ツバサパロ〜東京編〜
記憶と魔力を宿した羽根が、血に濡れた手の中に収まる。刀を握った方の腕に抱えられ、黒子はぐいと強く引き寄せられた。近づいた顔は常のような暖かさを微塵も見せず、冷たい炎を孕んだ瞳に涙で濡れた黒子が映る。
「火神、くん……」
力の入らない腕で胸板を押すが、それさえ無視して火神は羽根から手を離した。ふわり、と水面を揺らすようにして、黒子の中に羽根が吸い込まれていく。ゆっくりと閉じられる彼の赤い瞼に口付けを落とし、火神は涙を舐めとった。
「……もうこの国に羽根はない。なら、次の世界に行ってまた探す」
スイと上げられた視線の先に、異次元へ繋がる扉が開く。黒子の体から手を離し、火神はそこへ向かって足を進めた。滑るように崩れ落ちる黒子は、最後の力を振り絞って腕を彼に向けて伸ばす。くん、と手首を掴まれた火神が、足を止めた。
「行か……ない、で……」
蚊の鳴くようなか細い声。火神は眉間に皺を寄せた。
「……」
ふい、と。弱々しいその手を振り払い、火神は次元の向こうへ消えていった。
「火神、くん……」
涙でまみれた瞳が閉じられ、かくんと体が崩れる。その時、彼の傍らにあった繭が淡い光を発した。それは長い眠りからの目覚めで、現れたその腕に黒子の体はすっぽりと収まった。黒いマントを纏った彼―――小堀はそっと細い体を抱き上げ、まだ流れる涙を指で掬った。
「……一番辛い時に目覚めさせてしまったな」
黒子の、魂の眠りからの目覚めを促したのは自分で、そして今までに起こったことも自分が原因。そのせいでどれだけの人が傷ついたのだろう。
「小堀!」
一際大きな声がして、顔を上げた小堀はよく知った温もりに抱き締められた。いつも着ている正装ではないが、確かに自分の片割れだ。
「諏佐……」
「良かった……目覚めて。早く次の世界に行こう」
眠っている間に随分と心配をかけてしまったらしい。心底安堵したように吐息を溢す諏佐に笑みを返しつつ、小堀はゆるゆると首を横に振った。その返答に諏佐は怪訝そうに眉をひそめる。
「アイツが追い付いてくる前に、早く行かなきゃ」
「悪い、少し待ってくれ」
「小堀……」
小堀の視線が動いて、つられて諏佐も首を回す。二人の視線の先で火神に似た青年―――荻原は、刀を杖のようにして膝をついていた。自身の写身である火神との戦闘で、足をやられてしまったのだ。痛みに顔をしかめる荻原の頭上に、長い影が落ちる。片目を抉られた赤司を抱えた青峰だ。その双眸は大きく見開かれ、荻原の着ている中華服の胸元に描かれた紋章を凝視していた。
「手前、その胸の紋は」
続く言葉は予想できたので、荻原は真っ直ぐに彼の瞳を見返した。
「お前の母親を、殺めた者の紋章だ」
カッと目が開かれる。激昂した彼を止めたのは、突然にして上空に写し出された次元の魔女―――リコの言葉だった。
「待ちなさい」
ピクリ、と青峰の指が曲がる。飛んでくるであろう拳を覚悟していた荻原も、不意をつかれたように目を丸くした。黄瀬の持つ魔法具から映像として姿を現したリコは、蝶の模様の着物を纏いじっと青峰たちを見下ろす。
「彼は貴方の御母様を殺めた者に囚われていたの。それに、居場所もその子には解らないわ」
じっと青峰は荻原を見つめ、荻原も青峰を見つめ返す。その真摯な瞳に何か悟ったのだろう、固く拳を握り、踵を返した。
「……後で聞かせろ、全部な」
ト、と砂利を踏む音。青峰たちの視線がそちらへ向かう。小堀の腕に抱えられ眠る黒子の、涙に濡れた顔を見て荻原は小さく目を伏せた。

「……無理だ」
血をたっぷり含んだ綿を取り除き、中村は苦悶に歪んだ顔で呟いた。彼の目の前の寝台には左目を包帯で覆った赤司が荒い呼吸で寝そべっている。傍らにいた黄瀬が、半泣きの顔で中村を見やった。
「どういうことッスか?」
「……眼球が抉り取られてる。出血量も多い。普通なら、ショック死してもおかしくない状態だ……―――それに、ここには薬も設備もない」
「中村は医大生なんだ。けど、それにも限界がある」
「そんな、赤司っち!」
わ、とすがるように寝台の側に膝をつき、黄瀬は苦しそうな赤司の姿に唇を噛み締める。そして通信を繋げたままだったリコへ視線を向けた。
「カントクさん!赤司っちが死んじゃうッス!カントクさん!」
涙混じりのその声に、さしものリコも思わず目を伏せる。すると、荒い息しか漏らさなかった赤司が僅かに唇を震わせた。
