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週替わりの奇跡の神話


 月曜日、コンディショナーが切れていた。しまった、オレが買っておかないといけなかったのに。特に文句を言われなかったということはあいつが使ったタイミングでなくなったのだろう。不幸中の幸いだ。シャンプーだけで済ませてさっさとバスルームから出る。「お湯抜いといてね」リビングから聞こえた声に返事をせず、戻って栓を抜いた。乳白色の湯がごぼごぼと音を立て排水溝に飲み込まれてゆく。それをぼんやりと眺めつつ歯を磨いて、そろそろ歯ブラシも買い替えどきだなと思った。
「バイトどう?」
 先週から始めたリサイクルショップでのバイトについて彼女はとても心配してくれる。「フツーだよ」オレは当たり障りのない返事をして隣に座った。本当はもう逃げたいが採用されたと報告したときに大喜びした彼女の顔を思い出すとそうもいかない。強制的に昼夜逆転の生活を止めさせられたこの身体はあちこち怠くて仕方なかった。
「明日ちょっと遅くなるかもしんない」
「繁忙期だっけ?」
「ううん、人が少ないから」
 ふあ、と大きな欠伸をし、白湯の入ったマグカップをことりとテーブルに置く。オレもそれに口をつけて「分かった、無理すんなよ」とまた当たり障りのないことを言った。眠そうな彼女の肩を抱き、こめかみにキスをする。清潔感のあるいい香り。「寝るか?」「うん」一緒に暮らし始めて半年ほど。同じタイミングで寝るようになったのは先週から。それまでの荒れたオレの生活についてはなにも咎めず、彼女は「カイジくんと寝るとあったかくていいね」と穏やかに微笑んでいた。



 火曜日、同じタイミングで採用された大学生とバイト上がりに居酒屋に行った。未成年だと言っていたがビールを何杯も飲んで「伊藤さんは将来どうするんすか』などと無駄な質問をした。
「さあな」
「ケッコンとかするんすか」
「さあ」
「ていうか、そもそも彼女いるんすか」
「なんだその言い方」
 ムカつく口調だったので否定も肯定もしなかった。彼はにやりと笑って焼き鳥を串から乱暴に食う。
「俺は卒業したら結婚するんすよ。卒業したら、っていうか司法試験受かったらですけど。金貯めて、ゴーカな披露宴するんで、伊藤さんも招待しますね」
「行かねえよ」
 少し話しただけでオレと天と地ほども差のある人間だと分かった。だんだん顔を見るのも嫌になって最後の方はずっと彼の後ろの壁に貼られたメニューを眺めていた。
「お客さんもう看板なんで」
 迷惑そうに追い出され、二軒目の誘いを断って家に帰る。帰宅途中のドラッグストアはすべて閉まっていたのでコンディショナーは買えなかった。
「ただいま」
 返事はない。寝室にまっすぐ向かうとご丁寧にオレの寝るスペースを確保した彼女が小さく寝息を立てていた。まだ少し湿っている髪をいじるとむにゃむにゃと訳のわからない声を出して寝返りを打つ。「ただいま」もう一度声をかけた。そっと頬にキスして、外し忘れている中指のリングを外してやり、シャワーを浴びることにした。ドライヤーの音で起こすのも忍びなかったのでタオルで雑に乾かしながら戻ってもまだオレのスペースはあった。



