風邪引きと折鶴
セト自身がそれに気づいたのは、バイトの帰り道。時刻は、草木も眠る丑三つ時であった。
何だか、身体がフワフワとする。まるで浮き沈みを繰り返すような感覚に、気を抜くと全てを持っていかれそうになる。夜風の冷たさが何故だか心地良くて、何となく胸元のチャックを下ろした。ふわりと入り込む風に、首筋に汗が浮かんでいることを知らされる。
もう足が地面についているかも怪しい中、セトはそれでもアジトの玄関までは辿りつけた。消えている照明は、同居人たちが既に就寝していることを示している。それに何処か安堵しつつ、音を立てないよう施錠まですると、途端に全身から力が抜けた。張っていた気が、帰宅した安心感で切れてしまったらしい。まずい、と思ったのは一瞬で、セトはそのまま頬に触れた冷たさを享受し、目を閉じた。

その日、カノは何故だが早くに目が覚めた。といっても、何となく理由は察している。セトが、帰宅してこなかったからだ。いや、正確に言えば、セトのものである隣室の扉が開く音がしなかったのだ。一応消灯してベッドに潜り込んでも、カノはその音を聞くまでは安心して眠りにつかない。もう、そういう癖がついてしまっていた。つまりカノが熟睡するにはその音が必要なのだが、昨日はそれが日付の変わる時刻になってもせず、結果だらだらと浅い眠りを繰り返して今に至る、というわけである。
流石のキドもまだ起床しておらず、降りてきた共有スペースは薄暗さに包まれていた。欠伸で浮かんだ涙を拭いながら、カノは取敢えずと水でも飲もうかとソファに手をついた。
「……ん?」
そして目を開き、固まった。ソファの影に隠れて解らなかったが、何か大きな塊がドア付近に転がっていやしないか。薄暗い中でもぼんやりと解るあの緑色は。
「―――セト?」
どうしてそんなところで。まさか疲れて帰宅と同時に眠ってしまったのではあるまい。彼の体力は、メカクシ団内では一二を争うほどだ。そんな疑問を抱きつつ、しょうがない弟だとぼやきながらカノはセトの傍らにしゃがみこんでその肩を揺らした。
「セトー、起きなよ、セトー」
「んぅ……」
掴んだ肩は温かくて、未だ子ども体温なのかと呆れてしまう。半分ほど脱げたフードに手を差入れて顔にかかる前髪をかき上げると、セトはようやっと小さく身じろいだ。その拍子に指先に触れた額は、薄らと汗をかいている。まさか、とカノが思い始めた頃、セトは重たげに瞼を開いて、真っ赤な瞳をこちらへ向けた。
「……カノ……」
弱弱しい声。咄嗟に彼の目を手で隠して、カノは苦く顔を顰めた。これは非常にまずいことになった。

「こんにちはー!」
「……お邪魔します」
今日も今日とて妹とパソコンの住人にせがまれて―――脅されて―――アジトを訪れたシンタロー。ヒキニートなんて自称していた頃が懐かしい。思わず乾いた笑みを溢す兄を捨て置いて、元気よくアジトに飛び込んだモモは、いつもと少し違う雰囲気に小首を傾げた。
「あ、キサラギ。よく来たな」
いつものパーカー姿ではなく、ポニーテールにエプロンという動きやすい恰好のキドが、土鍋を乗せたお盆を手に台所から現れる。彼女は口早に、今立て込んでいるから好きに座っていろとだけ言い、早足で何処かへ行ってしまった。はて、と兄妹揃って首を傾げていると、ソファに座って折り紙を折っていたヒビヤが顔を向けた。そんな彼の隣では、懇切丁寧に、それこそ魂をこめるような勢いで、マリーも折り紙に勤しんでいる。彼女の傍らには折鶴が山になっていた。
「おばさんたちも座れば。当分、団長たちは忙しいだろうから」
「何があったんだよ」
マリーの折った鶴を一つ摘み上げ、シンタローは眉を顰めながらソファに腰を下ろした。その時、丁度彼の隣になったコノハが目を輝かせながら持ち上げた折鶴は何故か足付で、シンタローとエネは頬を引き攣らせることになる。そんなコノハに対するツッコミは既に済んでいるのか、ヒビヤは軽くスルーして、自分の折っていた鶴の羽根を広げる。流石、裁縫が得意だけあって手先は器用なようだ、中々の出来である。それが崩れないよう、他の完成品と一緒に脇に並べながら、ヒビヤは言葉を続けた。
「風邪引いたんだって、セトさん」

