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Nothing's Gonna Change


 誰に引き合わされたかは忘れたが、第一印象は互いによくなかったような気がする。オレは煙草を吸う女がすきではなかったし、自分よりも麻雀が強い女に腹が立って仕方なかった。おまけにあいつは初対面にもかかわらずオレから三万も取っていったのだ。財布から出し渋ったら「早く出せ」と急かし、油断した瞬間に強盗のように奪って部屋から出て行った。その場にいた誰かが「可愛くねえよなあ、あいつ」と呟いた。
「たぶん大通りの新しくできた店行ってるぜ」
「どこ?」
「パチスロ」
「オレの金でかよ……」
「お前負けただろ、あいつの金だよ」
 反論できなかったので煙草を咥え、火も点けずに半開きのドアをじいっと睨む。まだやるか誘われたが金がなくなったので帰るというと誰も止めなかった。
 ボロボロのスニーカーの踵を踏んでゆっくり歩く。街灯や行き交う車が照らすオレのシルエットはただの陰ではなく淀んだ泥のように見えた。踏むとぐずぐずに沈んでしまいそうな泥濘だ。底なしの沼がすぐそこにある。オレはいつでも終わってしまえるのだ。
 赤や青や緑や黄色と下品に輝く店の前で立ち止まる。大通りに新しくできた店。ここか。スタッフ募集とプリントされた紙が等間隔に貼ってある。時給はそこそこいい。いまのコンビニが嫌になったらこういうところで働くのも手かもしれない――などと考えていたら、あの女が出てきた。思いっきり猫背で両手をポケットに突っ込み、不機嫌そうな顔つきで。とても勝ったようには見えなかった。
「おい、オレの三万どうした」
「九龍に消えた。煙草ちょうだい」
 どうしようもねえ女だな、と改めて思った。初対面のオレによくこんな不遜な態度を取れるものだ。残り三本しか入っていなかった箱をそのまま渡す。ポケットからライターを出した女が「帰るの?」と訊ねた。頷くと「今日泊めてくれない?」ときた。呆れて返事もできないでいると唇の端を歪めて「ママの彼氏がウチに来てるからさ、帰りたくないんだよね」と吐き捨てるみたいに言う。しかし目に悲壮感や嫌悪感はなく、ただただつまらなそうだった。
「……一晩だけな」
「それでいいよ。名前なんだっけ」
「伊藤カイジ」
 女はようやく友好的な表情になった。「カイジくん、ありがと」よほど店内が暑かったのかメイクが汗で乱れている。よれたアイラインに縁取られた半月のような目とオレンジのリップが半分落ちた唇にぞくりとした。七色のネオンを背にした女は妙な色気があって、腹の奥に蛇が棲みついたような感覚に襲われた。
 アパートに着くまでオレたちはほとんど話さなかった。途中でコンビニに寄って酒とつまみと煙草を買い、オレが五歩ほど前をずっと歩いた。振り向かなかったが、女がついてくる雰囲気は確かにあった。
「ワンルームだぜ」
「寝るだけだし」
 ブーツを脱いで部屋に上がった女が「ねえ、せっかくだしさ、変なことする?」と上目遣いにオレを見る。思わぬ言葉に怯み、声が出ない。心臓がばくばくと忙しなく動くだけだ。
「じゃあお風呂貸してね」
 どうやらオレは彼女の提案を受け入れたらしい。頭は真っ白なのに腰は熱くなり始めている。慌ててシーツをなんとなく整え、どこかにしまいこんだはずのコンドームを探した。最後に使ったのはたぶん、去年だ。まだ使えるだろう。
 髪も身体も濡れたままの女が下着姿で現れた。「ドライヤーないの」「ねえよ」「あっそ」青白い身体を不躾に見てしまわないよう目を逸らす。すっぴんの彼女はあどけなく、高校生くらいに見えた。タオルで髪を乾かしながら隣に座る女から逃げるように風呂場に向かう。缶ビールを開ける音が後ろから聞こえた。
 そういう出会いで、そういう夜だった。ロマンチックでもエキサイティングでもなかったし、ときめきも第六感が働くというやつもなかった。しかし後悔はなく、「ママの彼氏が家にいる」ときには彼女を部屋に入り浸らせることにした。
 オレたちは似ていた。趣味や嗜好だけではない。なんとなく生きて、碌に働かず、大きな夢も見ずに、ひたすらに金がなく、それでも金がほしかった。生きているというよりも死んでいないという方が近かった。
「つまんねえなあ」
「ほんとね」
 生を感じるのはセックスするときくらいだ。彼女の生温い肌がオレの身体にぴったりとくっつくと言いようのない安心感があった。かつての同級生がどこに就職したとか結婚したとか、世界がどんどん変わっていくなかで、オレたちはふたりでいた。ふたりぶんの煙で汚れてゆく部屋は居心地がよくて、ここが世界の中心であればいいのにとさえ感じた。
「カイジくん、」
 吐息や声もすべて飲み込みたくて無我夢中でキスをする。酸素を求めて開かれた口に侵入するため、乱暴に舌を差し入れた。苦しそうにしながらも一生懸命オレを受け入れてくれる健気さがたまらなくて、身体の中心で塒を巻く欲望をそのままぶつけてしまう。まだ昼間なのに。外では選挙カーがなにかやかましく騒ぎ立てている。選挙など一度も行ったことがない。オレにはなにも変えられないし、変えることに興味もないからだ。
 最初から分かっている。こんなところにいてもなにも変わらない。変えられない。変わりたくても、なにもできない。白かったカーテンが生形のようになり、ゴミ箱にコンドームと煙草の箱が増えるたびにそれを自覚しては懸命に頭から逃す。
 この女とこんな名前のない関係を続けていてもなにも変わらないし、情けないオレはそれを望んでいる。怖いのだ。変わることが。こんなどうしようもねえ女と気持ちのいいセックスをして、それで世界が終わればいいのにと思っている。
 なんとなくつけたテレビが選挙特番をしている。政治アナリストを名乗る、棺桶を寝床にしているみたいな死にかけのジジイが「若者は選挙に行け」という旨の発言をした。「このままだと日本は終わってしまいます!」と大袈裟な台詞を交えつつ。
「投票してお金もらえるなら行くのにね」
「いいなそれ」
 事後特有の頭を使わない会話にふたりで笑う。テレビを消し、また肌をくっつけて横になる。ふたりの境目が曖昧になり、同時にあくびをした。
「ねむい」
「寝ちまえ。どうせなんもねえだろ」
「うん」
 細い身体を後ろから抱きしめたまま目を瞑る。彼女が「あのさ、起きたときに日本が――世界が終わってたらどうする?」と呟いた。「……はは、」乾いた笑いが洩れた。うまい返事は思いつかなかった。

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