妖怪パロ(ペダル)



これは約束だと、彼は言った。
決して違えてはならぬ、失くしてもならぬ。ただ、忘れることは致し方ない。
「忘れたら、破ってしまうかもしれないです」
そう言えば、しかし彼は笑ってそれはないとハッキリ言った。
「お前が忘れても、約束は果たされる」
これは、そう言った契約だ。
そして彼は、歌を口遊んだ。
ゆーびきーりげんまん、うーそつーいたらはーりせんぼん、のーばす
「指切った」
ぱ、つ、ん。



【浅葱幕の落ちる前】



山の稜線を溶かすような白い光が、山を、大地を、世界を照らす。囀る鳥の声と木の葉の揺れあう音しかない、澄んだ空気の満ちる世界。そんな静かで穏やかな―――
「カー!何しよるねん、このスカシ!」
「悪い、視界に入らなかった」
「遠回しにチビって言いたいんかい!」
……静かでもない、朝。
山へ高らかに響く声が聴こえるその神社は、街が一望できる高台にある。
百段階段を上った先で出迎えてくれるのは、真っ赤な石鳥居。そこを潜れば、古いけれど立派なお社へと辿りつく。お社に向かって右手にあるのが、関係者の住まう邸宅だ。
その母屋の一室、程よく整えられた庭園に面した部屋から聴こえるのは、談笑とは言い難いほどの喧騒。そこの障子は大きく開かれ、室内で繰り広げられる風景を屋外へ伝えていた。
「あー、ワイの卵焼きぃー!」
「もう要らないのかと」
「大切にとっといたんやー!」
赤漆の箸を握りしめ、真っ赤な髪を振り乱し、鳴子は右隣に座る今泉に食って掛かる。しかし今泉は鳴子の威圧など気にも止めず、淡々と礼儀正しい姿勢で朝食を続けていた。
その様子にヒクリ、と細い顎が引き攣る。
細く長く吐き出された紫煙がフヨフヨと蜷局を巻いて、宙に溶けた。空気に溶けきらなかった残り香が鼻をついて、くしゅん、と赤い頭が揺れる。恨みがましい視線を軽く躱して、巻島はタン、と煙管の灰を受け皿へ落とした。
「お前ら、食事ぐらい静かに食えッショ」
「巻島さんも食事時くらいソレ、やめてくださりませんかぁ?」
まだ違和感があるのか、鼻を擦りながら鳴子はジト目を向ける。それに視線もくれず、巻島は立てていた膝を下ろして食卓の箸へ手を伸ばした。釈然としないながらもこれ以上の追及は無駄と悟った鳴子は、姿勢を正して食べかけの茶碗を持つ。
あはは……と鳴子の向いに座る小野田が、乾いた笑い声を上げた。
「まあ、賑やかで良いじゃないですか」
「些か賑やかすぎるけどねぇ……小学生じゃないんだから」
「そうだねー」
彼の更に右手に座っていた杉元は、心底呆れたという視線を向いの二人へ向ける。そんな彼にのんびりと同意する声が、小野田の左手から聴こえてきた。
「……」
小野田たちは朝食の手を止め、そちらへ視線をやった。六対の瞳に晒されても平然とした様子で、そこに座っていた少年は指で摘まんだ卵焼きを頬張っている。
「これ美味しいねー」
「あ、うん。田所さんお手製なんだ……」
へー、と頷き、少年は新しく卵焼きを摘まむと、マジマジ見つめてからパクリと口へ放りこんだ。紺色の甚平姿の彼に流されかけた小野田は、漸くハッと我に返った。
「真波くん?!」
「なんでお前がここにおるんや!」
鳴子も怒鳴るが、真波がそれを気にした風はない。今泉はうんざりと顔を顰め、巻島は更に頬を引き攣らせた。
卵焼きを摘まんだ指を舐め、真波は頬杖をつく。ニコリと浮かべた笑顔は、好青年と呼ぶに相応しい爽やかなものだ。
「坂道くんに会いに来たんだ」
「帰れ」
巻島、鳴子、今泉の声が見事に揃った。実にきっぱりハッキリしたものであったが、
「いやだ」
笑顔で返された真波の答もまた、実にハッキリしたものであった。
