いなえにし・壱
なんとなく、だ。なんとなく、宿陣の近場にあった木に登り、月を見上げていた。綺麗な月である。さてさて、木登りなどいつぶりか。こう、木登りをしたくなったのもあの夢のせいだろう。雑賀孫一。あれは本当に妙で可笑しな男だった。それに対して、こちらの雑賀孫市はどうなのか。見た目からして色男である。あちらの孫一は、愛嬌があったがこちらはどうだか。でも、銃の腕前はさすがだ。
がさり、という音がした。誰かが来たらしい。来た方向からして、霜や自分についている女中ではないな、と思った。すこし警戒する。
「これはこれは、女神とこんな所でお会いできるなんて」
勿体ぶった台詞だ。ちらり、と木のしたをみれば雑賀の頭領がいた。銃は持っていない。いや、小銃を潜ませているかもしれないが。
「残念だったな、私は女神などではない。ただの小娘だ」
「いや、貴方は俺の女神だ。貴方の加護がなければお陀仏だったぜ」
そう言って、此方がちゃんと見える位置につくと、すこし目を見開く。
「女神、それは……いや、気づいてないのか」
「何がだ」
「いやいや、」
ニヤニヤと笑う雑賀の頭領とあの孫一が被り、すこしムッとする。そして、自分が寝間着ででてきていることに気づく。足がまたはだけていることも。私は慌てて、着物を引っ張り、雑賀の頭領を睨む。
「見るな」
「それは無理なお願いだぜ」
持ってきた酒瓶を投げようかと思ったが、問題を起こすと雑賀と根来の戦になりかねない。向こうはあれでも頭領だ。しかたない、降りて寝るか。
「おいおい、女神、なにするきだ?」
「降りる」
「っ!」
トン、と木の枝を蹴るのと、雑賀の頭領が移動するのは同時だった。雑賀の頭領は慌てたように降りてきた私を抱きとめる。私はそれを予想できなかったため、また、あの時と同じように雑賀の頭領に倒れこんだ。はたからみれば、抱き合っているようである。
「っ、離してくださいまし!」
「うん?そっちが本性か?」
「雑賀の頭領、離せ!」
雑賀の頭領は離さず、何かを思案しているようだった。そして、耳元まで顔を持ってきたと思うとボソボソと喋り出した。
「俺の名前は雑賀孫市。女神の名前は?」
「私は女神などでは、」
「教えてくれるまで離さないぜ?」
「っ、某だ」
「某、いい名だ」
ぞくり、とした。
「いつか、俺だけの女神に、」
雑賀の孫市の腕がだんだん下へ下へと下がってくる。とりあえず、そのまま頭突きをし、相手がよろけた所でキッと睨みつけた。
「私は女神なんかじゃない。女神だとしても、誰が好き好んで好色家の女神になんかなるか!」
私はそう言って踵を返した。雑賀の頭領はそれをア然と見ていたが、しばらくして笑い声が聞こえた。15