「あんなところで寝ていたからか?」
「いや、多分その前からじゃないかなー」
幾らセトでも、玄関で寝るようなことはしないだろうから、恐らく体調不良で動けなくなったのだろう。そのために玄関で寝ることとなり、余計病状が悪化したと思われる。すっかり赤くなった頬と、熱のためにとトロンとした赤い瞳を見て、カノは苦笑した。額に貼った冷えピタを手の甲で摩り、ベッドの上で上半身を起したセトはゆるりと首を回す。そんな彼に肩を竦めて見せ、キドはローテーブルに並べた小鉢を取った。
「ほら、卵粥だ。食べろ」
「……食欲、ないです……」
「食べろ。じゃないと薬が飲めないだろ」
小鉢に添えた匙をとって卵粥を少し掬うと、キドはセトにそれ差し出した。つんつん、と唇を突くそれに負け、セトは小さく口を開く。そこを逃さず、キドは殆ど捻じ込むように突っ込んだ。それを咀嚼しながら、セトは小さく咳き込む。また苦笑しながら、カノは緑のカーディガンをかけた背中を摩った。
「熱いです……」
「本当に猫舌だな……」
全くと吐息を溢しながらも、キドは新しく掬った粥に息を吹きかけてから差し出す。カーディガンの胸元を押さえたまま、セトは少し身を乗り出して口を開けた。まるで母子のようなその光景に、カノは吹きだしそうになるのを耐えて震える。そんな彼の心情を察したのはセトで、彼はじろりとカノを見やった。
「カノ……」
「ごめんごめんて」
そう言えば今の彼は能力制御が出来ない状態なのであった。口元を片手で隠しながらカノはそう言うが、セトが「僕はキドの子どもじゃないです……」と呟いてしまったものだから、状況が理解できず首を傾いでいたキドもばっちり把握してしまった。セトは昔から余計な事しか言わない―――今では自分がそうであるというのに、それを棚に上げて心中ぼやくカノはキドから脳天チョップを受けるのであった。

「能力の暴走?」
折り紙を三角に折る手を止め、シンタローは思わず聞き返した。ヒビヤは手元に目を落としたまま、それに頷きを返す。彼の隣では、マリーに教わりながらモモが歪な鶴を作っていた。シンタローの隣ではコノハが、流石に注意を受けて何とか足無しの鶴を作ろうと奮闘しているが、何故か出来たのは兜であった。何故だ。一瞬そちらに向かってしまった視線を戻し、シンタローは止めた手を動かした。
「何でも、体調不良の時は能力の制御が出来なくなるんだって、セトさん」
ぴ、ぴ、と音が付きそうなほど、ヒビヤの手つきはキビキビとしており、作る嘴は美しく尖っている。
「だから部屋は立入禁止なんだ」
ヒビヤの話で得心のいったシンタローは、成程と呟いてちらりと奥へ続く扉を一瞥した。それで落ち着かないマリーを留めるために千羽鶴なんぞ制作しているわけか。自分もすっかりそれにまきこまれてしまっているし。「ほらほらご主人、手が止まってますよー」なんていう発破を適当にあしらいながら、シンタローは折り目を基に紙を広げる。
「キドたちだけ狡い……」
「団長さんたちこそ、うつらないんですかね」
ぷぅ、と頬を膨らめるマリーの隣で、モモも心配げに扉を見やった。何やらブツブツとボヤキながら、マリーはしかし手だけは止めない。そんな彼女を一瞥し、シンタローはこっそり吐息を溢した。
マリーではないが、少々気に入らない。セトは今、望もうと望まざると人の心の声を聞いてしまうという状況にある。そんな中、彼が安心できるのは幼い頃から共に生きてきたあの二人の傍だけなのだろう。
「気に入らないよね」
シンタローの心を読んだように、ヒビヤが呟いた。彼はぴ、と鶴の翼を広げ、その両端を指で摘まんだまま視線まで持ち上げた。
「僕らだって、仲間なのに」
鋭く尖った嘴が、シンタローに向く。ふ、と吐いた息に乗って少しの間宙に浮いていた鶴は、カサリと音を立てて机に着地した。
別に、キドたちはシンタローたちがセトに向かって心中悪態を吐いているとは思っていないだろう。ただ、セトやシンタローたちに余計な気を負わせないようにしているだけだ。しかしまあ、シンタローたちから言わせてもらうなら、そんな気遣いすら不要なわけで。
「……今日はやけに素直だな、ヒビヤ」
「僕が気に入らないことを甘受けするような人間に見えるの?」
それにマリーが五月蠅いんだ―――言い訳のように呟いて、ヒビヤはフイと視線を逸らす。成程、と一応呟き返して、シンタローは出来上がった鶴を一つ、机に置いた。
とある少女が好きだったそれ―――いや、親に見せられない答案の使用法が、他に見つからなかっただけかもしれないけれど―――ほど、うまく出来たようには思えない。白地が垣間見えるようなヨレヨレの鶴は、軽くつつけば容易く倒れた。
「セト、早く元気にならないかな……」
小さく、マリーが呟く。彼女は、今し方出来上がったばかりの薄桃の鶴を見つめていた。これだけ折ったんだから大丈夫だよ、とモモが明るい声を出す。彼女の笑顔につられて、マリーも笑みを浮かべた。それを見て、自然とシンタローの口元も緩む。彼はそれから、さて、と呟いて腰を上げた。
「シンタロー?」
「渡しに行くんだろ、それ」
首をカクンと曲げるコノハに見えるように、折鶴の山を指さす。
「で、でも、まだ紐で繋げてない……」
「良い方法があるぜ」
シンタローも人からの受け売りなのだが。そう言い置いて、小首を傾げるマリーの視線を受けながら、シンタローは赤い折鶴を拾い上げた。