それに端を発して始まる先ほどよりも激しい喧騒に、小野田はオロオロと左右を見回した。杉元はヒステリック気味に、四人の礼儀ない態度を怒鳴り散らしている。しかし鳴子の投げた茶碗が顎に当たり、簡単に気絶してしまった。
「わわわ、ど、どうしたら……」
「何だ、騒がしいな」
「……」
かたん、と開け放たれた障子が音を立てる。陽光を遮るように立った二つの影に、小野田の顔は輝いた。
「手嶋さん!青八木さん」
「お早う、小野田」
「……お早う」
「お早うございます」
鞄を肩にかけ直しながら、手嶋は小野田にヒラリと手を振る。丁寧に挨拶をしながら、小野田は傍らに置いていた鞄を取って二人の元へ駆け寄った。ふと、紫煙を吐き出した巻島が、そんな三人に目を止めた。
「もう行くのか」
「はい」
「気ぃつけてな」
ヒラヒラと薄い手を振り、巻島は―――見知らぬ者が見れば薄気味悪い―――笑みを浮かべる。
ハッとして、鳴子は真波の襟首を揺らす手を止めた。
「てことはワイらもそろそろでなあかんやん!おいスカシ……!」
「では行ってきます」
「てえ、何時の間にぃ!」
鳴子の言葉より先に今泉は全ての支度を終えて廊下に出ており、鳴子はビシリと手の甲で空を叩いた。
「行こうぜ、小野田」
「は、はい……」
まだ部屋の様子が気になるのかチラチラと視線をやる小野田の手を掴み、青八木は無言のまま歩き始める。それに苦笑して、手嶋も小野田の隣に並んだ。
小さくなる喧騒を背中で聞きながら、手嶋は小さく吐息を溢した。
(全く、騒がしいな)
しかしまあ、これがこの総北神社の名物だ。

どれだけ科学が発展しようと、どれだけ夜を照らす光が増えようと、そこに住まうモノたちが消えるわけではない。夜を生きるモノたちは、今でも確かに存在する。例え、陽の光の下でも。その形を変えて、確かに其処で生きている。
総北神社―――街を一望できる高台にひっそりと立つそこは、まさにそんな彼らの集う棲家であった。

ふー、と細く長い紫煙が優美に曲線を描く唇から零れ落ちる。それはフヨフヨと蜷局を巻いて宙へ溶けて行った。
「どういう教育をしてるんショ、アイツは」
玉虫色の髪をかき上げ、巻島はタンと勢いよく煙管の灰を受け皿へと落とした。彼に付き合ってその傍らに座っていた金城はクスクスと笑って、茶を啜る。
「元気があって良いじゃないか」
何を呑気なことを、と巻島は吐息を溢し、立てた膝に頬杖をついた。
「巻島さんは心配症ですねー」
金城の更に隣では、振る舞われた饅頭を呑気に頬張る真波が座っている。お前が原因なんだと言う気も失せて、巻島は溜息を吐き出した。
口端についたカスを親指で拭いながら、真波は膝に頬杖をつく。
「今頃坂道くんはお昼か……」
ほう、と吐息を漏らした彼が見上げた空は、どこまでも青い。そのアンニュイ気味な横顔に良からぬ予感がして、巻島は「……行くなよ」と釘を刺した。ぱり、と煎餅を齧り、真波はチラリと視線を横に―――小野田たちが通う学校のある方角へと向ける。
「……行こうかな」
「行くなって言ってるッショ」
それに、と言葉を切り、巻島はズズと茶を啜る。
ピクリ、と金城の眉が僅かに動いた。それから持っていた湯呑を傍らに置き、肩からかける羽織が落ちぬよう手で押さえながら立ち上がる。
「ん、もう行くッショ?金城」
巻島は身体ごと首を傾いだ。彼に頷いて、金城は羽織の袖に腕を通す。
「ああ。そろそろ戻らないとな」
「別に会って行けば良いッショ」
「……合わせる顔がない」
眉を顰めて笑い、金城は金糸縫いの着物の裾を翻して歩いて行った。風と共に消えそうなその後ろ姿を巻島が見つめていると、別の方向から砂利を踏む足音が聴こえてくる。
