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ドラセナ・コンシンネ


 自分は義理だの人情だのにはそこまで頓着していない、と思う。世話になった先輩はいるがそのために金を貸すなど到底考えられない。貸す金がないというのも事実だが。
 彼女ができたから紹介したいと学生時代の友人みたいな男に呼び出された時は不思議で仕方なかった。彼女ができたからといってどうして自分に紹介するのか。カイジはたっぷり頭を捻ってみたがそれらしい正解は思いつかなかった。
「久しぶり」
「よう」
 最後に会ってから何年経つだろう。ほんの二、三年なのにカイジとかつての友人は随分違って見えた。程よく質のいい服を着た彼は程よく文化的で幸福な生活を送っている健康的な人間そのものだ。夜勤明けでよれよれの化繊の服を着ているカイジは少しだけ居心地の悪さを覚えた。
「ちょっと遅れて来るらしいから喫茶店入っとこう。煙草吸うよな?」
 オレとお前ってそんなに仲良かったっけ、と訊きたいのをぐっと堪えて「吸う」と小さく答えた。冬の空気に鼻の先が冷たい。
「あとでひとり来るんで」
「はーい」
 窓際の席は大きなガラス窓のせいでひんやりとしていた。端には結露もできている。
 会話の内容は浅く、特筆すべきものはなかった。熱いコーヒーと紅茶をそれぞれオーダーし、最近はこんな生活をしているとふたりとも危なげなく話すだけだ。ただ「どうして彼女を紹介するのか」に眼前の男は照れくさそうに「だってカイジがあいつの電話番号教えてくれただろ」と笑った。カイジの方はまるで思い出せない。学生時代に誰とどんな会話を交わしたのかなんて記憶は最近どんどん灰色になっていて、風化した建物のようにボロボロと崩れていっている。だから「そうか」とだけ言った。そうしてそれからやっと彼女に当る人物が自分も知っている女であるということに気づく。
「来た来た。こっちこっち」
 しゃん、と管鐘が来客を告げるのと同時に彼は席を立って手を振った。振り向くのも鬱陶しくてカイジはそのまま手元のメニューを眺める。
「カイジくん久しぶりぃ」
 おっとりした深い藍色の声音、いつも少し笑っているようなおかしな口調。とても聞き覚えのある声に顔を上げる。
「覚えてる?」
「お、覚えてる」
「よかったぁ」
 学生時代となにも変わらない――制服姿しか見たことがないので印象はだいぶ異なるが――かつて隣の席だった女子が立っていた。黒いコートを脱ぎながら「寒いね」と彼氏に言い、ホットコーヒーを注文する。一連の動作は洗練されていた。
 カイジと彼女に関係性はない。カイジが横目でちらちらと眺めて勝手にどきまぎしていただけだ。つまりおおよその学生なりに恋をしていたのだがそれについて告白する機会はついぞなかった。
 懐かしいふたりが目の前でなにか話している。テーブルを挟んで向かい。距離はないのにとても遠く感じられた。カイジがきっかけで会話するようになり、仲良くなって、卒業後も友達として連絡を取っていたがこの度付き合うようになった、のような内容だった。そうだ、思い出した。確か連絡網の都合で電話番号を伝えたのだ。そういう使い方をしたのか、と学生時代の彼の賢さと狡さに力が抜けた。盛り上がっているふたりとは逆で、カイジの気持ちは(元から冷めてはいたものの)更に冷えて白けた。
「でさ、もしカイジの彼女がいいっていうなら、あれだ、ほら、ダブルデートってヤツ、しないか?」
 話を聞かないまま新しい煙草に火をつけようとしたタイミングでそう話しかけられ「はあ?」と大きい声が出た。実際には煙草を咥えて聞き返したので「ふぁあ?」と発声された。間抜けだった。
「憧れてたんだよなー、友達とそういうことするの」
「子供っぽいよねぇ」