「だめ、だ……」
「赤司っち!」
音を立てて呼吸を繰り返しながら、赤司はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……僕が生きたままなら……火神の、魔力も生きる……半分の魔力でも、大きすぎる」
ゆっくりと瞼が開かれた。苦しみで歪む視線の先は、天井か。
「……彼を、止められなく、なる……」
ドガ。派手な音がして、壁の一部が凹む。驚いて振り返った中村の視線の先に、拳を壁に叩きつけた状態のまま赤司を睨み付ける青峰の姿があった。
「……誰が、そんな風に腹くくれっつった」
まるで、地を這うような、怒りで満ちた声色だった。青峰はそのまま腕を伸ばすと、今だ横になっていた赤司の襟を掴んで引き上げた。同時に上げられた拳を見て、黄瀬は制止の声を上げる。しかし赤司はうっすらと笑みを浮かべるだけだった。
「……すまないな」
それだけ呟くと、限界だったのだろう、彼はかくりと意識を手放した。拳を下ろし、青峰は背中越しにリコに問う。
「……魔女、こいつを死なせねぇ方法はあるのか」
「……あるわ」
「!」
「けれど、私がやれば対価が大きすぎる」
その時、扉代わりの布が大きく開き、慌てた様子の岩村が駆け込んできた。
「やっぱり、地下の水がほとんど消えちまってる!」
その言葉に、室内の者たちはサッと顔を強ばらせた。荻原はぐっと歯を噛み締め俯く。
「俺が、あの場に現れたから……!」
「いいや」
淡々とした声がそれを遮った。視線が一同に集まる中、小堀は固い表情のまま言葉を続ける。
「俺のせいだ」
傍らの諏佐が心配そうに見つめた。
「……この世界に来てすぐ、地下の水底に沈んでいた力に引き寄せられて……」
それは諏佐が突如として現れた、四年前のあの日。次元転送で地下水庫に降り立った二人は、水底空感じる強大な力に驚きを隠せないでいた。
「水の底に何かある……」
「すごく、強い力だ」
その時、強い光が二人を襲った。目が眩んだ隙に飛び出してきた糸のようなものが、小堀を水へと引きずり込む。
「小堀!」
慌てて諏佐も飛び込み、彼を救おうと腕を伸ばした。白い糸は繭を作るようにして、もがく小堀を包んでいく。激しく水がうねり、諏佐はそれ以上進むことが出来なかった。
「駄目だ!諏佐まで巻き込まれる!」
「小堀!」
それでも進もうと手を伸ばす諏佐に、小堀は眉尻を下げる。
「大丈夫。これは近くにあるものを守ろうとしているだけだ……俺を傷つけるようなものじゃ、ない……」
光はますます強まり、渦の回転も早まっていく。完成した繭に小堀が閉じ込められるのを止められないまま、諏佐はただ手だけを伸ばして。
「……少し、眠ることになるけど……心配すんな……」
「小堀―――!」
そうして一人残された諏佐は、水底で眠る小堀を守ることにしたのだ。彼が目覚める、その日まで。
「……眠ったまま、あの子を引寄せてしまったのは、俺だ」
昔話を終え、小堀は赤司の隣で眠る黒子を一瞥した。
「だから、その後の事が起こるべくして起こったとしても、その場があの地下になったのは俺のせいだ」
悔やむように眉がひそまる。マントを握る手に力が入って、黒いそれに皺がよった。
「……何がきっかけだとしても、無くなった水は戻らない」
「……」
「お前には、何か考えがあるようだが?」
「……ああ」
古橋の言葉に頷き、小堀は映像のリコと視線を合わせた。
「久しぶりだな」
「そうですね」
顔見知りであったらしい。いやこの場合は彼らも客だった、と言うべきだろう。
「頼みがある――― 水が欲しい。この地下を満たすほどの 」
「!」
ハッとしたように都庁メンバーの視線が小堀に集まる。
「対価が必要ですよ。貴方たち双子に、次元を渡る術を与えた時と同じように」
「解ってる」
強く頷く小堀に小さく頷き返して、リコは赤司を抱えたままの青峰の名を呼んだ。
「私に地下水槽を満たす水を頼みなさい」
「……!」
「そして、小堀さんの願いを代わりに私に頼む代わりに、小堀さんに言って。小堀さんの―――吸血鬼の血を赤司くんに与えて、と」
「!」
それに大きく反応したのは諏佐だ。
「吸血鬼の治癒能力は人間を遥かに凌ぐ。その血を受ければ、赤司くんは死なないわ」
「駄目だ!」
リコの言葉を強い語調で否定し、諏佐はギリリと歯を噛み締める。