「全く、このバァカチンが」
至極不機嫌そうな声。真波はあからさまに顔を顰め、小さく肩を竦めた。自分の影に隠れるかのような姿に心中で舌を出しながら、巻島は「久しぶりだな」と現れた男に手を振った。
ガシガシと短く切った髪を掻き毟り、荒北は常日頃から鋭い目つきで巻島の後ろに隠れる真波を睨む。
「さっさと帰るぞ、この放浪癖が」
「えー」
「文句言うなァ」
ムンズ、と真波の襟首を掴み上げ、荒北は彼の身体を引きずろうとした。しかし真波の身体はフワリと浮かび、荒北の手を逃れて彼の頭上へと飛び上がってしまう。
「コレ手前、真波!」
「荒北さん乱暴なんですもん」
カラカラと笑いながら、真波は見えない布団でもあるかのように、宙に寝そべった。彼が笑い声を立てるたび、木の葉を揺らす風のような音が耳を擽る。
山神の愛息子、真波山岳。100年も昔に生贄として捧げられた子どもが、山神にその資質を見いだされ、次期山神として今も育てられた。彼、真波はその子どもである。今はまだ木霊止まりの他愛ない精霊にすぎないが、いつかは隣街の山を統べる神となるだろう。
(あれが次期山神とは先が思いやられるッショ……)
いや、現山神も大概であったか。そう思い直し、巻島は吐息を漏らした。
毎回彼が抜け出すたびに迎えとして駆り出されるあの狗神憑きも、ご苦労なことである。
「ところで荒北、お前、今日は一人で来たッショ?」
「はァ?なんでンなこと……」
そこでハッとした荒北は言葉を切り、勢いよく自分の背後を振り返った。そこに広がるは庭園のみで、人影は見当たらない。
ギリ、と常人よりも鋭い犬歯が、嫌な音を立てた。
「あンの馬鹿鬼がァ!」

くしゅん、と臙脂色の着物で包まれた肩が揺れる。赤茶けた柔らかい髪を指で梳きながら、新開はズズと鼻を啜った。
「風邪引いたかな」
「怒ってんじゃねぇのか、荒北が」
「ハハハ、そうかもな」
腕に抱いた兎の頭を指で撫でながら、新開は軽く笑う。呑気な彼に呆れて吐息を溢しながら、田所は手にしていた箒の柄で肩を叩いた。
自ら飼育しているという兎を抱きかかえて優しく微笑む横顔からは、とてもその身に恐ろしい鬼を飼っているとは思えない。
(全く、残酷だよな)
ここ総北神社にも、彼のように普通の世では生きにくいモノたちが集まっている。
次々と脳裏に浮かび上がる彼らの笑顔を噛みしめ、田所は大きく息を吐いた。
「……もう、六年になるのか」
ふと、新開はそう呟いた。
それと同時に一際強い風が吹き、彼の癖の強い髪がフワフワと揺れる。
「……ちっとは、真波の監督をしっかりしろよな」
こう頻繁に来られては、こちらとしても気が気でない。田所は大きく息を吐いて、新開の座るお社へ上がる階段に腰を下ろした。その理由と心情を察しているから、新開は申し訳なさそうに眉根を下げて、小さく謝罪を呟いた。
「アイツらに、思い出させるわけにはいかないんだ」
「……そうだな」
鼻を擦りつけてくる兎を抱き直し、新開はそっと目を伏せる。その様子を目の端で捉えつつ、田所は小さく息を吸った。
「できるなら、真波と小野田を―――出会わせたくはなかった」
こんなこと、本当は言いたくない。だから、自然と早口になった。新開はそれにも、うん、と頷くだけだった。
それから彼は顔を上向かせ、澄んだ青空を仰いだ。
「……俺はそれでも、彼らには幸せになってほしいと思うよ」
「俺もそう思うぜ」
田所の返答は早く、新開はついフフと笑い声を溢した。田所は照れたように顔を背け、さっさと立ち上がる。
「ほら、お迎えが来たぞ」