「ごちそうさまです……」
「お粗末さまです」
ゆっくりと時間をかけて空になった土鍋を見て、キドは満足げに息を吐く。彼女がそれを片付けようと腰を持ち上げた時、扉が小さく鳴った。
「おー、本当に調子悪そうだな」
「ご主人みたく引きこもっているわけないでしょー」
「大丈夫ですか、セトさん」
ひょっこりと顔を覗かせたモモが、炭酸お汁粉の缶を片手に心配そうにセトを見やる。まさかそれ、お見舞い品ではあるまいな。痛いところをつくエネに五月蠅いと返して、シンタローは頭を掻きつつ部屋に入って来た。後から、モモとヒビヤ、マリーも続く。最後尾を歩くコノハは、何やら片手でビニル袋を持っていた。
「おい、お前たち……」
「水臭いですよ、団長さん。私たちだって、メカクシ団の一員じゃないですか」
ズイと顔を近づけるモモに、「だがなぁ……」と言葉を濁したキドは、しかし諦めたように溜息を吐いた。
「セト、体調はどう?」
「お蔭さまで……でも、駄目ですよ、マリー。風邪、うつっちゃいます」
コホコホと咳の零れる口元に手を宛がいながら、セトは布団に手をつくマリーを困ったように見やる。そんな彼の様子にモモとシンタロー、ヒビヤは思わず顔を見合わせた。
「……なんか、セトさんいつもと様子違います?」
いや、熱があることは解っているのだが、それにしては常より雰囲気が違うような。カノとキドは顔を見合わせ、二人して苦笑した。実は、とカノはセトの背に手を添えたまま頬を掻く。
「セト、体調不良になると能力制御ができなくなるんだ。それと一緒に、何でか知らないけど、昔みたいになっちゃってね」
俗に言う、幼児退行。成程、彼らが本当に隠したがっていたのは、こちらであったのか。小さく舌打ちするキドに呆れるシンタローの横で、モモは興味津々と言った風に目を輝かせていた。
「セトさん、昔は敬語だったんですか」
「そう。キドが嫌がったからやめたんだよねー」
「へ、団長さん、敬語嫌いだったんですか?!」
「そんな顔をするな、キサラギ。昔の話だ」
まさか自分は今まで機嫌を損ねていたのかと顔を青くするモモに慌てて弁解して、キドは思い切りカノを睨む。昔の、捻くれていた幼い頃の話だ。それに、セトの敬語は同い年なのに、という修飾もつく。モモの場合は年下故のそれであるから、あまり気にはならない。
そんな一連の様子を見ていたセトは、不意に眩しい時にそうするように、目を眇めた。それを目敏く見つけたヒビヤが、どうかしたのかと問う。セトは―――誰の趣味かは知らないが―――カエルのクッションを抱きしめて、いや……、と言い淀んだ。
「眩しいの?……やっぱり、僕らの『声』が五月蠅い?」
「そんなことないですよ……ただ、」
カラフルだなって。
セトの能力は、人の内なる『声』を聴覚化するものだ。視覚化するものではない。それでも時折、『声』がカラフルなシャボン玉になっているように感じるのだ。シャボン玉が、あちらこちらで割れては光って、パチパチと音を立てる。時々、この赤い目にはそのように映ることがある。
「……こんなにも、世界は綺麗だったんだな、って」
その昔、それはナイフであった。しかし今では、世界を鮮やかに彩るシャボン玉である。ふーん、と頷き返し、ヒビヤは興味なさそうに無表情で視線を動かした。今セトの視界では、この自分の前にも何色かのシャボン玉がプカプカと浮かんでいて、不意に弾けているのだろうか。
世界は目によって左右される。同じ風景でも、見る人によってそれは千差万別。一番解りやすい例として上げるなら、霊感を持つ人と持たない人との違いであろうか。ある人にとって幽霊はそこに在り、別の人にとってそれは存在しない。人の『目』の数だけ、世界は在る。
(セトさんの世界は、綺麗なんだろうな)
その情景をそっと想像して、ヒビヤは目を眇めた。そう、それはきっと―――
「セト」
不意にコノハが声をかけた。なんですか、と顔を上げた彼に向けて、コノハは持っていた袋を振り上げる。
ばさ、と色とりどりの折鶴が辺りを飛び回る―――そう、こんな世界だ。
「わぁ……」
「千羽鶴、セトのために皆で折ったんだよ!」
布団に落ちたそれらと、偶然手の平に乗った一つを見下ろし、セトは目を輝かせた。驚く彼を満足そうに見つめ、マリーはモモと顔を見合わせる。
「うまくいったね」
「他のことで気を紛らせてた甲斐がありましたね!」
「特にモモが心配だったが」
「コノハに任せて良かったー」
「……うん」
コノハも何処となく満足げに頷いた。成程、彼はこの部屋を訪れてから一度もセトと目を合わせていなかったのか。全く、と呟きつつも、キドは笑みを溢した。カノもクスクスと笑って、折鶴をじっと見つめるセトを見やる。
「愛されてるね、セト」
セトはフニャリと顔を崩した。
「―――はい、そうみたいですね」
パチパチと、目元でシャボン玉が弾ける。ああ、世界はこんなにも美しい。少し、眩しすぎるかもしれないけれど。