「小堀の血は、もう誰にも……!」
「諏佐」
そっと固い拳を撫で、小堀は諏佐を宥めるように声をかけた。大丈夫だからと言うその声に、諏佐は顔を歪めながらも身を引いた。その様子を横目で見届けてから、リコは青峰に視線を戻す。
「けれど、赤司くんを死なせたくないのは貴方の願い。赤司くんはそれを望んでない。なら貴方も、赤司くんを生かした責を負わなければいけない」
「……何をすりゃいい」
すっ、と細い指が、映像越しに青峰に向けて伸びる。
「―――貴方が餌になりなさい」
誰かが息を飲んだ音がした。
「小堀さんの血を飲ませる時、貴方の血も一緒に飲ませるの。そうすれば赤司くんは貴方の血しか飲まなくなる…―――いいえ、貴方の血しか飲めなくなるわ」
「それって、もし青峰っちに何かあったら、赤司っちは……」
「死ぬわね」
「……!」
また泣き出しそうに眉を下げ、黄瀬は青峰を見やった。青峰は目を閉じる。
「……解った、水の対価俺が払う。だからさっさと血を寄越せ」
「……やめろ……」
「うるせぇ!」
荒い息で止める赤司に返されたのは、酷く激昂した声だった。
「そんなに死にたきゃ、俺が殺してやる。だから、それまで生きてろ」
「……!」
鋭く光る目に、赤司は一瞬息を飲み。しかしこれまでの経験から彼が譲らないだろうことを予測したのだろうか、ふっと自嘲気に微笑んで目を閉じた。青峰は赤司の体を寝台に横たえる。彼らに歩み寄ろうとした小堀を、諏佐が腕を出して止めた。
「……俺がやる」
「でも諏佐……」
「もう誰にも、小堀の血はやりたくない」
袖を捲り、伸ばした爪で手首を撫でる。薄い皮膚は簡単に裂け、覚めるような鮮血が溢れ出す。
「腕を出せ」
伸ばされた青峰の腕にも同じような傷をつけ、諏佐は自身の手首を彼のそれの上にかざした。溢れた吸血鬼の血と人間の血は混ざり合い、薄く開いた唇に滴り落ちていく。黄瀬は思わず息を飲んだ。その途端、赤司は右目を見開き、大きく弓形に背をしならせる。漏れるの激痛にうめく苦痛の声だ。
「押さえてろ。体が造り変わるんだ、痛むのは当たり前だ」
諏佐に言われるまま、宙をかきむしる赤司の肩を掴み、青峰は彼を寝台に押し付けた。
「……出よう。こいつらは、逃げたりしない」
古橋の言葉に頷き、都庁のメンバーはゆっくりと部屋を出ていく。
「中村」
立ち止まったままだった中村を、森山が呼ぶ。彼に背を押され促されるまま、中村も部屋を後にした。
「……何もできなくて、ごめんなさい」
布の隙間から、苦痛にうめく赤司を見つめ、目を伏せながら。
「そいつを抱えてろ!」
青峰に言われ、荻原は頷くと黒子の膝裏と肩を支えて持ち上げる。
「こいつの左目はどうなる」
「吸血鬼になる前の傷は治癒しない。抉られたなら、虚ろなままだ」
「……」
「吸血鬼は不老不死じゃないわ」
諏佐を一瞥する青峰に、リコは言った。
「それは伝説上だけの話。十字架も日光も弱点じゃない。―――その二人は原種だから、驚異的な治癒能力を持っているけれど」
すぅ、と諏佐の腕の傷が塞がっていく。
「後天的な吸血鬼は人間より少し丈夫で、老化スピードが遅いだけ。赤司くんはその強大な魔力故、元来長命だからあまり変わらないわ。既に青峰くん、貴方の何倍も生きているしね」
「……そんなことも知らずに餌になることを承知したのか」
諏佐の声は相も変わらず平坦で、そこから感情は読み取れない。呆れているのか、馬鹿にしているのか。
「……あと数瞬遅れていたら、コイツは死んでただろ。それに、魔女が何を考えていようが、黄瀬が信頼して助けを頼んだんだ」
青峰の視線が、半泣きの黄瀬に向く。
「俺は、アイツを信じる」
「青峰っち……」
ほっとしたように、黄瀬は呟いた。
「……赤司くんの魔力の源は、両の紅い瞳。奪われた左目を取り戻せば、上回るその魔力で吸血鬼の力を打ち消せるわ」
「じゃあ、赤司っちは血を飲まずにすむんスね!」
歓喜の声を上げる黄瀬の隣で、青峰は顔を歪めた。
「……試したな、魔女」
リコは、答えなかった。ふと、肩に立てられていた爪が外れ、寝台に赤司が倒れこむ。彼が気を失う直前、金の右目が青峰をじっと見つめていた。
「……」
赤司にボロい布をかける。すると、横から声もなく手が差し出された。それは荻原のもので、そこに乗っていたのは彼がつけていた眼帯だった。それを無言で受け取り、赤司の左目に巻いてやる。