田所の言う通り、遠くから名を呼ぶ声がした。真波を引きずった荒北が、新開を捜しているのだ。その声から滲み出る不機嫌さに、新開はまた小さく笑った。

ぱくん。防腐用に入れた保冷剤のせいで少々冷えたコロッケを頬張る。冷凍食品ではないそれは、冷えていても美味しさを失っていない。もむもむと噛みしめて味わいながら、小野田は緩む頬に手をやった。
「美味しいね」
「あのオッサン、料理だけは天下一品やな」
悔しそうに引き攣った笑みを浮かべながら、鳴子は小野田と同じ田所手製の弁当を箸で突く。その隣で静かな同意を返しながら、今泉は二段目の蓋を開けた。
「……」
ご飯の上には、可愛らしい兎の絵が。どうやら、桜田附で描かれているらしい。
今泉の手元を覗きこんだ鳴子は、クールな彼と似合わない可愛らしい弁当に、クククと笑い声を立てる。しかし彼もまた、自分用に渡されたご飯に描かれた玉子とそぼろ煮の虎に、口を噤んだ。
「わー、黒マニュだー!」
海苔とそぼろ煮で見事に描かれた某ゲームキャラに、小野田はキラキラと目を輝かせる。そんな彼の隣で、今泉と鳴子は思わず渋い顔を浮かべた。
そんな彼らの様子を見やりながらニヤニヤと笑い、手嶋は胡坐を掻いた膝に肘をついた。彼の隣で、青八木は黙々とパンを頬張る。
「田所さん特製の弁当だろ、存分に味わえよ」
「手嶋さんも作ってもらはりますか?ワカメご飯とか」
アスパラのベーコン巻を箸で摘みながら、鳴子は唇を尖らせる。コツン、とそんな彼の額に丸められたパンの袋がぶつかった。
「手嶋さんも食べますか?」
柔らかく微笑んだ小野田は、はい、と箸で摘まんだコロッケの欠片を手嶋へと差し出す。鳴子にゴミを投げつけた手嶋は、ムッと顰めていた眉を和らげた。
手嶋は、少々黙した後頷き、小野田の手首を引いて差し出されたコロッケを頬張った。
「……美味い」
「でしょー」
自分のことのように嬉しそうに微笑む小野田を見つめながら、手嶋はゆっくりと咀嚼したコロッケを飲み下す。腹は満ちたが、『もっと』と別の何かが飢えを訴えた気がした。
「……小野田、俺も」
「あ、はい」
ぼんやりと小野田を見つめたままの手嶋の脇から顔を伸ばし、青八木は自分を指さす。小野田は軽く了解して、残っていたコロッケを半分に割ると、それを彼へ差し出した。身を乗り出してそれを頬張り、青八木は口端に零れた滓を指で拭う。
手嶋はハ、と息を吐いて額へ手をやった。
「……悪い、青八木」
「……別に」
油のついた親指を舌で舐め、青八木は姿勢を戻すと別のパンへ手を伸ばした。彼の大食らいはいつものことなので、とやかく言う者はいない。
「そう言えば、杉元は?」
頬についた米粒を舌で舐めとりながら、鳴子は一つ足りない頭を捜して視線を左右に滑らせた。結局綺麗に兎を食べ終えた今泉は片付けをしながら、「今日は定例会だ」と答えた。ほー、と棒読み気味に感嘆の声を漏らしながら、鳴子も弁当箱の蓋を閉める。
「大変やなぁ、陰陽師さんも」
杉元照文。有名な陰陽師一家、の分家の嫡子。少々高慢のきらいはあるが、それにある程度見合うだけの実力を持った立派な陰陽師である。現在は田所が神主を務める総北神社で修行中だ。
「スカシは行かんでええのか?」
今泉もまた、杉元とは別系統の血筋の陰陽師である。確か、嫡子であった筈だ。しかし今泉は首を横に振った。
「良いんだよ、俺は」
「……さよか」
「……」
少し重くなった空気に眉根を下げ、小野田はチラリと今泉を見やる。
彼の家は五年前、正体不明の敵によって壊滅した。生き残ったのは11になったばかりの嫡子・今泉俊輔と、彼と共に出かけていた世話役の高橋だけだったという。
―――俺を、強くしてください!
