どこにいても人間関係が上手く構築できない。オレだけは除け者で、オレ以外の人間は何故か仲良くしている。別に仲間になりたい訳ではないし、無駄に馴れ合うつもりもないが、不便なこともある。それをいま痛感していた。 ポケットやリュック、果ては帽子や靴の中までひっくり返して見てみたが部屋の鍵がない。鍵束から外れて、休憩室かどこかに落としたようだ。「はあぁあ……」大きなため息に反応した猫が逃げていった。いまから店に戻るか? しかしこの寒い中自転車に乗って、しかも坂道を上る気力はない。とはいえ気づいてうちまで持ってきてくれるような仲間もいないし、外泊する金もなかった。 どうしようか迷っていたら後ろから「伊藤くん」と聞き覚えのある声に呼ばれた。振り向くとさっきまで店で一緒だった女が立っていた。驚いて返事ができず後退りする。 「あ、ごめん、びっくりさせちゃったね」 女は口元を覆って恥ずかしそうに弁解した。「あの、忘れ物してたから」そう言って差し出されたのはいまから取りに戻るはずだった部屋の鍵がひとつ。「うお」また驚いて声が出た。 「前にこの辺に住んでるって言ってたからダメ元で来てみたんだけど、見つかってよかったぁ」 「わ、悪い……」 「ううん、わたしもすぐ近くだから。角にペットショップがあるでしょ、あの辺」 彼女のことはよく知らない。きちんと挨拶してくれて、オレより半年ほど前から働いていて、確か同い年。フリーターだと言っていた気がする。最初の飲み会で聞いた情報しかなかった。苗字は制服に名札がついているから分かるが、下の名前は分からない。どう答えるべきか迷っておろおろしていたら彼女はにっこりと笑い「今日もお疲れ様、おやすみ」と指をひらひらさせた。咄嗟にその腕を掴み「あ……あの、コーヒーでも淹れる、から」としどろもどろに引き留める。女はぱちぱちと瞬きをし、また笑った。「うん、ありがとう」眩しすぎる笑顔だった。 「意外と綺麗だね、伊藤くんの部屋」 部屋に招き入れると、女は辺りを見回してそう言った。単純に物がないだけなのだが、曖昧に返事をしてごまかす。ベッドを背に座るよう促し、まだ残っていたはずのインスタントコーヒーを適当にふたり分用意する。砂糖もミルクもないのが情けなかった。 「わざわざありがとう」 女の言葉に自分がまだ礼を言っていないことに気づく。慌てて頭を下げ「い、いや、こちらこそありがとう、ほんと助かった」と下手くそな感謝の言葉を口にした。ふだんあまりこういうことを言わないので上手く話せない。女は変わらず笑っていた。「イトーって書いてあったから分かったんだよ。マメだね、伊藤くん」コーヒーはあっという間になくなった。共通の話題はバイトのことしかないので、途切れ途切れに、不器用に今日あったことを話す。彼女が聞き上手なためか、会話は弾んだように思えた。 「もう九時だ、ごめん、お邪魔しちゃったね」 帰ろうと立ち上げる女を見て「帰ってほしくない」「まだいてほしい」と思ってしまった。またさっきと同じように腕を掴み、引き留めようとする。ぐい、と引っ張った途端「あ、」バランスを崩してふたりで床に倒れた。 「……伊藤くん」 彼女の声音は冷静だった。オレはなにも言えず、自分の下から香る甘ったるい匂いに興奮して立ち上がれずにいた。「ねえ、」なにか言おうと動く赤い唇に誘われて、そのままキスをする。ほんのり苦い。女は目を丸くしたが、明確な拒否はしなかった。何度も軽いキスを繰り返すうちに辛抱ができなくなり舌を入れる。ぬるりとした感覚に脳の奥が痺れた。「ん、っ」鼻にかかった女の声が下半身にずんと響く。もうどうなってもいい。ベルトを外し、下着越しに性器を擦り付ける。そのまま服も脱がせず胸に触れ、乱暴に掴んだ。 「なあ、無理、我慢できねえ」 オレの惨めで強引な訴えを聞いた女が下着を脱ぐ。もうなにも言わなかった。雑にスカートを捲り、細い腰を掴んで挿入する。 「あ、あ……っ!」 初めて聞く喘ぎ声にうっとりしつつ、夢中で腰を動かした。