「聞きたいことはまだあるが……まずは、地下の水だな」
そう青峰が呟いた時、階下で慌ただしい足音がした。
「タワーの奴らだ!」
焦る小金井の声に、諏佐は顔を歪めた。
「こんな時に……!」

青峰は赤司を、荻原は黒子をそれぞれ抱えて入口に向かうと、酸性雨の降りだした外にタワーのメンバーが集合していた。それと向かい合うようにして、諏佐を中心に都庁の面々も勢揃いしている。フードを下ろし、今吉はそんな都庁側をざっと見渡した。
「なんか増えとるな」
その手には、楕円型の容器に入った見覚えのある羽根が。
「黒子っちの羽根!?」
黄瀬は驚き、諏佐の隣まで駆け寄った。この国の羽根は、あの二枚だけではなかったのか。
「で、でも、俺全然解んなかったッスよ?!」
「感知されないようにしてあるからなあ」
今吉はからからと笑う。諏佐は眉間に皺を寄せた。
「どういうことだ」
「この羽根には、側にある何かを守る性質がある。これがあるお陰でタワーは酸性雨に晒されても、崩れへんかった。同じもんが、この都庁にもあったやろ?」
誰も答えない。それを肯定と受け取って、今吉は続ける。
「でも、都庁の羽根は消えた」
「……何故そう思う」
「都庁に夢で未来を予知する者がおるように、こっちには異変を察知する神子がおる」
古橋を見つめた今吉は、ちらと背後に立つ仲間を見やった。視線の先にいたのは別の世界でも出会った高尾で、傍らには緑間の姿もある。
「高尾っち、この世界でも神子さんなんスね」
思わず感心して、黄瀬は呟いた。
「……そうだとして、お前がその羽根とやらを手にここに来た理由はなんだ」
「取引や」
苦い顔で訊ねる森山にあくまで笑顔で返答し、今吉は容器を掲げて見せる。
「この羽根を都庁に渡すわ」
「……代わりに?」
「タワーの人たちをここへ移住させてくれへんか?」
都庁側は息を飲んだ。
「タワーの水は残り少ない、そう長くもたん。そして、ここには水はあるけど羽根はない」
「だったら都庁は水、タワーは羽根をそれぞれ提供して、より居住空間が広いここで暮らした方がどっちにとっても良いんじゃないかと思うんだけど、どうかな?」
嘗て紗羅ノ国で出会った春日と、桜花国で出会った土田の姿もあった。
「決めるのは俺じゃない。俺はもう行くから」
諏佐はそっぽを向くように言う。彼と、その隣に立つ小堀を見て、今吉は小さく肩を竦めた。
「……成程」
「諏佐は、この国を出るつもりなのか?」
「ああ」
岩村の問いにきっぱりと返された答えに、森山たちは思わず顔を見合わせる。
「だとしたら、タワー側に勝つのは難しいな」
「アイツがいるもんね」
小金井は少し悔しそうに今吉を見やった。彼とまともに渡り合えるのは、諏佐しかいなかったからだ。争いになれば、こちらが負ける。
「受けるしかないようだな…」
「それ、黒子っちのなんス!」
岩村の呟きに、慌てて黄瀬が声を張り上げた。
「黒子っちの、大事な大事なものなんス!それを探して、皆で旅してきたんだ!今、一人いないけど……だから!」
「待って下さい」
凛とした声がそれを遮る。バッと振り向いた黄瀬の視線の先には、荻原の腕から降りた黒子の姿があった。一瞬よろけた黒子に、荻原は咄嗟に手を伸ばす。荻原の腕に掴まった黒子は自然と視線を上げ―――見下ろしていた荻原のそれとかち合わせた。その時の二人の胸中に飛来したのは、何であったのか。『同じであって同じでない者』を想い合う彼らには、一体。しかしそれは本人たちにしか解らないことで、他人が入る隙さえ見せぬまま、彼らは手を離した。
「黒子っち……!」
「羽根については、待って下さい」
何かの決意をしたかのように、その瞳は真っ直ぐ前を向いていた。

都庁とタワーのメンバーで、瓦礫だらけの階段を降りる。目指すは、地下水槽だ。
「ボロボロだね〜」
ひょいと屈んで瓦礫を避けながら、春日が漏らす。
「でも崩れることはないよ。さっき見て回ったから」
少し先を行く小金井は肩越しにそう言った。
「そっか、それは安心だ」
隣を歩く土田が微笑む。小金井は少し照れたように頬を赤らめた。そんな風にして降りた地下は、あの惨劇を色濃く残したまま。
「黄瀬くん」
「了解ッス」
黄瀬の広げた魔法陣から現れたのは、透明な水で満ちた丸い瓶だった。何もないところから突如として現れた瓶の数々に、この国の人間たちは驚きを隠せない。リコは彼らに瓶を開けるよう促す。恐る恐る彼らが蓋を開くと、まるで滝のようにして水が勢いよく飛び出し、水槽を満たし始めた。