あれは、雨の日だったと小野田は記憶している。傷だらけの身体を雨に晒し、代々当主に受け継がれてきたという刀だけを持って、今泉は総北神社の門を叩いてきた。
巻島の着物の裾を強く掴んだ小野田は、憎悪の炎渦巻く瞳から目が離せなかった。
「……」
あの日の雨の音がまだ耳の奥に残っている気がして、小野田はそっと指の腹で耳の裏を撫でた。
青い格子模様の布で弁当を包む今泉の手は、傷と包帯で塗れている。まだ無茶な修行を続けているようだ。
小野田と同じようにそれに気づいた鳴子は盛大に顔を顰め、ペチリと今泉の手を叩いた。
「……阿保なことばっかしよるなよ」
叩かれた手に小さな違和感を抱いてそちらへ目を落とした今泉は、小さく口端を持ち上げた。
「何だ、心配してくれているのか?」
「阿保なこと言いよるな」
ゲェ、と舌を伸ばして、鳴子は顰めた顔を今泉に向ける。そんな態度も意に介さず、今泉は不敵な笑みを浮かべた。それから手の甲へべっとりと擦り付けられた軟膏を指で伸ばす。鳴子特製の軟膏は傷口に染みたが、効果はお墨付きだ。
「ありがとう」
「……フン」
鳴子は素気なく視線を外し、膝に頬杖をつく。和やかとも言い難い空気が、辺りに漂い始めた。そんな様子に、小野田は眉根を下げた。
「もう、二人とも……」
「放っておけ、小野田」
「……」
手嶋の言葉に同意するように、青八木も頷く。はあ、と頷いたものの小野田は心配げに今泉たちを見やった。手嶋は片目を閉じて吐息を溢し、青八木は既に視線を新しいパンへと向けている。小野田は溜息を洩らし、しかし自然と彼の口元は緩んでいた。
嗚呼、日々是好日也。今日も世界は変わらない、変わらず平穏だ。

「……」
そ、と木の幹から首だけ伸ばし、辺りを窺う。
絶え間なく零れ落ちる小さな滝はあるが、静かな場所である。滝壺には滑らかな大岩が一つ浸かっており、いつもならばそこに鎮座している筈の人影はない。そのことにホッと息を吐き、真波は隠れていた木の裏から出てきた。
「やっと帰ったか、真波」
滝壺の畔に立つと同時に凛とした声が頭上から落ちてきて、真波は思わず肩を竦めた。チラ、と視線をやれば、いつの間にか岩の上には青銀の着物を纏った男が立っている。
真波は誤魔化すように笑い、頭を掻いた。
「只今、東堂さん」
「全く貴様という奴は」
大仰に溜息を吐いて、その男・東堂尽八は岩から飛び降り岸辺へと着地する。
彼こそ、真波を次期山神候補として見出した現山神である。
「出かけるのは構わんが、あまり長時間この山を離れるな」
真波はまだ、木霊という精霊だ。木霊は山に吹く風であり響く木の葉の音である。山によって存在している彼に、長時間の外出は好ましくない。
真波は少し頬を掻いた。
「それは解ってますよ。けど、どうせ山神になったら更に山に縛られるんだ。それはそれで良いけど、その前にもう少し世界を見ておきたいんです」
本音を言えば、あの少年に会いたいし。
真波の言葉にまた吐息を溢した東堂は、それ以上何も言わなかった。ただ、憐れだと。彼にこのお役目を与えると決めたのは東堂自身であるが、それでもそう思わずにはいられ得ぬ。
生まれつき病弱だったこの少年は、幼くして流行病にその身を喰われた。彼にとっての世界とは、布団一枚敷かれただけの殺風景な真四角だった。そうして行く場を失くしていた魂を、東堂が拾い上げたのだ。
病に縛られ部屋に縛られ、次は山に縛られる。
(しかしまあ、彼らに比べれば、まだマシなのだろうよ)
蜘蛛の糸のように伸びる赤と緑の髪を思い出し、東堂はそっとかぶりを振った。今それを考えても詮無きこと。東堂がすべきは、これから先、嘗てのようなことが起こり得ぬよう、尽力することだ。
「しかし総北を訪ねるのも、程々にしておけ。フクが面倒だ」
「福富さんが?」
「荒北と隼人が、今頃ネチネチ言われているだろうよ」
その様子を想像して目を細める東堂に、真波はさっぱり訳が分からず首を傾げるのだった。

