泡色マーメイド
(カノ→セト→シンアヤで人魚パロもどき)


硝子のように水が澄んでいる海の底深くには、人魚の国がある。そこにはキド、カノ、セトという、三人の人魚が住んでいた。キドはアメジストの鱗と水母のように優雅な鰭を持ち、カノはオニキスの鱗と泡のように柔らかな髪を持ち、セトはエメラルドの鱗と星のように輝く瞳を持っていた。三人は何処へ行くにも何をするにも一緒で、とても仲の良い幼馴染であった。
ところで、人魚たちは十五歳になる、と海の上にある人間の世界を眺めることが許されていた。それは薄れていった古い慣習で、今ではそんなことをする人魚は珍しかった。好奇心旺盛な三人は人間という生き物を一目見たいと思い、それをやろうと言い合った。一番初めに十五歳になったのはカノで、彼はクルクルと回転しながら水面へ浮かび、触れても壊れないカラフルな泡を持ち帰ってきた。次に海上へ上ったのはキドで、彼女は珊瑚を連ねたような髪飾りを拾ってきた。
一番遅くに十五歳になったのはセトで、彼は二人が持ち帰った物と土産話に、早く海の上を見てみたいという思いを募らせていた。やっと十五歳になるという日、セトはキドとカノに見送られながら、待ち望んでいた海上へと急いだ。
セトが初めて目にした海上には、その時丁度、大きく豪華な客船が浮かんでいた。
「うわー、おっきいっすねー」
ふとセトは、キラキラとした光を溢す客船の先頭に誰かがいるのを見つけた。それはこの海に面した大陸に広がる国の王子シンタローだった。そうとは知らないセトだったが、少し物憂げに海を眺めるシンタローの姿に、彼は目が離せなくなってしまった。月が空の頂上を昇る頃には帰るよう、キドとカノから言われていたセトは、しかしそんなことも忘れてシンタローを見つめ続けた。
月が空の天辺から少し外れた頃、突然稲妻が光り、嵐が辺りを襲った。あまりの激しい波によって大きな船はひっくり返り、乗客はシンタローも含めて海に投げ出されてしまった。
「大変っす!」
大慌てでセトは海を泳ぎ、溺れて水底へ沈んでいくシンタローを浜辺まで引っ張り上げた。浜辺へ横たえたシンタローは固く目を閉ざしており、水を多く飲んでいるのか息をしていなかった。セトは急いで彼の唇に自分のそれを重ね、呼吸を吹き込んだ。
「……っごほ!」
身体を弓形に撓らせて、シンタローは飲み込んだ海水を吐き出した。か細いながらも呼吸を再開するシンタローに、セトはほっと安堵の息を溢した。
と、少し離れたところから、砂を踏む音が聞こえてきた。セトは人間に見つかってはいけないと思い、慌てて海へと飛び込んだ。
「……誰かいるの?」
シンタローだけが取り残されたそこへ現れたのは、黒髪とワンピースの裾を風に揺らせた少女だった。彼女はずぶ濡れで倒れるシンタローの姿に驚き、慌てて彼の傍へ駆け寄った。
少女がシンタローの介抱をする様子を見届けてから、セトは海へ潜って自分の国へと帰って行った。
さて、セトはしかしどうしてもシンタローを忘れることが出来ず、彼への思いを募らせていった。どうにかしてシンタローに愛されたいと願うようにさえなった。
セトはある日、海の魔導師と呼ばれ、海の一等深いところで一人暮らすクロハの元を訪れた。深海に近いクロハの家は、薄暗い洞窟の中にあって、揺れるランプの光で照らされる内部は薄気味悪いものであった。身体を小さくして辺りを落ち着きなく見回すセトに、クロハは可愛らしい小瓶を投げつけた。
「これは……?」
人差し指と親指で挟んで掲げると、緑色の小瓶の中に何かの液体が入っているのが解った。
「お前の鰭を、人間の足に変える薬だよ」
正し引き換えに、セトの魔力を宿す人魚の声を寄越せとクロハは言った。クロハの冷たい手で喉を掴まれ、セトはビクリと肩を飛び上がらせた。
「声を……?」
「ああ。それと痛みか。慣れない二本の足で歩く痛みと、お前の声、それがその薬の対価になる」
「痛み?」
「まあそれは、薬を飲めば解るよ」
どうするのかと問うクロハに、セトは小瓶を強く握りしめて大きく頷いた。その返答に、クロハは満足そうに笑った。
「人魚っていうのは人間より長い生を持つ代わりに、魂ってものがねぇ。だが魂を持つ人間に愛されることで、人魚もまた魂を授かることができるんだ。その王子サマの愛を手に入れられなければ、お前は泡になって消える」