 にこにこと目を細める様子は学生時代と変わらず可愛らしいままだ。あの頃の気持ちを思い出して胸の奥がぎゅうっと締め付けられた。昔と違うのは隣でなく正面に座っているという点だけだ。自分の惨めさに嫌気が差す。
「いねぇよ、カノジョ」
 唾を吐くように返事をした。
 いない。恋人なんかいない。いまのところいない。いたこともなくはない。だがいまはいない。そのうえ、大昔の恋を思い出して苦しくなっている。カイジは膝の上で拳をぎゅっと握った。そして自分の声が刺々しかったかもしれないと不安に思い、ちらりと彼女の表情を盗み見する。やはり柔和な表情に変わりはなかった。
「そっか、ええと、なんかごめんな」
 首を横に振って煙草を持ち直す。彼にとっては恋人不在という状態は哀れなものなのだろうか。謝られるようなことではないとカイジは考えていたのでちょっとばかり不快な気分になる。しかも奴はカイジがじっとり片思いしていた女を隣に座らせているのだ。不快の二乗だった。
「ねえ、時間大丈夫?」
 マシュマロのように甘やかな囁きが聞こえた。どうやらこの後なにか約束があるらしい。オレへの感謝はついでかよとどんどん不愉快になる。「大丈夫、じゃないな。ごめん」カイジに謝罪したのか彼女に言ったのか分からない。無視して窓の外を見る。風が強いのか木々が大きく揺らいでいた。
「金は置いとく、サークルの集まりがあるんだ、悪いな」
 忙しなくジャケットを着込みどたばたと出ていく様子に呆れて言葉が出ない。気がつけば彼女とふたりだ。客も自分たちだけ――正真正銘のふたりきりだった。気まずいようなそわそわするような奇妙な痒さを覚え座り直す。膝がテーブルに勢いよくぶつかりコップが倒れた。かたん、と軽い音を立てて。
「ご、ごめん」
 店員が来る気配もないので紙ナプキンをまとめて引っ掴み乱暴に水を拭う。
「あはは」
 笑われた。悪気ない笑い方に顔が熱くなる。
「変わらないね」
 その一言で学生時代の自分がどんな印象だったのかなんとなく分かった。余計に惨めだ。どうしてとっとと帰らなかったんだろう。ふたりの会話は無視して帰ればよかったのに。
 ぐしゃぐしゃの紙ナプキンを握ったままの手に小さい手が重なった。「あ、」心臓が暴れだす。ますます顔を上げられなくなった。
「カイジくんってずっとそうだよね。まだわたしのこと好きなんだ」
 手を退けてくれ。そうでないとなにも話せない。そんなこと言えるはずもなくしどろもどろに「まさか」と呟く。
「えー、ほんとかな」
 いやに愉快そうな声に泣きたくなる。だったらなんだっていうんだ。いま好きな気持ちを伝えたってどうしようもねぇだろ! カイジは俯いたままで首を曖昧に振った。
 拳に置かれていただけの指先がカイジの指を解すように動く。温かくて柔らかい感触に喉が詰まり、それを止められない。彼女はカイジの掌を白い指先でなぞり、指と指の間に自分の指をゆっくり差し込んだ。無骨な手と嫋やかな手が重なる異様な光景に死にそうになった。
「サークルの集まりって要するに飲み会なんだよね。そういうときは夜遅くまで連絡ないんだよ」
「……へえ」
「うん、どうする? なにする?」
 試すような物言いにゆっくり顔を上げる。
「カイジくんは、どうしたい?」
 にたりと彼女は見たことのない淫蕩な微笑みを浮かべていた。あの頃よりずっと大人びた顔にどきりと胸が鳴る。
「……どうって、あ」
 情けないほど声が震えて上手く話すことができない。心拍数がとんでもないことになっていた。口が渇く。押し黙るカイジの手を、彼女は好き勝手になぞっている。少し開いた唇が艶っぽかった。
「友達でしょ、わたしたち」
 背筋がぞくぞくする。自分がこのまま欲望に抗えないことをカイジはよく知っていた。

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