「だァかァらァ、ごめんって福チャン」
「寿一、そう拗ねるなよ」
「俺は別に拗ねてはいない」
世間一般でその様子は拗ねていると形容するのだ、と本人に言うこともできず、新開は肩を竦めた。だから真波を迎えに行くのは嫌だったのだ、と荒北は内心毒づいて頭を掻き毟る。
彼ら二人の手を焼かせる男は、ムッツリとした表情のまま、机上に広げた書物に目を落としていた。荒北も陰では鉄仮面と呼んでいる彼の顔は、現在普段以上に固く、不機嫌さを露わにしている。彼の男は名を、福富寿一という。
どうしたものかと頭を掻く荒北の横で、新開はそっと身を低くして男へと近寄った。両膝と左手を畳について、伸ばした右人差し指で固い頬を突く。チラリとこちらを見やる細い目に、新開は柔らかく微笑んで見せた。
福富はそこで漸く、少々困ったように眉を動かした。意固地になりすぎたやもしれぬと、思っているのだろう。全く、福富は新開に甘いのだから。
軽く息を溢して、荒北はガシガシと頭を掻いた。
「心配しなくても、俺も新開もアイツには会ってないよォ」
荒北のその言葉に、福富は僅かに目を見開いた。それからそっと目を伏せ、「そうか」と呟く。荒北はまた吐息を溢し、彼から視線を外した。
「……失礼します」
おずおずと言った風に、部屋の中へ声が投げ入れられる。三対の瞳がそちらへ向かうと、開けた襖の傍らで、二人の男が立っていた。鋭い目を眇める白髪の男を連れた坊主頭は、少し眉根を下げて福富を呼んだ。
「そろそろ、お時間です」
「嗚呼、解った」
もうそんな時間か、と呟いて、福富は本を閉じる。荒北が何があるのだと問うと、定例会だと福富は答えた。
月に一度、幾つかの陰陽師一族と行われる定例会。一か月間の活動報告とこれからの指針を決めるためのものだ。そこに、山神の統べる山の守人である福富の出席は欠かせない。
荒北は軽く頷いて、部下である泉田と黒田の間を通り抜けていく福富の背中を見送った。
「泉田、俺腹が減ったんだが、何かあるか?」
立ち上がった新開がそうのたまったので、荒北は思わず上擦った声を上げた。
「オメエ、まだ食う気かヨ?」
「御三時さ」
常日頃から焼き菓子を頬張っている奴が何を言うか。荒北はすっかり呆れて肩を落とす。
泉田はクスクスと笑って、先ほど白玉を作ったところだと言った。新開は海色の瞳をキラキラと輝かせ、それは良い、と親指と人差し指を伸ばした右手を泉田へ向けた。拳銃を撃つようなその仕草は、新開の癖のようなものだ。
荒北はケッと小さく唾を吐いて、兎のように飛び跳ねる赤茶けた頭を叩いた。
「食べ過ぎんなよ、おデブチャン」
「俺は、そんなに太ってないぜ。なあ、泉田?」
「はい、新開さんは太っていても美しいです!」
「塔一郎、それはフォローになってないぞ」
黒田は言いながら、後ろ手で襖を閉める。
パタン。

かたん、と。何かがぶつかる音がした。丁度移動教室から戻るところだった小野田は、その足を止めて辺りを見回した。特別校舎と本校舎を繋ぐ渡り廊下に、小野田以外の人影は見られない。
はて、と小首を傾げた彼の目に、薄く開いた扉が飛び込んできた。
室内には傾きかけた陽が入り込んでいるのか、淡く色づいた光が廊下に線を落としている。音はどうやら、その部屋から聴こえてきたようだった。
小野田はそっと扉に近づき、中を覗きこんだ。
輪郭を溶かすような午後の陽光が、部屋に満ちている。そこに放置された机の一つに座っていたのは、青八木だ。向いには、手嶋。
手嶋はそっと青八木の手をとり、制服から伸びる腕を撫でる。それから徐に身を屈めると、手嶋は青八木の手首に噛みついた。
(え―――)
ちゅ、と高い音が耳をついたと思えば、手嶋の口端に唇よりも鮮やかな赤が浮かぶ。それを、同じほど鮮やかになった舌がぺろり、と舐めとる。
「……!」
小さく息を飲んで、小野田は身を引いた。悲鳴を出してしまいそうな口を両手で覆い、バクバクとした心臓のままその場に立ち尽くす。
(もしかして今の、吸血……?!)
