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忘れじのきみ


 初めは喫茶店で女給をしていた。銀座の小綺麗な店だった。内装も制服も西洋風で可愛らしく気に入っていたが注文が覚えられなかったり珈琲をひっくり返したりが続いてお暇を出された。本人もしたくてしているのではない。単に注意力が散漫で筋肉がないからそうなるのだ。しかし当人も馘首の理由には納得していたし粘ってまで働きたいという処でもなかった為、すぐ吉原で春を鬻ぐことになった。これは性に合っていたのか比較的長く続いた。面白いくらいに金が稼げ、女給をしていたのが莫迦らしく感じられる程だった。ひとり暮らしであれば持て余す程の金だったが、なにしろその女は金のかかる男を抱えていた。要するに紐男だ。博打はするわ女遊びはするわ碌な物件ではないが、兎に角顔が好かった。切れ長の目で見つめられると動けなくなり、薄い唇で愛を囁かれると魔法にかけられたように金を渡してしまう。つまり女も自分の意思がない、どうしようもない人間であった。直ぐに破綻しそうなものだがこれが数年は続き、気がつけば女は向島で私娼をするようになっていた。赤線と青線を行き来する内に顔が好い男は家から居なくなっており、残ったのは銀座の頃から何故か自分の尻を追っかけ回している顔が四角い常連客だけだった。
「困った」
 紐男には知らせていなかった銀行口座の通帳を眺めながら呟いた。生まれて初めて自分の状況を声に出した。「困った」その通り女は只困っていた。当面の、と云うより暫く遊んで暮らせるだけの金はあった。しかしこれから先ずっと、ではない。愛嬌があり会話が巧いとちやほやされて来たがこの商売にも限界はあるだろうし自分に店を持てるような適性があるとは思えない。けれど中途半端な年齢で職歴がない自分を雇ってくれるような真っ当な職もある訳がなく、女は首を大きく傾げてまた「困った」と呟いた。相談する相手も居ないのだった。
 ふと思い出したのは吉原で相手をした変な客だった。することをした後、女の生まれ年と月日、時間を尋ねた。歳を誤魔化して働いていたので煙に巻いたが、その客は生まれた日から女の人生を見てやると宣ったのだ。占い師だと云う。確か外国で勉強したとか云っていた気がする。女は一寸考え、家の近くの本屋で占いについての雑誌を立ち読みした。都合の良いことに西洋占星術の特集だったので丹念に読み込み、その起源があるという国を手帳に記してなにも買わず帰った。
 次の日から店にも街角にも出るのを止め、数日分の服と少しの本を持って、学生に紛れて留学生として手帳に記した国を目指し家を飛び出した。如何にしてGHQを騙したのかは自分でも判らない。然うして二年或いは三年程、占星術を学び少しだけ理屈と技術が身についた。無我夢中でやっていると英語や希臘語や羅甸語もある程度は出来るようになり、自分は若しかしたら賢いのではないのだろうか、と日本に戻る船の中で思った。
 急に居なくなった上に数年連絡がなかったというのに何故か大家は部屋を残していてくれた。「おや、まあ」と驚いた顔をしただけでなにを詮索するでもなく「家賃はあの旦那が払っておいてくれてるからね」とだけ教えてくれた。そして「あんたが戻ってきたなら報せなきゃいけないんだった」と電話に向かってぶつくさ云った。これには女が驚いた。大家を捕まえて詳細を訊けば如何やら自分は失踪者として扱われているらしい。困った、とまた思ったが、大家が連絡するのならなんとかなるだろうとも思った。楽観的なのである。大家は掃除までしてくれていたようで数年分の埃などない部屋で荷解きをし、数冊の本と自分の記録帳だけを持って亀戸で占い師をすることにした。酔客の往来が多いからだ。初めは適当な人間で練習し、自信がついたら新宿などに店でも出そうと考えたのだった。
「おい」
 女房が逃げていったと泣く親父の相手をしていたら例の男が現れた。例の、顔が四角い常連客だ。怒っているな、と思った。しかも物凄い剣幕で怒っている。こんなに物凄い顔にはなかなかお目にかかれない。見事だ。数年見ない間に迫力が増している。感心するやら驚嘆するやらで女は「はあ」と空気が抜けたような声しか出せなかった。接客中ですよとだけ云う。男は小さい目を更に小さくしてなにか怒ったが、泣いている親父があたしが見てもらってるんですよともっと泣き喚くと妙な顔をして手帳の切れ端かなにかを渡してきた。何処かの店の住所と二時間後の時刻が書いてあった。この時刻に此処に来いと云うことだろうか。女は首を傾げつつ、十二宮図を読み解く作業に戻る。親父はどうやら女運がないらしかった。
 三時間後に指定された場所に向かうと魚料理の店だった。はずれ屋という看板を横目に顔が四角いひとと待ち合わせていますと店員に云うと奥の奥の奥の個室に通された。
「手前、俺の名前覚えてねえのかよ」
「木場さん」
「覚えてんじゃねえか」
「本名だと思わなかったです」
 木場は一瞬止まって、それからまた怒った。「時間くらい守れ莫迦」どうやら女が来るまでなにも注文しておらず居辛かったようだ。待たずに帰ればいいのに律儀な男だ。刺身の盛り合わせと日本酒をふたり分頼み、向かい合って座る。
「お客さんが途切れなかったんです。それとわたし菜食主義者なんですけど」
「褄でも食ってろ」
 乱暴な謂を懐かしく感じる。この男はそういう男だ。