クロハがセトの喉を指で叩くと、そこからフワフワとした海ほたるのような光が、彼の指先に乗っかった。それがセトの声であるらしく、クロハは傷つけないよう慎重にそれを別の小瓶にしまった。声の出なくなった喉を抑え、セトはぺこりと頭を下げると、小瓶をしっかり握りしめて海上を目指した。そして、シンタローを運んだ浜辺で、クロハから貰った薬を飲んだのだ。
そうしてセトが次に目を覚ました時、そこは豪華な天蓋付のベッドの中であった。ぼんやりとしながら辺りを見回すと、セトの目覚めに気づいた人影が閉じていた天蓋を開いた。シンタローである。
「気が付いたか」
浜辺で倒れるセトを拾ったのは、朝の散歩中の彼であったらしい。シンタローはセトについて色々と訊ねたが、声を失っているセトは何も答えることが出来なかった。シンタローはそのことを憐れんで、城に留まることを許してくれた。セトにとって、シンタローの傍にいられるというそのことは、願ってもないことであった。
嬉しい気持ちでいっぱいだったセトは、針山を歩くような足の痛みにも耐えることが出来た。ある日、そんな彼の前に、シンタローは一人の少女を連れてきた。アヤノという名前の少女は、シンタローの婚約者だという。
「嵐の夜、溺れた俺を救ってくれたんだ」
「私は、浜辺に倒れていたシンタローを見つけただけだよ」
彼は、セトのことを全く覚えていなかったのだ。
突き刺すような足の痛みよりもずっと心が痛くて、セトはその夜、海の臨むテラスで一人涙を流した。このままではシンタローからの愛は貰えず、セトは泡になって消えてしまう。
「セト!」
その時、セトを呼ぶ声がした。くすん、と鼻を鳴らして顔を上げると、黒々とした水面から顔をだすキドとカノが見えた。手摺に駆け寄るセトに、カノは短剣を差し出した。それは、キドとカノがセトを助けたい一心で、海の魔女と呼ばれるマリーから貰って来た物だった。
「これでシンタローくんの心臓を刺して、その血を足にかけるんだ。そうすれば、再び人魚に戻ることが出来る」
カノはそうセトに説明した。セトはしかし、頑なに短剣を受け取ろうとはせず、首を横に振った。シンタローを殺すよりも、自分が泡になった方がマシ。そう思う程度には彼のことを愛していたからだ。
「セト!」
咎めるようなカノの声を振り切るようにセトは部屋へ飛び込み、窓とカーテンを閉めた。ごめんなさいという謝罪さえ、声を失った今の彼には不可能だった。セトはその夜、涙で海がもう一つ出来てしまうのではないかという程、静かに泣いた。
さて、それから数日経ってもセトがシンタローから愛を受け取ることはなく、彼はただ日々を淡々と過ごしていた。
ところで、シンタローはアヤノと共にセトを呼び、海の見えるテラスで茶会をすることを好んでいた。その日も、シンタローはセトを茶会に招いていた。しかしセトはその日、何となく気分が優れないと言って、一人与えられた部屋に閉じこもっていた。そんな彼が心配だとアヤノと言い合って、シンタローはセトの分のケーキに視線を落とした。
「王子、お客様です」
その時、そう言ってテラスに現れたのは、深くシルクハットをかぶり顔の半分を隠したタキシード姿の紳士だった。優雅に一礼した紳士は、真っ直ぐシンタローに歩み寄った。シンタローも立ち上がり、少し不審に思いつつ、紳士に笑顔を向けた。紳士はにっこりと笑い、そして徐に、袖に隠していた短剣でシンタローの腹を刺したのだ。
「!」
「シンタロー!」
ガクリと膝をつくシンタローに、驚いてアヤノが駆け寄った。シンタローから短剣を引き抜き、狂ったような笑い声を立てた。
「良い気味だ!あの子を裏切った罰だよ、王子サマ!」
紳士は高らかにそう叫んで、部屋に集まりつつあった兵士たちを振り切って逃げだした。シンタローは紳士の言葉の意味が解らず、混乱したまま、痛みのために意識を手放した。
紳士の正体は、クロハに頼んで人間の足を得たカノだったのだ。カノは血の滴る短剣を片手に、セトのいる部屋の扉を乱暴に開いた。
「セト」
「!」
ベッドに座っていたセトは、カノと彼の姿と彼の手にある短剣を見て、酷く驚いたように目を丸くした。駆け寄って来るセトにカノも駆け寄って、力強く抱きしめた。
「セト、これで君は人魚に戻れる」
カノはほら、と血塗れの短剣を見せた。その血が誰の物か察したセトは、みるみる顔を青くする。しかしそれに構わずカノはその場で膝を折ると、足を覆う布を裂き、現れた白い足に真っ赤な血を塗りたくった。