「うん。大分下がったね」
その夜、朝と比べれば随分と低くなった体温計の数字を見て、カノはホッと息を吐いた。ベッドで枕に顔を埋めながら、セトも小さく笑む。彼の腕には枕の代わりにキドが寄越したカエルのクッションがすっぽりと収まっていた。何かを抱きしめるくせも再発か、とカノはこっそり独り言ちる。まるでライナスの毛布、いや、ここはセトの枕とでも言うべきか。そんなことを考えて一人こっそり笑っていると、「カノ」と少々強く名前を呼ばれた。
「まだ、聴こえるんですからね……」
「ごめんごめん」
もう、と唇を尖らせる彼の頭を撫で、そっと手を握る。するとセトは照れたように目を逸らして、けれどしっかり握り返した。
「今日は久しぶりに一緒に寝る?」
「……そこまで子どもじゃないです」
「まあまあ。キドも呼んで、三人で寝ようか」
「三人も入らないですよ……」
そんなやりとりを繰り返すうち、セトの瞼が少しずつ落ちていく。ゆっくりと隠れていく赤には、蜂蜜色が戻りつつあった。
「もう寝なよ」
眠るまで、傍に居るから。
ふと、自分で呟いた言葉に、カノは記憶の奥底が刺激されるのを感じた。まだ母が存命中のある日、傷の消毒が甘かったのか、そこからばい菌が入って発熱したことがあった。熱に浮かされる頭はクラクラとして、ぼんやり見上げていた天井の木目が化物のように見えたものである。お母さん、お母さんと、譫言のように呟いて、ただただ布団の中で蹲っていた。そんな夢うつつの中、冷たくて気持ちの良い何かが、カノの頬を撫でたのだ。それは頬だけでなく額にも触れ、それから優しく背中を叩いた。赤ん坊をあやしつける時、母親がするそれと同じであった。それはカノが完全に熟睡するまでは、確かに続いていた。
「……カノ」
カノはフッと浅い回想の海から上がった。それから、こちらをやや心配げに見つめるセトに笑みを返す。そ、とその目を隠すように手を伸ばす。
「……おやすみ」
暫くして、セトが完全に熟睡したのを確認すると、カノは彼を起さないよう気を付けながら部屋を後にした。
「セトは寝たのか?」
扉を静かに閉めた途端、そんな声がかかる。見れば、扉の脇で腕を組んだまま壁に凭れるキドの姿があった。一体、いつからそこにいたのだろう。彼女のことだから、入るタイミングを掴めず、長時間ウロウロしていたのかもしれない。
「うん。明日の朝には復活してそうだね」
「そうか」
で?とキドが首を傾ぎながら言うものだから、で?とついカノも同じように返した。何のことか、彼にはさっぱりなのだが。
「一緒に寝るか?三人で」
「……聞いてたの」
「たまたまだ」
別に俺は構わないぞ―――そう言って肩を竦め、キドはカノの横を通り過ぎていく。はは、と少し笑ってカノもその後を追った。
「ベッド、狭くなるね」
「俺は構わない。……カノが小さくなれば良い」
「あ、それは僕、朝には蹴落とされてるパターンだね」
苦笑しながら、カノは頭の後ろで腕を組む。まあ、たまにはそれも良いかもしれない。だって、今ではすっかり逞しくなった彼を甘やかすことが出来るのは、滅多にないのだから。


20140423
20140425再掲載
×
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -