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ブリリアントブルーFCF


 雲ひとつない青い空、風もなくぬるい空気、遠くで蝉が鳴いている。体育館の裏は絶好のサボりスポットだ。雑草が鬱陶しいが、滅多に誰もこない証左だった。
 ヤンキー座りのまま二本目の煙草に火を点ける。教師は見つけたところで叱ったり注意したりはしない。よくいえばおおらかで悪くいえば無関心なのだ。厄介なのは不真面目な先輩である。なけなしの小遣いで買った煙草を取り上げられてはかなわない。試行錯誤してうろうろするうちに行き着いたここはカイジにとってのオアシスだった。
 部活もしない、補講を受けるでもない、家に帰ってもすることがない、パチスロをする金もない、なにもない――そういう日は決まってここに来た。
 ほう、と大きく煙を吐く。体育館からはバッシュが床を擦る音が微かに聞こえた。あいつらはどういうつもりで部活に勤しんでいるのだろう。どうせ理解できないのでカイジは考えることをすぐやめる。
「うあー……」
 気の抜けた声を上げ、煙草を踵で潰した。残り屑を空き缶に放り込み、三本目を指先で弄ぶ。
 なにも考えられないのは夏の暑さのせいだけではなかった。ただひたすらに怠惰なのだ。怠惰であることのみが、いまの彼の唯一の誇りでもあった。どうだ、オレはこんなにもないもしない、おまえらにはそんなことできないだろう。情けなくなるほど小さなプライドが胸の奥で燻っている。
 自分が世界でいちばん不幸であればいい、と思った。そうであればこのだらけきった生き方も少しは肯定される。それじゃあ仕方ないよね、と誰かに頷いてもらいたいのかもしれないが、実際にはそうではない。伊藤カイジはほとんど平均的な高校生だ。未成年立ち入り禁止の遊技場に入り浸っていること以外は。
 がさがさと草を踏み締める音がした。振り向く。見知らぬ女子生徒が逆光のなか立っていた。
「お、不良だ」
 たぶんその女はにやにや笑っている。迷いもなくずんずんと近寄ってくる彼女にカイジはなにも言えず煙草とライターを掴んだままぽかんとするだけだった。「ねー、なにしてんの」という無邪気な質問には「な、なにも……」としか答えられない。「煙草は体に悪いよ」などと言いながらそいつはカイジの隣に座り込んだ。名札をつけた胸ポケットから棒付きキャンディを取り出す。包み紙を不器用に破ってからその辺にぽいと捨て、まるで昔からの知り合いかのように「暑いねー」とにこやかに話しかけてきた。名札の色で確認したが上級生だ。こんな知り合いはいないはず。
 まあいいか、とカイジは三本目に火を点けた。先輩は飴を口に入れたまま「これ飲む?」とスポーツドリンクのペットボトルを差し出した。顎をしゃくるように礼をして受け取り、蓋に手をかける。先に彼女が口をつけていたらしく、あっさりそれは外れた。
「二年だよね? 部活は?」
「してないっす」
「そっかー」
「……一本要ります?」
「要らなーい」
 気を遣って差し出した煙草はあっさり断られた。水色の身体に悪そうなキャンディを舐めつつ、彼女は重そうなスニーカーの爪先をいじっている。何味だろう、まるで想像がつかなかった。
「昨日より暑いね」
「そっすね」
「アクエリ一口どお」
「要らないっす」
 木漏れ日に彩られた白い顔は変わらず笑んでいる。会話に中身はない。頭を使わなくていい会話はとても楽で、互いに不愉快になることはないから好きだ。ぼんやりしていたところで向こうも気にしないだろうし。怠惰と楽観主義はほぼイコールである。
 湿気を含んだ重い風が吹いた。カイジの長い前髪を揺らし、次に彼女の横髪を揺らす。陰にいるとはいえ真夏だ。いつの間にか背中はシャツがべったり張り付くほど汗をかいていた。
「あっちぃ……」
 喉の奥から漏れた声は陽炎とともにコンクリートに染み込む。雨でも降ってくれたら少しはマシになるだろうか。それとも湿度にさらに不快になるのか。
「お化け屋敷とか怖い話って信じる?」
「それは信じるっつうか、怖いか怖くないかってヤツすか?」
「あ、うん、まあ、そうだね。お前だー!とか言われるやつ」
「たぶん怖くないっす」
「そっか。涼しくしてあげようと思ったんだけどな。不良はそんなことじゃビビらないか」
 ちょっと悔しそうな表情でかりかりと飴をかじり、その辺の雑草を引っこ抜く。
 例えばいま彼女が「実は幽霊でした」と言ったとして、それが真実だったとしてもカイジは恐怖しない。多少驚くかもしれないが、手も足もはっきりしている真昼の幽霊は恐れようがなかった。もちろんまだ人間を殺したことはないので「お前だー!」をやられても大声に驚くだけで恐ろしいはずがない。まったく、恐怖という感情や現象に対してもカイジは怠惰だった。あれこれ頭のなかで理屈を組み立て、それっぽい理由を見つけて自分で納得する。怠惰であるための無駄な努力だ。
「じゃあ、さ、これは?」
 なんすか、と返事をしようと顔を彼女に向ける。肩を掴まれ、ぐ、と力を込められた。白い顔が近づいてくる。「な、」カイジは咄嗟に身を引こうとしたが遅かった。
 唇と唇がぶつかる。生暖かくて柔らかかった。一瞬の出来事だ。煙草の灰が落ちる隙もなかった。
 ファーストキスだ、と認識した瞬間、かっと全身が熱くなる。遅れてやってきたのは羞恥と動揺だった。今度は血の気が引いて、心臓がばくばく暴れる。頭の後ろが冷たくなった。
「ビビったぁ」
 嬉しそうにはしゃぐ彼女の舌はキャンディのせいで青い。
「ビビった、っていうか……」
 頭のなかは真っ白だった。こういうときはどんなことを言えばいい、どんな顔をすればいい。粥のような脳みそではやはりなにも考えられなかった。
「今日は帰るね、また明日。えーっと、イトーくん、ばいばい」
 青い舌をまたちろりと覗かせ、スカートを翻して彼女は立ち上がった。軽やかに自分から離れる彼女を止めればいいのかそのままにすればいいのかもカイジには分からなかった。ただ、空の青さだけが目に染みた。

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