 水曜日、頭痛がひどかった。
「風邪かな、帰りになにか買ってくる?」
「いや……」
 間違いなく二日酔いだ。そんなに飲んでいないはずだが、大学生のあのくだらない話が身体に障ったのだろう。平熱を示す体温計を放り投げバイト先に体調不良で行けないと連絡した。オレのために午前休を取った彼女が「あ、しまったお醤油ないや」と間抜けな声を上げる。
「買ってくるから寝てて、ご飯作ったら仕事行くから」
「……ついでにオレの歯ブラシも……」
「いいよ」
 ドアが閉まるばたんという音を聴いて、コンディショナーも頼めばよかったなと後悔した。なんなら歯ブラシなんていまじゃなくてもいい。頭の奥がずきずきと痛んでまともに考えられないのだ。そんな風に言い訳めいた思考を巡らせて布団をかぶる。
 地獄のように熱いあんかけうどんを作った彼女はオレの頬にキスをして「今日は早く帰るね」と手を振って仕事に向かった。テレビをつけると公共放送が聖書の解説をしている。それをBGMにうどんを二口ほど食って水をがぶ飲みし、ついでに薬も飲むと案外早く落ち着いてほっとした。
 余裕が出たのでチャンネルを変え、ワイドショーをぼうっと見る。天気コーナーが終わり、笑顔のアナウンサーがフリップを取り出した。「さて今週末はフェブラリーステークスが――」オレは最後まで聞かず、軍資金を作るためパチ屋に走った。財布の中身も確かめずに。
 帰り道、また頭痛がひどかった。信じられないくらいに負けて週末の勝負が不安になる。運を貯金したと思おう、そうでなければ救われない。大丈夫、神様ってやつがいるなら真面目になったオレにご加護を与えてくれる。
「どこ行ってたの」
 時計を見る。午後八時。呆れた、そんなに長い時間あの狭い空間に居座っていたのか。責めるというよりも不安そうに問う彼女を無視して逃げるようにバスルームに駆け込む。煙草や香水のにおいを流してしまうために。無意識のうちにプッシュしたらコンディショナーが補充されていて、後ろめたさを感じた。
「カイジくん」
「頭いてぇから寝る」
「ご飯は、」
「食ってきた」
 意味のない嘘をついて寝室に向かう。なにか言いたそうな彼女の顔は簡単に想像できた。胸が痛んで、でもどうしようもなかったので朝と同じように布団をかぶってなにも考えないことにした。



 木曜日、彼女が熱を出した。それを免罪符にバイトを休むことにし、懸命に看病する姿勢を見せる。
「なにか面白い話して」
 汗を拭いてやったらそう言われた。一瞬考えて、なにも思いつかない。だから「お前に一目惚れしたときの話してやるよ」と彼女がいちばん喜ぶ答えを返した。いつも同じ時間に同じコンビニで会うのが嬉しかったこと、彼女は帰り道だったがオレにとっては起きる時間だったこと、新発売のスイーツをいつも買うのが可愛いと思ったこと、雑誌を立ち読みしながら声を上げて笑うのが可愛いと思ったこと、初めて話しかけたときには警戒されて逃げられたこと、三日目にデートを取り付けて、七日目に告白したこと、それも一度は断られて泣いたこと、彼女のためなら心を入れ替えて真面目に働こうと誓ったこと――何度も同じ話をしているのにそのたびに彼女は嬉しそうに笑う。
 ぎゅっと手を握られた。子供の手みたいに熱い。
「なにが食いたい?」
「あんまり食欲ないから、傍にいてほしい」
 あわよくばまた金を作りに行こうと考えていたのを見透かされていたようでどきりとする。曖昧に応えて手を握り返す。ラジオから今日は星が綺麗な夜空になるでしょうと無感情なアナウンスが流れた。
「東京には空がないからね」
 彼女はどこかで聴いたような台詞を溢した。それを拾えずにただ目を見ていたら「おやすみ」と呟いてすぐに眠りについた。赤い頬をなぞり、明日と明後日でどうやって金を作ろうか、オレはそればかり考える。どこかに借りるわけにも行かない。明日雀荘で粘ってみるか。「おやすみ」オレも呟いてソファに横になる。もうすっかり、まともに働こうという意思は雲散していた。