手嶋は、サトリと吸血鬼の血を引いていると聞いた。直接の親がそうであるのか、長い歴史の中でいつの間にか混ざり合ってしまったのかは知らない。双方の血は引いているものの能力は弱く、吸血は頻繁に必要としていないことも、本人から聞いている。
だが小野田が、彼のもう一つの食事風景を見るのは、これが初めてだった。
口端に垂れた赤を思い出し、小野田の身体の芯からは熱が込み上げる。
火照った頬を両手で包み、小野田は駆けだした。
(うわー、うわー)
あんな二人、小野田は知らない。あんな手嶋の顔、小野田は見たことがない。
少し顰められた眉と、眇められた瞳。青八木への申し訳なさと、本能からくる欲求が満たされたことへ恍惚が混じる顔。
(心臓に悪すぎる……!)
小野田はぎゅっと目を閉じ、全速力で廊下を駆け抜けた。

「小野田くん、手嶋さんと何かあったん?」
鳴子にそう耳打ちされたのは、夕暮れによって世界が赤く染まった時刻。下校中の道すがらであった。小野田はビクリと身体を硬直させた。傍らには今泉が、少し離れた後方には、手嶋と青八木もいるのだ。
「な、何で?」
平静を装ったつもりだが、自分でも驚くほど声が上擦る。ポリポリと頬を掻きながら、鳴子は、いや、と小さく言い淀んだ。
「なんやいつもより余所余所しいなぁ思て」
鋭い。さすが鳴子だと心中感心しつつも、小野田の額には汗がびっしりと浮かんでいる。
何かあったのかと問うてくる鳴子に、しかし小野田は言葉を濁すしかない。あの空き教室での青八木とのやり取りを見てから手嶋の顔を見られなくなった―――などと言えるわけがないからだ。
「言いにくいなら深くは聞かないが……」
「いや、大丈夫だよ。ちょっと……」
話を聞いていた今泉に、小野田はヒラヒラと手を振った。しかし唐突に手を止め、カーっと顔を赤らめる。つい、あの手嶋の姿をアリアリと思い出してしまったのだ。
何の脈絡もなく突然赤面し、自身でも訳が分からないという風に目を瞬かせて両頬を手で覆う小野田。それを見た鳴子と今泉に、稲妻が走った。二人は慌てて顔を突き合わせ、小野田に聞こえないよう声を潜める。
「な、何なんや、その反応!手嶋さん何しはりよったん!」
「知るか!あの手嶋さんだから、よっぽどのことはないと思うが……」
問題は、と言葉を切って今泉は唾を飲みこんだ。鳴子もその言葉の先を察し、ゾワリと鳥肌を立てる。
そう、問題は、小野田を溺愛するあの蜘蛛男だ。過保護すぎる彼がこのことを知ったら、手嶋の身が危ない。そしてその流れ弾を受けるのは間違いなく、今泉と鳴子だ。
何とかせねばと焦る二人を余所に、小野田は火照る頬を手で包み背を丸くした。自分でもコントロールできない熱に、頭の中はクエスチョンマークだらけだ。
そんな彼の肩を、とんとん、と叩く指が一つ。
小野田が顔を上げると、そこに立っていた青八木と目が合った。
「青八木さん……?」
「……小野田、もしかして―――見てた?」
ヒクリ、と喉が震えた。
何とか、唾を飲みこむ。その音で、青八木は察しようだった。小野田の隣に並んで歩きながら、安堵と気まずさの混じったように吐息を溢し、彼は頬を掻いた。
「やっぱり……」
「す、すみませんでした。覗き見して……」
「別に、怒っては、ない」
変なもの見せて、ごめん。青八木のその言葉に、小野田は下げていた頭を上げて強く否定した。
変でも気持ち悪い光景でもなかった。ただ、小野田が勝手に邪な目で見てしまっただけだ。小野田の言葉足らずな、しかし真摯な様子に青八木は小さく笑みを溢した。
「ありがとう。純太も、きっと嬉しい」
「手嶋さん……」
小野田はチラリと青八木の肩越しに、後ろを歩く手嶋を見やった。音楽でも聞いているのか、彼はイヤホンを耳につけている。そうして空を見上げていた手嶋は、小野田の視線に気づき、小さく笑った。その笑顔に小野田またあの光景を思い出し、慌てて顔を反らす。