「いとう、くん」掠れた声に呼ばれてますます興奮する。 ――もしかしてこの女、最初からそのつもりだったんじゃねぇのか。そうだよな、絶対そうだ、一人暮らしの男の部屋に簡単に上がるなんて、最初からセックスするつもりだったんだろ――なんだよ、オレが好きなのかよ、じゃあさっさと言えよ――可愛い、気持ちいい、もしかしたらオレもこいつが好きなのかもしれない――色んな考えが頭をよぎり、まとまらず、ぐちゃぐちゃになる。 「あー……」 射精しながら腑抜けた声が出た。女の脚を抱え、最後の最後まで注ぐように腰を動かす。 「いてて」 動いているうちに壁に頭をぶつけた女が後頭部をさする。中に出したことは気にしていないのだろうか。謝ろうとして、火種になるのも嫌なのでやはり黙っておいた。 服を整え、下着を着け、女がオレをまっすぐ見る。その視線になにも言えず、目を逸らした。ふ、と彼女が笑った気配があった。「ねえ、送ってよ」案外なんでもない頼み事に力が抜けた。 「じゃあね、伊藤くん、また明日ね」 ペットショップの前で手を振り別れる。 胸がもやもやした。言語化できない漠然とした気持ちが首をもたげる。なにを心配しているんだ、オレは。そのつもりだった女を抱いて、満足させてやっただけだ。手を見ると彼女のメイクなのか、キラキラしたものがついていた。反射的にあの笑顔を思い出す。人懐っこい、愛らしい笑顔。ああもしかしたらこの気持ちは恋愛感情なのかもしれない。むず痒い気持ちになって逃げるように家に帰った。その日はよく眠れた。 翌日、いつものようにぼそぼそと挨拶しながら出勤したら「おはよー」と後ろから彼女に声をかけられた。いつもと同じ、なにも変わらない、あの笑顔だ。あれ、と思う。昨日あんなことがあったのに、まるでいままでと変わらない様子だ。 「どしたの」 オレがぽかんとしているのがおかしかったのか、不思議そうにこちらを見る。セックスしたのが嘘みたいだ。「ほら、着替えなよ、怒られるよ」あの笑顔のまま。またもやもやし始めて、オレは仕事が手につかなかった。 帰りのタイミングが同じだったので、今度はオレから家に誘ってみた。本当はどきどきして吐きそうなのにそれを感じさせないよう、なんでもなさそうな顔で。彼女はなにも質問せず、いいよとだけ言った。 その日もやっぱりセックスした。昨日と違ったのはお互い服を脱いだところくらいだ。それと、今度は中に出さず、口に出した。オレの精液を飲む時に少し苦しそうな顔をしただけで、彼女は相変わらずなにも言わなかった。 「また明日ね、伊藤くん」 その次の日もオレの家でセックスした。後ろからすると泣き声のようなか細い喘ぎ声を上げるのがたまらなく興奮した。背中に出すと「やだあ」と面倒くさそうな反応をしたが、それだけだった。 「またね、伊藤くん」 上に乗せると軽い身体が面白いくらい跳ねる。恥ずかしそうに下唇を噛むのが可愛くて、何度も腰を突き上げた。「や、これ、苦手なの」色っぽい掠れ声に身体の芯が蕩ける。いつまでもこうしていたかった。 抱きしめると上目遣いにオレを見て「伊藤くん」とだけ呼ぶ。その控えめさにたまらなく愛おしい気持ちになった。 「じゃあね、伊藤くん」 ある日唐突に彼女はバイトをやめた。オレは店長に「あれ? 聞いてないの? 結婚して引っ越すんだってよ」と呆れた顔で教えられた。唖然として、なにも言葉が返せない。 「まあねえ、ずっと遠距離だって聞いてたし、大変そうだったから」 「どこ引っ越したか聞いた?」 「海外だってさ、相手の転勤についていくんだって」 「おめでたいねえ、でも挨拶はしたかったなあ」 オレ以外の連中は詳しいことを聞いていたらしい。そうか、またオレだけ仲間外れだったのか。オレだけなにも知らなかったのか。 鍵を握りしめる。凹凸が手のひらに食い込んで痛みを感じるくらい。 連絡先なんて知らない。彼女の下の名前すら、いまだに思い出せない。オレにはもう、正真正銘、なにもなかった。 - - - - - - - |