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ぼくのかみさま


主様は僕がなにをしても怒りません。虎が兵糧を囓ってしまっても冷却水を零してしまってもあらあらと微笑んで撫ぜてくれます。一度だけ、万屋からの帰りに道草をして遅くなってしまったときはお小言を頂きました。けれど最後に「心配だから」と仰って優しくぎゅっとしてくれました。厭なことがあっても、こうしてもらえると全て吹き飛びます。
小夜くんと一緒に夜中に手水に行くときなんか、夜遅くまでお勉強しているお姿を見ることがあります。お香を焚いているのかとても良い匂いがして、ついついお声をかけてしまうことも。そんな時、いくら夜遅くても主様は笑顔で部屋に迎え入れてくれます。そしてこっそりお菓子をくれて、「もうおやすみなさいね」と頭を撫ぜてもらえます。
だから僕は主様が大好きで、主様のためなら一生懸命頑張れるのです。主様は、僕にとってすごく大事な人なのです。

「ん〜、ボクあんまりそれ好きじゃないなあ〜」

寝相の悪い乱くんの脚が僕の腰を蹴っ飛ばしました。なにやら寝言もいっています。短刀の僕たちは広い部屋にみんなで雑魚寝。主様の部屋の隣の隣の部屋です。たくさんお布団が並んでいますがみんな身体が小さいので全然狭くありません。
いつもこの時間になると手水に行きたくなります。廊下は暗くて怖いのでひとりではなかなか歩けません。だから小夜くんについてきてもらっているのですが、小夜くんは猫みたいに身体を丸めてぐっすり寝ていました。うう、ひとりで行くしかなさそうです。虎は起こしてしまうとぎゃうぎゃう吼えてしまうので、そろりと部屋を抜け出しました。
足袋越しに廊下の冷たさを感じます。歩くたびにぎしぎしというので、ゆっくり歩かなければいけません。身体の大きなお兄さん達がここを急いで歩くと一層大きな音がして、そのうち抜けてしまうのではないかと心配になります。

「うう……」

お昼に怖い話を聴いたせいか、今日の廊下はいつもより暗く長く見えます。お化けなんていない、妖怪なんていないと思っていても足が竦みました。
あと数歩で主様の部屋の前に着きます。今夜も主様は夜更かしさんのようで、まだお部屋は煌々と明かりが点いていました。少しほっとします。お部屋に入れてもらって、お話しをしたいと思いました。

「えへへ、主様――」

いきなし部屋に飛び込んだ僕がいけなかったのです。
主様はお勉強もうたた寝もしていませんでした。僕が見たのは、脚を投げ出した主様をすっぽりと覆うように岩融さんが乗っかっているところです。岩融さんは身体を大きく動かしていて、主様は泣いているようでした。岩融さんはいつもの紫色の着物を着ているのに主様はなにも着ていなくて、それもおかしく感じます。
ふたりは急に現れた僕に驚いたみたいで、そのままの体勢で固まっていました。岩融さんは額に汗をかいています。
僕は自分でもびっくりするくらいへなへなとその場で崩れ落ちました。岩融さんが主様を虐めているようにしか見えなかったからです。だって主様は苦しそうな顔をしていて、いつも笑顔の主様とは別人に思えました。戸にしがみついたまま僕は動けません。きっと見ちゃいけないものなんだと慌てて目を逸らします。直前、岩融さんが含み笑いをしたのが見えました。あの怖い歯が覗いて、逃げ出したくなります。

「五虎――あ、やめ、莫迦っ」

がう、と虎の鳴き声が聴こえた気がしました。多分、岩融さんの吼えた声です。ざらついた声で主様になにか囁いていたようですが、僕は必死に耳を塞いでなにも聴こえないようにしました。逃げ出したいのに、身体が動いてくれません。耳だけでなく目も塞いでおきたいです。見ちゃいけないと分かっているのに好奇心に勝てなくて。
ごそごそとなにか音が聴こえてきます。耳は諦めて、目を塞ぐことにしました。掌いっぱいに顔を覆ってなにも見えないようにします。

「待って、まって、やめて、」
「ふん、止めるものか。すぐ終わらせるから黙っていろ」

駄目だ、僕は意志が弱いから。大好きな主様の声が耳に入ると、ついそちらを見てしまいます。指の隙間から覗きみると、やっぱり僕が見てはいけないものがそこにありました。主様の身体は殆ど見えなくて、ぴんと伸びた爪先だけ妙にはっきり分かりました。痙攣するみたいに震えています。主様の足と腕の細さがやけに生々しいものでした。耳まで熱くなります。

「あっ、あ、だめ、」

僕に対しての言葉なのか、岩融さんに対しての言葉なのかは分かりませんでした。
ふるふると震えたまま今度はしっかりと目を背けます。こんなに近くにいるのに、ふたりはまるで違う世界にいるみたいで、異質なのは全く僕の方でした。
脚がじんと痺れていました。愈々動けません。ごめんなさいごめんなさいと自分でも訳が分からないくらい謝ります。きっと僕は今、真っ赤になっています。主様の高い声がいっぱい聞こえて、なにも考えられません。恥ずかしい、消えてしまいたい。
岩融さんがまた低く唸って、忙しなかった衣擦れの音が終わりました。全て了ったようでした。

「……退いて」

主様は聴いたこともないようなぶっきらぼうな声を出しました。

「なんだ主、今日はつれないな」

打って変わって余裕のある台詞に、やっぱり僕はこの人が怖くなります。
自分の脚を見ると畳の跡がついていました。どれくらいこうしていたのでしょうか。手水に行きたかったのにそんなことはすっかり忘れていました。主様は小袖を羽織って僕の傍まで来てくれました。

「あ、主様ぁ……ごめんなさいぃ……」

怒られると思いました。僕が迂闊に部屋に入ってしまったのがいけないのだから、僕が怒られるのが道理です。泣きながら何回もごめんなさいをしました。あれれ、いつの間にか泣いていたみたいです。鼻がぐずぐずになりました。「えう、ごめんなひゃい、主様、ごめんなさい、ごめんなさい」懐紙で鼻を拭いてもらって、また何回もごめんなさいします。
主様は優しく撫でてくれました。びっくりして「ひっく」しゃっくりが出ます。

「ごめんね、五虎は悪くないからね、立てる?」

主様の肩の向こうに煙管を咥える岩融さんがいました。こっちを見ています。主様に手伝ってもらって蹌踉めきながら立ち上がりました。痺れはとれていません。それでも早くここから逃げたいので鞭打って脚を動かします。
手を繋いでもらって部屋の外に出ました。しゃっくりも涙も止まりません。

「あのね、五虎」
「えと、あの……」
「いま見たことは忘れて。ううん、忘れなくてもいいけど、誰にもいっちゃ駄目。いい?」

大好きな主様のいうことなので、勿論頷きました。
目を閉じると岩融さんの怖い顔を思い出します。お昼に聴いた怪談話より怖いかもしれません。あの人はどうしても苦手なままです。でも、さっきまで全身が岩融さんのものだったのにいまの主様はすっかり僕のものでした。だからこのことは誰にもいいません。「ふたりだけの秘密ですね」主様はいつもみたいに微笑んで、それから抱きしめてくれました。これだけで、さっきまでなにがあったかを忘れることができます。はい、ちゃんと忘れました。誰にもいいません。「主様、大好きです」額にそっと口づけをしてもらいました。
主様は僕がなにをしても怒りません。優しい、僕の神様です。

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