でじゃれつくセトは、シンタローの背後で睨むカノに気づいていない。その呑気さと鈍さが、今は羨ましかった。
二人の間でどんな関係を築こうが、相手にどれほど邪な感情を抱こうが勝手だ。しかしそれにシンタローを巻き込まないでほしい。と、願っても、無駄なのであろう。
カノから一方的に掘られたその溝は深く、数年経った今でも、埋めることができないでいる。
【episode:10 ダイヤモンドの溜息】
根気よく土を注げば、深い溝も少しは浅くなるものである。

「兄弟なんだから」
そう言って強く包容する腕に、じんわりと額から移る熱に、あのときは確かに安堵していた。けれど時間が経ってみればそれは、ただ自分たちを縛る鎖になってしまったのだと知った。
【episode:11 アクアマリンの約束】
「……」
「……入る?」
沈黙に耐え切れなくて視線を外しつつそう言えば、目の端で彼が頷くのが解った。崩れそうになる顔を掌で覆いつつ、扉を開いたまま部屋の奥へ向かう。
背後で、セトの入室を断る言葉と扉の閉まる音が聴こえた。

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