「この瓶と水の量があわないんだけど?!」
水の勢いに体が流れてしまわないよう水戸部に支えてもらっていた小金井が叫ぶ。
「この水は消毒されないままの、自然の力がまだ残っている水よ。とても強いわ。―――だからといってまた汚染させてしまえば同じことだけど」
最後まで水が出たのだろう。流水が止まる。以前と同じように水を湛える水槽を見下ろし、彼らはくっと拳を握った。
「この水が尽きるまでに、この世界の仕組み自体を正さなければ」
リコの言葉に自然と顔が上がり、十二対の瞳が彼女を見つめる。
「―――あとは、貴方たち次第よ」
この世界を破滅に導くか、はたまた再生にこぎつけるか。全ては、彼らに委ねられた。
「……しかし、どんな構造になってるのだよ?」
空っぽになった容器を掲げ、緑間は眉をひそめる。既に役目を終えたそれは、普通の硝子にしか見えない。
「そっちこそ。その羽根とやらが入ってる入れ物はどうなってるんだ」
岩村は怪しむように今吉を見やった。諏佐もじっと彼を見つめている。
「……この国に魔法や魔力はない。それを防ぐ機械なんて作る必要はないし、作れる筈もない」
諏佐の言葉に、今吉はまたからから笑って容器を見せるように持った。
「これはこの国のモンやないよ―――四年前、ワイが他の次元から持ってきた」
「!」
ハッと、諏佐たちだけでなく荻原たちも驚いて今吉を見やる。その口ぶり、まるで彼らと同じような。
「こんちは、リコちゃん。この世界に来てから通信手段がなくて、すっかりご無沙汰になってもうたな」
そんな焦燥なんて気づかないように、今吉はリコに声をかける。彼女が頷いたのを見て、疑惑は確信に変わった。
「その入れ物も、貴方が探し出したものですね」
「ああ、それが仕事やからな」
そう言って、今吉は諏佐たちに視線を向ける。今だ状況を理解できない彼らに、説明するように。
「ハンターなんよ。各世界の貴重な物たち、依頼されたり自分が欲しくて探す物だったり、色々なんやけどな。だから同じハンターでも探してるモンはちゃう―――義兄とはな」
「!」
「初めまして、あんさんが小堀サンやな。義兄の笠松がお世話になったなぁ」
シュ。今吉の眼鏡が飛ぶ。頬から血を流しても笑みを隠すこともせず、彼は諏佐を見つめていた。吸血鬼としての攻撃能力、鋭利に伸びた爪から血を滴らせ、諏佐は警戒心露わに今吉を睨む。
「お前……あのハンターの義弟だったのか!」
笠松幸男。その名前は青峰たちにも因縁深く刻まれている名だ。火神の武術の師であり、次元を渡る吸血鬼ハンター。黒子の羽根を持ち逃げした彼は、確かに『コボリ』と言う名の吸血鬼を探していた。成程、あの双子はその笠松から逃げていたのか。
青峰が納得する間に、諏佐は地を蹴って今吉に飛びかかっていた。空気をも裂く爪を交わして、今吉は袖に仕込んでいた紐で彼の腕を一つに纏めあげてしまう。そのまま引き寄せ首筋に唇を寄せれば、諏佐は悔しそうに顔を歪めた。
「……ホンにかいらしいな、諏佐は」
低く囁かれた声に、諏佐は思わず背筋を震わせた。
「けど怒らすと怖いんは、小堀の方やって聞いたけど」
ちら、と今吉が視線を向ければ、パキパキと音を立てて伸びる爪の間から小堀の瞳がそれを射ぬいた。
「……諏佐を、離せ」
「勿論」
先程までの柔らかい雰囲気から一変したその様子に肩を竦め、今吉はあっさりと諏佐を解放する。諏佐はすぐさま離れ、寄り添うように小堀の隣に並んだ。その一連を見ていたリコは、呆れたように吐息を溢す。
「全く、貴方たち兄弟は問題しか起こさないですね」
「そりゃ、笠松のことやろ」
「貴方もですよ」
強く否定はせずに今吉は笑うと、少し距離の空いた双子にまた視線を向けた。
「笠松はまだこの世界には辿り着かへん。だから、先にこの東京での用を済ましてしまおうや。どうぞ、リコちゃん」
今吉に促され、リコは頷くと青峰たちを見やった。
「対価のことだけど」
「ああ」
「あるものを取ってきて欲しいの」
「それは俺が……」
「僕がやります」
荻原の言葉を遮り、黒子が前に出る。常とは少し違う雰囲気に、黄瀬は恐る恐る彼の名を呼んだ。しかし黒子は瞳を揺らさず、じっと前を向いている。
「それから、教えて下さい。僕が眠っている間に起こったことを―――」