途端、セトの足から力が抜け、崩れ落ちた彼の身体をカノが受け止めた。ざわつき始める廊下を少し見てから、カノはセトを横抱きにすると、ベランダへ続く硝子戸を足で開けた。セトは一度目に薬を飲んだ時と同じように、身体が熱くなるのを感じていた。少し視線を上げると、カノは安心させるように小さく微笑みを返してくれた。
「セト、君はどうか生きて」
薄ら汗の浮かぶセトの額に口づけを落として、カノは彼の身体を思い切り海へ向かって投げ飛ばした。セトは成す術のないまま海へ落ち、そのまま沈んでいったのだった。
そうして意識を失ったセトが目を覚ましたのは、いつかの時訪れたクロハの住まう洞窟だった。驚いて飛び起きると、人間の足が人魚の鰭に戻っていることに気づき、セトは更に目を丸くした。セトの目覚めに気づいたクロハが、面白い物を見るような目で笑いながら、説明してくれた。
カノは自身の美しいオニキスの鱗と引き換えに、セトと同じく人間の足を手に入れたのだった。彼の目的は、セトの代わりにシンタローを刺し、その血を手に入れることだった。
「今頃地上は大騒ぎだろうな。一人の男によって王子は刺され、客人は海に捨てられた。明朝には、そいつの処刑が決まっているとか」
王族へ危害を与える者は、如何なる理由であろうとも死刑。それが地上の国での、馬鹿げた法律だ。そんな、と言いかけて、しかしセトは声がでないことに気づいて喉に手を当てた。
「お前の声は薬を渡す対価であって、効果ではないからな。女王の解術でも戻らないさ」
そう言って、クロハはセトの声が入った小瓶を振って見せた。セトは何とか自分の言葉を伝えようと、身振り手振りでクロハに示した。魔導士と呼ばれるだけあってか、クロハは頭の中で念じるだけで構わないと言った。
「あの男を助ける方法か?」
コクリとセトは頷く。
「アイツを人魚に戻す方法を教えてやってもいいけど、今度は何を対価に出せる?」
う、とセトは言葉に詰まった。声は既に差し出している。髪も、セトはキドのように美しくも長くもない。目を泳がせるセトの顎を掴み、クロハは彼の顔を見定めるように顔を近づけた。ニヤリと口元を歪めたクロハに、セトは怯えて肩を竦めた。
「お前が出来るって言うなら―――」
クロハが耳元で囁いた条件に、セトは迷った末力強く頷き返したのだった。
さて、セトを海に投げ入れた後、カノはすぐに部屋に飛び込んできた兵士たちによって取り押さえられた。手当が早かったためシンタローは一命を取り留めたとは言え、彼直々の客人として城に留まっていたセトが行方不明だ。シンタロー自身の怒りが何より凄まじく、カノの処刑が決まるのに時間はかからなかった。
しかし、カノは後悔した様子を見せず、ただ牢屋の中で不敵な笑みを湛えていた。そんな彼の様子を兵士から聞いたシンタローは不思議に思い、傷を心配するアヤノと護衛の兵士を連れて、カノのいる牢屋を何度か訪れた。彼の言う、『シンタローが裏切ったあの子』のことも聞くために。しかしカノはシンタローが何度訊ねても、牢屋の粗末なベッドに腰掛けたまま、格子の向こう側に立つ彼を見て、小さく笑むだけだった。「君にとってはその程度だったんだよ」と言って。
シンタローはやり場のない怒りに拳を震わせ、部屋の中を落ち着きなく歩き回った。セトは、シンタローとアヤノにとって、良き友人であった。喋ることが出来ないため、過去やこの国に来た経緯を詳しく聞くことはなかったが、そんなことは気にならないほど、シンタローとアヤノは彼のことが好きだった。だから、あのカノという男の所業がどうしても許せなかったのだ。
「シンタロー……」
「大丈夫だ、アヤノ」
心配そうに眉を下げるアヤノに小さく笑い返して、シンタローはソファに身を沈めた。手で顔を覆い、シンタローは海の中へと消えた友の名を切に呟いた。
「セト……」
同時刻、鉄格子のはまる小さな窓から空を見上げ、カノもそう呟いた。カノは、セトのことが好きだった。セトがシンタローに一目惚れするよりずっと以前から。だからこそ、彼のためにこの身を犠牲にしようと決意出来たのだ。後悔なんて、ある筈はない。
処刑は、明朝。水平線から零れた旭が照らす海がよく見える高台で行われた。
鉄の太い手錠で両手を一纏めに拘束されたカノは、シンタローやアヤノ、その他少数の兵士たちが見つめる中、高台の端まで足を進めた。そこは崖のように海へ突き出すように造られており、そこから罪人を突き落とすのがこの国の処刑方法だった。
カノはクロハとの取引により、あと数時間で泡になってしまう運命。何処でどのように処刑されようと、構いはしなかった。
