エンドロールのそのあとに
(とある企画に提出した物)


「モモちゃん、なあに、それ?」
アジトの共有スペースの机で頭を抱えるモモを見つけたマリーは、彼女の座るソファの背凭れに手をついてそう声をかけた。プスプスと煙立つ頭を上げたモモは、若干疲れたような笑みを浮かべ、マリーを見上げる。
「ああ、マリーちゃん……」
「大丈夫?」
「何とか……」
肘をついた腕で頭を支え、モモは大きく息を吐く。彼女の傍らにペタリと座り、マリーは机に広がった紙を覗きこんだ。
「これはね、夏休みの宿題なの」
「しゅくだい?」
「そう。お家でやるお勉強のこと」
へー、と感心しながら、マリーは適当に数枚とって中身を覗く。
そこに並ぶ数字や文字は、マリーにはさっぱり理解できないものだった。しかしそれはモモにとっても似たようなものらしく、しっかり記入されている回答は少ない。
モモはうーと唸って、鉛筆を握りしめたのとは逆の手で頭を掻き毟った。
「……大丈夫?」
「……多分?」
額を机にぶつけるモモの姿に、さしものマリーも楽観視できず、恐る恐る声をかけた。彼女が、何か手伝えることがあるかと問うと、モモは少し顔を上げ真っ黒い隈のこびりついた目を細めて笑った。
「大丈夫。これは、私のやるべきことだから」
アイドルの仕事にかまけてばかりいて、溜ってしまった課題だ。これを機に全てこなして、あの眼鏡教師と頭でっかちな兄貴を見返してやるのだ。
よし、と小さく呟いて、モモは少し皺の酔った紙に再度立ち向かった。―――また机とキスをするには、それほど時間はかからなかったが。
「ん?」
ふと、マリーは一番机の端にある紙に目を止めた。それは白ばかりの中、唯一桃色の彩を放っており、手にとると大分しっかりとした厚紙であったことが解る。
「これは……」
「ああ、忘れてた!」
マリーが首を傾げると、モモはダンと机を叩いて身体を起した。ビクリと肩を飛び上がらせるマリーを慌てて宥めつつ、モモは顰めた顔に手をやる。
「どうしよ……」
「どうかしたの?」
「……それ」
「これ?」
マリーはもう一度視線を紙へ落とす。
紙の上部には、でかでかと『一日家事体験』と銘打たれていた。
これがどうかしたのかと再度マリーが首を傾ぐと、モモは大きく息を吐いて肩を落とした。
『一日家事体験』―――その名の通り、普段父母に任せきりの炊事洗濯掃除を自分で行い、その方法と感想を事細かく記すものである。これを行うには、一日がかりで臨まなければならない。現状、山と積まれた他の課題に取り組んでいるモモに、その余裕はない、残念ながら。
「どうしよううう……」
頭を抱え蹲るモモに、マリーはどうしたものかと眉尻を下げた。
彼女が目を輝かせ、ぽん、と手を叩いたのは、それから少し経ってからのことだ。

「ということで、今日は私が一日お母さんです!」
二つの拳を握り、フン、と意気込むマリーを前に、キドはこっそり顔を顰めた。
(不安だ……)
ちらと左右に視線をやれば、カノは目を何度も瞬かせているし、さすがのセトも困ったように笑っている。
それもそうだろう。紅茶を運ぶだけで躓き、モモの携帯を破壊する少女だ。何事もなく無事に家事洗濯炊事をこなすことすら、期待できそうにない。むしろこちらの手間を増やすことしかしないだろう。
そんな三人の反応に気づかないマリーは早速三角巾を頭に巻こうとして、多すぎる自分の髪に苦戦していた。慌ててセトは駆け寄り、マリーの髪を一つに纏めてから綺麗に三角巾をつけてやる。
「はい、これで大丈夫っすよ」
「ありがとう!」
よし早速!と駆けだすマリーを見送ってから、キドとカノはジロリとセトを見やった。余計なことを、と言いたげなその視線の痛みを感じながら、セトはヒクリと頬を引き攣らせて笑うしかない。
「だ、大丈夫っすよ!マリーだってやればできる子なんすから!」
「お前はアレの母親か」
「ぶ!セトがマリーの母親ってことはキドが父お、ぐほ!」
キドの肘鉄を腹に受け、カノはその場に崩れ落ちる。彼に目もくれず、キドは溜息を吐いて頭を掻いた。
「別に任せるのは良いが、お前もしっかりフォローしてやれよ」
「解ってるっすよ」
ドンガラガッシャーン―――――
ヘラ、とセトが笑うとほぼ同時に響いた、そんな物音。ついで聴こえたのはヒビヤの焦る怒鳴り声と、何度も繰り返される謝罪の言葉。
セトは頬を掻いていた手を下ろし、チラリとキドを見やった。声と物音のした方向へ視線だけやっていたキドは、大きく息を吐いて肩を落とす。
「行って来い」
「……うす」

ピクリ、とヒビヤの眉が引き攣る。額にペタリと貼られた絆創膏は、可愛らしいお花柄。眉が動いたことで浮き上がったそれを指で擦りながら、ヒビヤは湧きあがる苛立ちを腹へと飲み下した。
「ご、ごめんね……」
「良いよこれくらい……」
マリーのドジさは、今に始まったことじゃない。掃除道具を抱えたマリーが何もない場所で躓いて、弾みで飛び出したバケツが頭に当たることくらい日常茶飯事、なんて。
(虚しい……)
ヒビヤはこっそり吐息を溢した。
バケツや箒をソファの傍らに置いて、セトはすっかり肩を落とすマリーの頭を撫でた。
「マリー、次はもっと周囲に気を配るんすよ」
「うん……気を付ける」
素直に頷くマリーにニッコリと微笑み返し、セトは「俺も手伝うっすから」と箒を手にとった。しかしマリーはすぐさまそれを引っ手繰り、ブンブンと首を横に振った。
「だめだよ!モモちゃんが宿題は、一人で行わなきゃって!」
「そ、そうっすけど……」
それは無理だろうから、そう言っているのだけれど……とはとても言えない。今度こそ!と意気込んで駆け出すマリーに何も言えず、伸ばした手すら所在なさげに漂わせるセトの姿に、ヒビヤは呆れて溜息を吐いた。
どうやら本日は、ゆっくり寛ぐことができないようである。
「……ま、いつものことか」
トラブルとハプニングの絶えない所だ、このメカクシ団は。

さて、マリーがまず初めに取り掛かろうと向かったのは、洗濯機であった。
各部屋から掻き集めた洗濯物をよろけながらも何とか運び―――途中何度かセトが手を貸そうかと声をかけてきたが、その都度マリーはきっぱりと断った―――、ドサドサと景気良く詰め込んでいく。
「これで良いのかな……」
あとは洗剤を入れて、スイッチを押すだけ。
洗剤の四角い箱を取り上げ、マリーは蓋を掴んだ。しかし蓋を開けようにもうまく指がかからず、何度も箱を引っ掻いてしまう。
「きゃあ!」
と、勢い余って手の中で箱が跳ね、それはそのまま洗濯機の中へ。慌ててマリーが覗きこむと、蓋はしっかり外れ中身の粉末が洗濯物を白く染めていた。
洗濯機の縁に手をついたまま思わず眉根を下げた彼女は、ぴ、という機械音に小首を傾げた。すると突然、掴んでいた洗濯機がゴウンゴウンと音を立てて揺れ始めた。マリーは驚いて手を離し、強かに尻もちをついた。どうやら、スタートボタンを押してしまったらしい。
膝を折って座り直し、マリーは前後左右に揺れていく洗濯機を見上げた。
桃色の双眸が映す洗濯機から、もわもわと白い泡が溢れだす。それが洗濯機を伝って床まで零れ落ちると、マリーは慌てて立ち上がった。
「わわわわわ!どうしよううううう!!」
「マリー?どうか、」
カチャリと音を立てて開きかけた扉を、マリーは素早くピシャリと閉める。部屋の向こう側から洗面所へ入ろうとしていたセトは鼻先を強くぶつけ、その場に蹲った。
「ま、まりー……?」
「あわわわわ、ごめんねセト!」
慌てて謝罪を呟くも、しかしマリーはピッタリと扉に張りついたまま。
彼女はここを、開くわけにいかなかった。この惨状を見られ、彼の期待を裏切るわけにはいかない。何とか、ここを乗り切らなければ。
ぐ、と拳を握りしめ、マリーは泡が沸き立つ洗濯機へ立ち向かっていったのだった。