雨の上がった砂漠。特製のマントを纏った黒子は、今吉からスクーターの操縦方法を教えてもらっていた。その姿を少し離れたところから見つめ、黄瀬はリコに視線を映した。
「カントクさん、この国の雨、スゴく痛いんス。大きな生き物もいるし、スゴく危ないッス」
「だからこそ。一人で教えたところにあるものを取ってくる。それが対価になるの」
そっとリコも黒子を見やる。今吉に礼を言って、黒子は見送ろうと並び立っていた荻原たちに近づいた。またかち合った視線をそらし、黒子は荻原に小さく頭を下げた。
「……ごめんなさい」
「え……」
「僕が止めてって言ったから……」
下げた視線の先は、包帯の巻かれた太股。火神が剣で貫いた場所だ。
「だから、休んでて下さい」
黄瀬くんも、と背伸びをして彼の頭を撫で、黒子は小さく微笑む。それから、腕を組んだままの青峰を見やった。
「……赤司くんを、よろしくお願いします」
「言いだしたら、やっぱり聞かないんだな」
こくりと頷く黒子を見て、青峰は大きく息を吐く。
「……強情なのはどの王族も同じか」
ふと浮かんだのは、自身を旅に送り出した張本人。桃色の髪した姫君もまた、強情だった。
「―――行ってこい。俺たちはここにいる。お前が帰ってくるまではな」
「……はい」
また一つ大きく頷き、黒子はスクーターに乗り込むとハンドルを握った。砂煙をたてながら、地上数センチ宙を滑空していく。その姿を心配げに見つめる黄瀬の横で、青峰はさっさと踵を返した。
入口の柱の一つにもたれかかっていた今吉に、そと小堀が歩み寄る。彼の後ろには当たり前のように諏佐も立っていた。
「ん?なんや?」
「……笠松は、」
少し言い辛そうに口を開く小堀の様子に察したのだろう、今吉はああと頷いて腰に手を当てる。
「年をとるのがちょっと遅くなったようやけど、それ以外は元気やったで」
そう言えば、小堀はほっとしたように息を吐き、反対に諏佐は不快そうに眉をひそめた。解りやすいその反応に、今吉はついつい笑ってしまう。本当に可愛らしい。あの男が求めるのも理解出来る気がする、と。
「あんさんに会いたい言うてた―――…会えるまで、探し続けると」
「……!」
ハッと少し眉尻を下げた顔で小堀は今吉を見やる。どこか、すがるように。それが気にくわなかったようで、諏佐はムッとしたように語調を荒げた。
「追い付かせたりしない」
「どうやろなぁ、なんせ笠松やし」
「……」
「おっと、ここで揉め事はなしやで。―――待っとる人がおる」
ギラリとした諏佐の睨みを軽くいなして、今吉は顎で示す。その先には、出掛けた黒子を待つ青峰たちの姿があった。
「さて、これから新しくルール決めの話し合いなんやけど」
「だから俺は……」
「諏佐がおらんとタワー側に有利なようになるけど?」
「……」
一応これまで世話になった恩を感じてはいるのだろう。それとも情が沸いたか。何にせよ今吉の言葉は諏佐にとって無視できないものであったらしく、彼は大人しく今吉と共に奥へ向かった。
「……あの子、無事に帰ってこれればええんやけど」
「無理だろ、夜の東京だぞ」
そう言いながら、闇に塗り潰されつつある外を一瞥する。酸性雨に突然変異種。夜になれば視界も悪くなる。とても戦い慣れしていないあの少年が太刀打ち出来るとは思えない。魔女を酷なことをするものだ。いつもは双子のことしか考えない諏佐だが、この時は僅かに、出会ったばかりの少年の身を案じていた。

寝台と呼ぶにはみすぼらしい岩の上に、赤司は横たえられている。それを少し離れたところから見つめていた荻原の背後に、気配が一つ現れた。黄瀬だ。目が合うと、彼は小さく頭を下げる。
「……ちょっと話、いいっすか?」
「……ああ」
手近の瓦礫に腰掛け、黄瀬はちょっと指を絡めて間を取った。
「……ずっと捕まってたって」
「ああ」
「ずっと一人で閉じ込められてて……寂しかったッスよね……」
「……いや、見ていたから。もう一人の俺を通して、皆の旅を」
写身に与えた心の半分。右目に宿したそれを通して、いつも見ていた。捕らえられ、封印されていても、ずっと。笑う彼らを。
「だったら、余計寂しいッス!……だって、楽しそうだったでしょ?俺たち」
グッと胸元を握りしめ、黄瀬は顔を歪める。予想外の反応に、荻原は思わず目を見開いた。
「苦しいことも、辛いこともあったけど……でもスゴく楽しそうだったでしょ?」
平和な国ばかりではなかった。バラバラになってしまったり、酷く傷だらけになってしまったりしたこともあった。けど、それでも決して嫌ではなかった。確かに、楽しい旅だったのだ。それを見ているだけなんて。目の前で起こっていることなのに、手を伸ばしても届かない。そんなの、悲しすぎる。
「きっと、一緒に旅したかったッスよね……。黒子っちと、青峰っちと、赤司っちと、俺と―――火神っちと」
「!」
荻原の目が大きく開かれる。しかし黄瀬はそれに気づかないまま。荻原そっと目を閉じ、彼の言葉に頷きを返した。
「……そうだな」

寝台の上で、ピクリと赤司が身動く。青峰はそれに気づいてふと視線を止めた。赤司はゆっくりと体を起こし、気だるげに顔を上げる。傍らに立つ青峰の姿を瞳に写すと、彼は緩く微笑んだ。
「……お早う、『青峰』」
「!」
それは、常のように小馬鹿にした態度ではなく。感じるのは、線引きされた確かな壁。思わず心の中で舌打ちし、青峰は手にしていたマントを彼に投げ渡した。
「……動くな」
そう言い捨てて、青峰は踵を返した。
「……赤司っち」
「心配かけたな、黄瀬」
にっこりと笑う赤司に、黄瀬は安堵の吐息を溢す。すると彼の魔法具が輝いて、リコが姿を現した。と言っても映像であるが。
「黄瀬くん、通信はそのままで少し眠ってくれる?赤司くんと二人で話がしたいの」
「え、は、はいっス……」
不思議に思いながらも、黄瀬は寝台に腕枕を作ると目を閉じてそこに顔を埋めた。魔法具は黄瀬にしか扱えない。彼の魔力を糧としているからだ。しかし意識がなくとも通信を続けることは出来る。現に黄瀬の寝息聞こえてもリコの姿はぶれることなく宙に写し出されていた。
「……青峰くんとは、」
「話しましたよ?『お早う、青峰』って」
黄瀬に向けたのと同じ笑顔を浮かべる赤司に、リコは柳眉を歪めた。
「……それが貴方の答えなの」
赤司は目を伏せて、けれど口元は笑んだまま、傍らで眠る黄瀬を見やる。
「……最初は、黒子や火神、黄瀬みたいにちゃんと名前で呼ぼうと思っていたんですが……色々呼ぶと怒るのが面白くて」
ちらと一瞥した先には、荻原に声をかける青峰の姿があった。
「―――そんなこと、したこともなかったですしね」
思い返されるのは、寒くて暗い故郷の風景だ。雪ばかりでなにもない、他人すらも、また。
「……楽しくて、自分で引いた線を通り越しているのに気づかなかった」
口から漏れるのは乾いた笑い声だ。くしゃりと前髪を掴んで、赤司は目を伏せた。
「だから僕は、僕を生かすことを選んだあの男を許してはいけない―――はなせば、また近づくことになる」
今度こそ、違えないよう。引いた線を踏み越えないよう。あの呼び方は、そんな決意の結果だ。顔を伏せた彼の様子に、リコは目を閉じてそっと息を吐いた。
「……これだけは覚えておいて―――貴方の痛みは、あの子たちの痛みでもあるのよ」
一度結ばれた縁は決して切れない。例え、望まないとしても。
「……黒子は、まだ上に?」
「いいえ―――外よ」
リコの言葉に、赤司は目を見開いた。

外で一人黒子を待ち続ける荻原に、バッとマントがかけられる。驚いて顔を上げると、仏頂面の青峰が立っていた。
「着てろ」
「……サンキュ」
固めの素材で出来たそれを肩にかけ、少し考えた後荻原はマントの胸元を強くたくし寄せた。胸の紋章が、見えないように。それを見て、青峰は僅かに眉を寄せた。
「……お前の意思でそれを着てたんじゃねぇんだろ」
「けど、見ていたいものでもないだろ」
これは母親を殺した剣の鐔で描かれていた紋章だ。言わば親の仇。決して愉快なものではない。
「……ずっと、その紋章を持つ者に囚われていたっつったな」
「ああ……でも、それがどの世界にあるのか、俺には解らない。もし知っていても、次元を越える魔力はないから、連れていけない」

そもそもこの世界にだって、他人の手を借りて来たのだ。いくら魔力があると言っても、これではあまり意味がない。
「……悪い」
「それもお前のせいじゃないだろ」
申し訳なさそうに目を伏せる荻原に短く言い捨てて、青峰はふいと視線をそらす。今だ身の置き方を図りかねている荻原にとって、その対応は有り難いものだった。