 金曜日、元気になった彼女は「飲み会があるから遅くなるね」と言って仕事に向かった。オレは連絡もせずバイトをサボることにする。クビにしてくれた方が、いっそありがたい。
 駅前のいつもの雀荘に向かい、馴染みの面子で卓を囲む。この面子ならぼろ負けはしまい。四方八方から色々なにおいを浴び、気分が悪くなるかと思いきや懐かしさに寧ろやる気が出てきた。
「うお、九蓮宝燈」
 出したら死ぬといわれる役が早々に現れた。サマを疑われていろいろと調べられたが、神様がオレを見守ってくれていたらしい。「奇跡だぜ」その後も危なげなく周りから金を巻き上げて雀荘を後にする。これだけ余裕があれば週末は一発デカいのが当てられるかもしれない。
 浮き足立って帰宅すると、彼女は先に帰っていた。
「遅くなるんじゃなかったのか?」
「もう日付け変わるよ。今日はバイトどうだった?」
「……あー、」
 声のトーンで察したのか、彼女は悲しそうな顔をする。
「い、いや、でも、金は作ってきたから。ほら、」
「……貯金するの? しないでしょ?」
 今回は明確に非難する言葉だった。明らかにオレに非があるのに、かっとなって彼女の細い身体を押し倒す。「金あんだからいいだろ、文句言うなよ」「……怖いよ、カイジくん」怯えた目を見なかったことにして、冷たいフローリングのうえで乱暴に彼女を犯した。かなり昂っていたのだろう。事後、苦しそうに泣く彼女の声があまりに悲壮だったので、目的もなく家を出た。目的もなくふらふらと歩き回り、たまに夜空を見上げた。星などひとつも見えなかった。



 土曜日。彼女は起きてこなかった。また具合が悪いのか、傷ついたままなのか。なんと声をかければよいのか分からなくて「ちょっと出てくる」とだけ言って今度は賭けポーカーをしに、裏通りのアパートに向かった。少なくとも昨日の金を二倍にはしたい。ただし急いてはならない。もうバイト先に連絡をするのも忘れてしまっていた。
「強いねえ、伊藤くん」
 褒められても油断はできない。穴が開くほどカードを見つめ、着実に金を増やしてゆく。ちまちまとバイトをするよりもよっぽど刺激的で大金が入ってくる。ああ、最高だ。やはりオレはかくあるべきなのだ。
 結局、最初の金を三倍ほどに増やしていつものようにふたりの家に戻る。ベッドに丸まっている彼女を抱きすくめ「ただいま」と耳元で囁いた。彼女は泣いていた。さすがに驚いて腰が抜ける。
「……カイジくんはバカだよ」
「バカじゃねえよ……バカはこんなに金持って帰って来られねえだろ」
 頬に強く触れられた。なにかと思ったら張り手だったらしい。泣きすぎてまったく力が入らないようだ。
「この一週間でカイジくんは本当にダメなんだって分かったよ。もういいよ、おしまいにしよう」
「なん……っ、だよ、それ」
 金の入った封筒をどさりと落とす。皺くちゃの万札が数枚はらはらと舞ってシーツの波に飲まれた。
「働くって言ったのにすぐ辞めちゃうし、ギャンブルばっかりするし、わたしももう限界だよ」
「あした、明日絶対もっと稼いでくるから、ぜったい、」
「お金の問題じゃない。それにどうせ競馬でしょ」
 膝をついて拝むように彼女に縋る。「来週から頑張るから、頼む、バイトもする」ぱしん、今度は強めに頬を叩かれた。
「おしまいだから出ていって」
「あ、明日まで待ってくれ、カミサマだって世界を作るのに七日かかったんだぜ、あと一日くらいくれよ」
 自分でもなにを言っているか分からない。先日観た番組の受け売りでそのまま適当にそれっぽいことを口走った。彼女は僅かに戸惑った表情をしたが、すぐに諦めの顔つきになった。
「世界を作ったのは六日間、あとの一日はお休みしたんだよ」
 だから日曜日はお休みなの、と続け、今度は優しく頬を抓る。
「おしまいだよ、カイジくん」
 あと数分で日付が変わる。日曜日になる。オレたちが終わる。神様はいたようだが、奇跡はそう何度も起こらない。

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