「急に居なくなったから店が迷惑してたぜ」
「あ、それは謝らないといけませんね」
 それきりふたりの会話は途切れた。木場は何度かなにか言いかけては止めを繰り返すが女の方は特に喋りたいことなどない。土産話ならあるにはあるが、木場に話すようなものではないと判断していた。黙りこくったまま酒だけを呑み続けた。久しぶりの日本酒は旨かった。
「――俺は心配してたけどな」
「なにをです」
「手前をだろ、他に誰が居んだよ」
 そりゃどうもと応え、何度か瞬きしてから「なんでです」と木場の目を見る。女には不思議だった。馴染みといっても金を貰って寝て少し話すだけの関係だ。一夜の徒情けを繰り返すだけの関係。そんな男がどうして自分を心配するのだろう。
「なんでって」
 怒るかと思いきや木場は変な顔をした。初めて見る表情だったのでそれが困り顔だと理解するのに数秒かかった。「すみません」なんとなく謝ると彼は唇を歪めて「謝ることじゃねえ」と素っ気なく言った。そして例の顔の好い男がつまらない掏摸で捕まっていたことと、その所為で女が自棄になって失踪してしまったのではないかとずっと探していたことを教えてくれた。掏摸の件は勿論知らなかったが驚きはしなかった。金のかかる男だと改めて思っただけだ。すみませんと言いかけ、止した。代わりに外国で勉強して占い師に鞍替えしたと簡単に説明した。木場はもっとずっと変な顔をして聞いていたが妙な口出しはしなかった。
「占いか」
「煮湯に手突っ込んだり亀の甲羅使ったりするんじゃないですよ。生まれた日の星辰を見るんです」
「俺はそういうのは頼らねえけどよ」
 母親が、と口にしかけて木場はまた止めた。記憶の中の木場ははっきり物を言う人間だったが、数年あればひとは変わる。
「嫌味かと思いました」
「なにがだ」
「お店」
 献立表に書かれたはずれ屋の文字を指さす。「先先代が蕎麦屋だったんだよ」気まずそうに視線を逸らすので「どうでもいいですけどね」と小声で応えた。
「久しぶりなのに変わらねえな」
「そうですかね、まあ、色々ありましたから」
「知ってる」
「木場さんは知ってるでしょうねぇ」
 銀座で初めて給仕し、水を溢して服を台無しにしたのが最初だ。店長は火を噴くほど怒ったがわざとじゃないだろうと許してくれた。そこから常連になって「いつもの」で通じるようになった辺りで女が店を辞め、吉原に移った。吉原では最初の客でこそなかったが殆どの時間を買ってくれていたように思う。立ちんぼをしていても拾ってくれたし、交わらず寝かせてくれるだけの夜もあった。思えば木場はずっと居た。
「変だ」
「なにが」
 自分の人生を振り返りがてら木場の行動を思い出すが、奇妙だ。何処に居ても彼が居る。「可笑しいな」「可笑しきゃ笑え」「そうじゃなくて」相当呑んでいる筈だが彼の顔色は変わっていない。
「わたし、木場さんの連絡先知りません」
「教えてない」
「それなのにどうしてわたしが何処に居るか判るんですか」
 今更かよと木場は口籠る。俺は刑事だからとかなんとか言い訳をするのでよくよく聞くと女が店から消える度に職権を濫用して居場所を探し回っていたらしい。考えれば簡単なことだ。刑事がこの女は何処だこの辺で見かけたかと云えば大抵の善良な市民は答えるだろう。
「やっぱり怒ってるんですか」
「酔ってんのか、なに言ってんのか判んねえよ」
「わたしも判りません。木場さん――刑事さんに追いかけられるようなことしましたっけ」
 善良でもないが不良でもないと自分では思う。私娼は規制されていたが木場は説教をするでもなく金をくれたし、よく判らない。「よく判りません」だからそのまま口に出した。
「自分の運命でも占ってみろ」
「占ってみましたが、金運はないみたいです。男運も」
 ああ、と木場が呻く。「確かに然うだろうな」拗ねた目つきは捨て犬とよく似ていた。
「なんだって俺はこんな奴に惚れちまったんだろう」
「変なこと言わないで下さい。酔ってますか」
「酔ってるよ、酔ってるから言ってんだ、素面で言えるかよ」
「はあ」
 また気の抜けた声が出た。信じられない程口説くのが下手くそだ。本当に酔っているのか否かも判断できない。だが木場が女に岡惚れしているとすれば全ての辻褄が合う。惚れた女だから追いかけるし、心配もする。
「惚れられるのっていいですね」
「そうかよ」
「もっと言って下さい」
 厭だと木場が外方を向いた。頬が紅く染まっている気がする。それが自分の所為だと思うと余計に可笑しく、女はふふと笑った。
「笑った顔は初めて見たな」
 捨て台詞のようだが口調は優しかった。目許も綻んでいる。無骨を装っている割に判り易い男なのだ。尻尾があれば大きく振っているに違いない。途端に木場が可愛く思え、ふふ、とまた笑う。
「酔ってるだろ」
「酔ってません。素面です」
「いいや、酔ってる。顔が真っ赤だ」
「じゃ、木場さんに酔ってます」
 適当なことを言ってみる。木場は口をぱくぱく動かして言葉に詰まった。成程、不器用な男だ。金持ちでもない。
「如何しましょう、わたし、真面目に生きてこなかったからこういう時にどんな振る舞いをしたらいいか判りません」
「そりゃ――俺もだなあ」
 ははは、と今度はふたりで笑う。占いが当たっているからか、酒のお陰か、木場が目の前に居るからか、とても気分が良かった。

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