高台の一番端で、カノは足を止めた。海から吹き上がる風が、彼の柔らかい髪を撫でた瞬間、背後で控えていた兵士が背中を強く押した。その時だった。
「―――!」
セトの声が、聴こえた気がした。カノは思わず閉じていた目を開き、首を回して離れていく高台を見やった。シンタローや兵士たちが目を丸くする中、観衆の中から飛び出した人影が一つ、カノと共に飛び降りたのだ。先に落ちたカノへ向けて一生懸命手を伸ばしているのは、セトだった。
「……セト」
どうしてここに。そう問う暇は、カノにはなかった。セトに強く抱きしめられるとほぼ同時に、二人は水面に叩きつけられたのだ。
一高台でその様子を見ていたシンタローは、震える手で口元を覆った。あれは間違いなくセトであった。そして唐突に、彼の頭の中であの嵐の夜の映像が浮かび上がったのだ。水中でぼんやりとする意識の中、誰かに抱きしめられて浜辺まで運ばれた。あれはアヤノではない。
「まさか……セト、だったのか……?」
震える彼の声は誰に届くこともなく、シンタローは一人その場で泣き崩れたのだった。
一方、海にセトと共に沈んだカノは、薄く目を開いた。セトの顔は思いの外近くにあり、目が合うと彼はニカリと笑った。それから両手でカノの頬を包むと、セトは自分の唇を彼のそれに重ねた。
「……!」
カノが驚く間にセトは離れていき、少し照れたように頬を赤らめた。今のセトは、鰭を持たない人間の姿をしていた。それを問いただそうと口を開いた瞬間、カノは自身の身体が熱くなったことに気が付いた。それはクロハから貰った人間の足を手に入れる薬を飲んだ時と同じであった。まさか、セトがまたクロハと取引してカノを人魚に戻す方法を得たのだろうか。
カノの予想は大当たりであった。クロハの出す条件を飲んだセトは、カノを人魚に戻すための方法を教えてもらっていた。それはセトのエメラルドの鱗を、彼に飲ませることで、先ほど口移ししたのだ。人魚であるセトの魂をクロハに差し出すということを、交換条件として。
今回セトが手に入れた人間の足は、海水に浸かれば鰭に戻るという簡易な呪いだ。既に足は、鰭に戻りつつあった。そして、それと同時にセトの身体は泡状になってクロハの手元へ向かう。そういう約束だ。
声は既に彼の手元にあるので、セトがそれらをカノに伝えることは出来ない。代わりに、セトは強く彼を抱きしめた。殆ど人魚に戻りつつあったカノは、腕を回してそれに応えた。少しずつ泡になるセトの身体を、少しも離さないと言うように、強く。
「カノ、セト!」
その時、そんな鋭い声が飛んで、光る泡として消えかけていたセトの身体が元の実体を持った人魚のそれに戻った。驚いた二人が顔を見合わせてから声のした方を見やると、そこにはマリーと、何故か髪を短く切ったキドの姿があった。
「良かった、間に合ったー」
マリーはすっかり安堵したという様子で息を吐いた。キドは涙が薄ら浮かぶ目を吊り上げ、二人の傍によると、思い切り彼らの頬を叩いた。
「この、馬鹿!」
彼女からの説明によって、カノはセトがクロハと交わした約束を知った。そしてそれを留めさせるよう、髪を対価としてキドがマリーに頼んだ、とも。
「二人して勝手に……いい加減にしろ!」
特にセト!とキドの睨みが飛んで、セトは益々身を縮めた。
「ごめん、キド。折角綺麗な髪だったのに」
「……髪はまたすぐ伸びる」
それよりも無事で良かったと、存外泣き虫なキドは、それを誤魔化すように二人を纏めて強く抱きしめた。
そんな三人を少し離れた場所から眺めていたマリーは、ふと隣に現れた気配に、視線をやることもせず「残念だったね」と呟いた。気配の正体はクロハで、彼は少し肩を竦めただけだ。
「まあ、人魚の魂は無理だったが、声は手に入った。今回はこれで良しとするさ」
「今回で終わりだよ。次はない。私が手を出させない」
マリーの静かな瞳に射抜かれ、クロハはニヤリと口角をつり上げた。
「……精々頑張ってくれ、女王」
そう言い残し、クロハは海に溶けるように姿を消した。
その後、セトたち三人は以前と変わらぬ日々を過ごした。変わったことと言えば、セトの声が失われたこと。それと、謝罪と称してシンタローとアヤノが、三人に会いに浜辺へ訪れるようになったことだ。
人間と人魚のお話は、そこからまた、始まる。



20140310
20140311再掲載
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