「何してんの、セト?」
カノは洗面所の閉じた扉の前で座り込むセトの姿を見つけ、首を傾げた。膝を抱えていたセトは首を回し、「カノ」とそれだけ返す。カノが顔を顰めてまた同じ問いを繰り返すと、ああ、と頷いてトンと人差し指の関節で凭れている扉を叩いた。
「マリーが今洗濯中で……」
「きゃああ!!」
中から聞こえてきた悲鳴に、セトとカノはピクリと揃って反応し閉じられた扉を見やった。
「マリー?無理しちゃだめっすよ?」
「大丈夫だからああ!」
半泣きで叫ばれても説得力はない。内心呆れつつ、カノはチラリと心配げな様子のセトを一瞥した。
眉尻が下がったその横顔を見るのは、何だか酷く久しい。昔は良く、怒りっぽいキドとカノのやり取りを見てはそんな顔をしていた気がする。
カノはこっそり吐息を溢して視線を逸らした。
「……本当、セトって昔っから心配症だよねぇ」
「……何すか、いきなり」
向けられたジト目をヒラリと手で払って、カノは彼の前を通り過ぎて行った。

ようやっとマリーが締め切った扉から姿を現したのは、あれから一二時間ほど経った頃であった。
「うぅ……」
身体の至るところに泡をつけたまま廊下へ出た彼女は、そのままペタリと座り込んだ。
疲れた。何をって、『洗濯』に―――キドたちがいたら、それは洗濯ではないと言いそうだが―――。
何とか溢れた泡を処理し終え、現在洗濯機は正常に動作している。完了するまで、一時間というところか。それまで、他の場所の掃除をしてようか。
「うーん……」
三角巾を外し、マリーは大きく伸びをしながら自室へ向い、そこにあるソファへストンと腰を下ろした。
背凭れに身体を預け、ほう、と一息。そのままぼんやりと天井を見上げる。
「はー……つかれたなー……」
洗濯一つでもこんなに大変なものだとは―――繰り返すが、マリーの疲れの大半は洗濯によるものではない―――。母親が偉大とは、よく言ったものだ。
(お母さんも、こんなこと……)
肩に頬を乗せると、重くなった瞼が意識に反して落ちていく。そうと解ると途端に四肢も重たく感じて、マリーはどろどろとした眠気に身を任せていったのだった。