一連の流れを眺めていた青八木は、小さく息を吐いた。小野田が顔を反らしたことでショックを受けたような顔をしていた手嶋を知っているのは、青八木だけだ。
「……純太が吸血鬼の血を引いてるの知ってるな」
「はい」
「太陽も十字架も平気だけど、吸血は必要なんだ。だからたまに、俺がああして血を分けている」
「そうだったんですね……」
予想していたから、驚きはない。逆に安心した。
総北神社に住み込む小野田たちと違って、手嶋と青八木は別のアパートで二人暮らしをしている。昔は共に神社で住んでいたのだが、高校入学を機に独り立ちをしたいと手嶋が言ったのだ。青八木は、ほぼ強引にそれに着いて行ったらしい。共に暮らしているのだから、そのくらい当たり前だろう。
口の中で呟くと、更に心が穏やかになった気がする。小野田はヘニャリと笑った。その笑顔を見て、青八木も小さく笑む。
「……純太に声かけてやってくれ」
あれで結構、小野田に避けられたことを気にしているから。
小野田は大きく頷いて、後方を歩く手嶋の方へ駆けて行った。
「手嶋さん」
「小野田」
「あの、すみませんでした」
「は?」
イヤホンを片耳だけ外した手嶋は、小野田の突然の謝罪に何事だと首を傾げる。
小野田は肩から斜めに下げた鞄の紐を弄りながら、おずおずと空き教室で青八木から吸血していた光景を見てしまったことを話した。彼の話が進むにつれ、何だそんなことかと、手嶋は頭を掻いて、内心安堵の息を吐く。
「それでつい……顔を見るとドキドキしちゃって……」
「……ドキドキ、した?」
「はい。吸血中の手嶋さんが、あんな恰好良いなんて思いませんでした」
アハハ、と笑ってから小野田は慌てて、普段の手嶋も恰好良いがと付け足した。「そう、か」と短く手嶋は返したが、その声は何処か固い。頭を掻いていた手も止まっている。
少々可笑しい様子に内心小首を傾げながら、小野田は手嶋を見上げた。
ぺし、と。何故か額を叩かれる。
それは本当に軽いものだったから痛みも何もなかったけれど、小野田はそこを押さえてパチパチと目を瞬かせた。
「手嶋さん?」
「……何でもねーよ」
口早に言って、手嶋はさっさと先を歩いていく。いつもより大き目の歩幅で歩く彼の背中を見つめ、小野田は首を傾げた。
「純太」
「……」
青八木が追いついて隣に並んできた手嶋に視線をやると、彼は口元を手で覆って必死に赤い顔を隠そうとしていた。青八木はそれで何となく察し、笑みを浮かべると、それ以上は何も言わない。
そんな二人の様子を横目で捉え、今泉と鳴子はチラリと顔を見合わせた。同時に悟る。
「……手嶋さん、生きてられるやろか」
「……さあな」
どうか願わくば、このことがあの玉虫色の髪持つ彼に知られぬように。
今泉も鳴子も、平穏な生活が小野田の次に大切なのだから。

「何だったんだろう……」
小野田は、額を摩っていた手を止め、取敢えず先を行く彼らに追いつこうと駆けだした。
―――その途中、スラリとした細く長身の生徒とすれ違ったが、小野田は特に気に止めなかった。
「……今のは、」
その生徒はグルリと首を回し、小さくなっていく小野田の背中を見つめる。その不気味なほど丸い瞳が、三日月のように細まった。
「……みーつけた」
おもろいもん―――そう呟いた口が、ニタァと見事なまでの曲線を描く。す、と持ち上げた指も細く、その生徒はそれで既に見えなくなった小野田の背中をなぞった。
「―――次は、あれにしよか」
―――浅葱幕が上がるのは、もう少し先のこと。

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