パン。銃声が響き、双頭の蛇が力なく地面に倒れる。痛む全身に顔をしかめながら、黒子はゆっくりと体を起こした。スクーターは壊れたので置いてきた。右足は崖登りを失敗した際、下にあった鉄バネに貫かれて使い物にならない。弾層が空になった銃を投げ捨てて、先にある湖を目指す。その中央に石で出来た巣に乗る光る物体が、リコに指定された対価だ。それはまるで、石の花に宿る、種のような。
「……っ」
片足を湖につけると、ジュッ、という音と共に焼けるような激痛が走る。雨と同じ、ここも汚染されて酸性化しているのだろう。しかし足を引くことはせず、黒子はジャブジャブと水をかきながら中央の花を目指す。ふるふると傷だらけの手を伸ばし、光る卵のようなそれを掴んだ。そっと両手で包むと、まるで星屑を掴んだようにそれは優しく黒子の顔を照らした。
「……僕は、これからも誰かを傷つけて、何かを奪う……自分勝手な、理由で……きっと、その報いを受ける……僕がそうしたように」
ちらりと一瞥した先には、この卵を守らんと黒子に襲いかかってきたのだろう、双頭の蛇。今はもう、ピクリとも動かない。
「……でも……それでも……」
目を閉じ、卵を持った手に額を当てる。どんなに手が汚れたって、最後には罰を受ける身だって、構わない。
「取り戻したいんです、君がなくした心を……」
最初からなかっただなんて、そんなの嘘。だって彼の笑顔はあんなにも優しくて暖かくて。あんなにも、愛しかったのに。
「―――火神くん」
呟きと共に溢した涙が、卵に落ちて、弾けた。

「何故黒子だけで行かせたんだ」
外で待つ青峰と荻原の背に、そんな声がかけられる。振り向けば、マントを羽織った赤司が座った目で睨んでいた。
「……アイツがそう望んだからだ」
青峰の返答にピクリと眉を動かし、しかし赤司は二人の脇をすり抜けて足を進めた。
「赤司っち!」
「テツのところに行くつもりか」
「……だとしたら?」
黄瀬と青峰の言葉に赤司は足を止め、しかし振り返らないまま返す。
「行くな。ここで待ってろ」
「……どこかで怪我しているかもしれない。いや、怪我ならまだいい。でも、もし帰りたくても帰れない状態だったら、」
「それも覚悟の上だろ、アイツは」
あの瞳は、そういう目だ。よく知ってる。
「そこまで解ってて、何故」
「だからこそ。待っている者のところへ帰ってくると約束したテツを信じて、俺は待つ」
力強い青峰の言葉に赤司は思わず目を見開き、しかしすぐに伏せて唇を噛み締めた。
「……僕は待てない」
「信じることがそんなに怖いか」
「……」
ぽつ。雨が肩を叩く。酸性雨がまた、降りだしたのだ。今は弱いそれも、じきに強くなることだろう。
「……まだ止めるなら、戦うことになるぞ」
邪魔をするなら容赦はしない。赤司もまた、それだけの覚悟で黒子を迎えにいこうとしているのだから。
「―――もし」
張りつめた空気の中、雨音にも負けないその声ははっきりと響いた。
「もし助けに行ってお前が傷つけば、黒子―――アイツは、もっと傷つく。体の傷より、心が傷つく―――お前がアイツを、傷つけたくないのと、同じように」
「……」
赤司は思わず息を飲んだ。強い光を宿した光が、『彼』とダブって見えたから。しかしそれはすぐ幻影と理解して、赤司はそっと目を伏せる。
「……本当に同じなんだな、お前たちは」
姿形だけでなく、その心も。黒子を思う、気持ちさえも―――
「あ!」
「!」
黄瀬の声に顔をあげれば、雨降る砂漠の向こうに見知った人影が。
「黒子っち!」
「黒子!」
途中で力尽きるようにして倒れる黒子に慌てて駆け寄り、破れて用をなさない彼のマントの上から赤司は自身のそれをかぶせた。そっと抱き上げれば、黒子は切り傷だらけの手を伸ばして、そっと赤司の頬に触れた。
「……ごめんなさい……」
か細い声。限界だと解る。けれど最後の力を振り絞るように、彼は続ける。
「……赤司くんが辛い時に……何も出来なくて……ごめんなさい……今も、きっと僕よりずっと、君が辛い……」
「……黒子……」
「それでも……―――生きていてくれて、良かった……」
「……!」
赤司は思わず目を見開いた。傷だらけになっても、彼はまだ。そう思うと込み上げる何かを抑えきれなくて。赤司はくしゃりと顔を歪めて、細い傷だらけの体を抱き締めた。



20130414
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