―――……リー、マリー
お日様の匂いと、名前を呼ぶ母の声。身体を包むフワフワとした毛布に顔を擦り付けながら目を開くと、穏やかな陽光を浴びたシオンが、ニッコリと微笑みながら見下ろしていた。
まだ寝ぼけ半分のぼんやりとした頭で、「お母さん……」と呟くと、白く柔らかな手がそっと頭を撫でた。
それが酷く懐かしくて愛しくて、じわりと涙の滲む目を閉じて、その暖かさに浸っていた。
そんな、小さい世界しか知らなかった、午後三時。
「……リー、マリー」
呼ばれると一緒に身体を緩く揺すられ、マリーはゆるゆると瞼を持ち上げた。
ぼやけていた視界はすぐ鮮明になり、こちらを覗きこむセトの輪郭をハッキリとさせた。
「んぅ……セト……?」
身体を起して目を擦ると、いつの間にかかけられていたらしい毛布がスルリと滑り落ちた。それを拾い上げながら、セトはニコリと笑った。
「やっぱり疲れちゃったんすね」
「う……ごめんなさい」
「いいんすよ。慣れないことしたんすから、当然っす」
毛布を丁寧に畳んでソファに置くセトをぼんやりと見つめていたマリーはふと壁にかかる時計を見て、さっと顔を青くした。
長針と短針が示す時刻は三時。十二時はとっくに過ぎている。
「お昼ごはん!」
「ああ、キドが作ってくれたっすよ」
炒飯だったと、笑顔でセトは言う。
なんてことだ、本当ならマリーがする筈だったことなのに。マリーは小さく呻いて頭を抱えた。
ソファの上でちょっとした白い毛糸玉と化すマリーに苦笑しつつ、セトは彼女の肩を叩いた。
「マリー。三時のおやつ、キドが一緒に作ろうって」
「おやつ?」
「俺たちが小っちゃいときは、いつも母さんが作ってくれてたんすよ」
三時近くなると、漂い始める甘い香り。机に並んだ手作りのホットケーキやクッキーはいつも美味しくて、たまにカノに横取りされたりしたっけ。その度に泣いてしまうセトを庇って、アヤノやアヤカがカノを叱るのだ。
懐かしい風景を思い出し、セトはクスリと小さく笑った。それに小首を傾げるマリーに何でもないと返して、セトは彼女を台所へ促した。
「さ、キドが待ってるっす」
「うん」
「美味しいの、期待してるっすよ」
「うん、私、頑張るね!」
真っ白い髪を揺らしながらパタパタと駆けていく背中を見送り、セトはホッと息を吐く。
その様子を見ていたのか、ニヤニヤとした笑みを浮かべたカノが部屋の入口で壁に凭れかかって立っていた。
「……何すか」
「いやー、何でもー?」
何でもないのなら良いが、取敢えずその笑顔は癇に障るので殴っておこう。そう心に決め、セトは手を握りしめた。

アルミ同士がぶつかり合う甲高い音が、隣の部屋から聴こえてくる。続いて、咎めるような上擦ったハスキーボイスと、それに対して謝罪を繰り返すソプラノボイスも響いてくる。
シンタローはそちらへ視線をやって、苦く笑った。
「……賑やかだな」
「あはは……マリーちゃん、大丈夫かな……」
派手に聴こえる物音に溜息を吐いて、シンタローはトン、とペンの尻でモモの手元を叩いた。
「ここ、使う公式間違えてるぞ」
「うえ!」
到底女子の口から零れるべきではない奇声を発して、モモは消しゴムを手に取る。
「全部消す前に、どこを間違えてるのか、それをはっきりさせてからにしろよ。じゃないと、いつまでも理解が深まらねぇ」
「う〜……」
渋々消しゴムを机上に戻して、モモはシャープペンシルを指で弄りながら数字を一つずつ目で追った。
頬杖をついて、シンタローは手元の携帯に目を落とす。勝手に住み着いていた住人がいなくなってから誤作動を起こさなくなった携帯は、心なしか軽くなった気がする。それが少し物足りないと思う自分に、シンタローは心中苦笑するしかない。
それを誤魔化すように緩く首を振って、シンタローは、それにしても、と呟いた。
「高校生にもなって一日家事体験て……どうなんだ」
「うう……私、家庭科の出席日数足りてないから……」
つまりは救済処置だ。裁縫のように完成品を提出するようなものではなく、体験して感想を書かせる形の課題にした辺り、教師の愛が感じられる。
(と、思っておこう)
頭をパンクさせる妹の姿に呆れの吐息を溢して、シンタローは窓の外へ視線をやった。
病気になりそうなほど、とまでは行かないが、目にも鮮やかな青空が、ガラス越しにこちらを覗きこんでいる。それと一緒に降り注ぐ陽光が少し眩しく感じて、シンタローは目を細めた。
「……」
窓の外で、ツクツクボウシが鳴いている。
手に持っていた携帯を置くと、トリケラトプスのストラップがコロリと卓上に転がった。
それを指で揺らして、弾く。
机に落ちる影の方へ倒れたそれを見て、シンタローはまた窓の外へ視線をやった。
「……もうすぐ秋か」
夏が、終わる。


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