女心が分からない。 正確には、自分を好きだという女がなにを考えているのかが分からなかった。 ラウンジで働いているというその女はひとりじゃ寂しいからとカイジを自分の部屋に住まわせ、あとはなんでもさせてくれた。カードを持たせてくれてなにをしてもいいといってくれた。ふつうのことではない。しかしカイジはそれになんの疑問も抱かず堕落していた。 「カイジくんが好きだから、なんでもしてあげたくなっちゃうんだよ」 ふにゃりとした笑顔で女はそう言った。 「オレのどこが好きなんだよ」 もちろん自分のダメさ加減はよく分かっていた。見た目が特別いいでもない、経済力はむしろマイナス、ファッションセンスも皆無。自分について考えるとひどいところしか出てこない。カイジは頭を抱える。 女との出会いは雀荘の帰り道だった。通しをやられ、帰りの電車賃もなくなった夜だ。傘も盗まれていたので、大雨のなか、肩を落としてとぼとぼと歩いていた。どうすればいいか分からなくなり天を仰いだ。そのときピンクの傘を差してくれたのがその女だった。「風邪引いちゃうよ、おうちはどこ?」「……帰るとこなんてねぇんだ」ヤケクソで出た言葉だった。女は少しだけ驚いた顔をして、ふにゃりと笑った。「なら、うちにおいで」野良犬を保護するような感覚だろうか。それでもその夜ふたりはセックスをした。 「カイジくんのこと、すごく好きになっちゃったんだよ」 「だからその理由……」 「好きになっちゃったんだもん。それだけ」 「ひ、一目惚れとか……」 「違うよ。でもわたしの勝手でしょ? なんでもいいでしょ?」 本当はカイジもどうでもいいと思っている。ただ世の中には答えが必要なものが多くあって、この女がカイジを気に入っている理由もはっきりさせておくべきものなのだ。だって、そうしないと彼は努力ができない。捨てられるとき、まだ頑張る、ここを直す、なんて言い訳ができないのだ。するかどうかはさておき。 窓の外、信号が赤くなったり青くなったり黄色くなったりするたびに部屋の色が変わる。幸せな空間のはずなのにサイケデリックで、悪夢のようだった。 「カイジくんはそのままでいいよ」 その言葉はカイジの全てを無責任に肯定し、ふたたび堕落させていった。 裏カジノやパチンコ屋に入り浸り、たまに帰っては金をせびり、そして下手くそなセックスをして女――恋人を悦ばせる。女の柔らかい肌を貪りながら「カイジくん、好き」と彼女が小さい声で囁くのを黙って聞いていた。どう応えればいいのか分からなかった。オレはどうだろう。この女を好きだろうか。分からない。好きならばこのままのオレでは、きっと彼女を傷つけるだけなのだ。幸運なことに、カイジの頭にはそれくらいなら思案できるだけの理性があった。「……オレも」だからはっきりと自分から好きだとは言えなかった。 「そのままでいいんだよ」 しかしそう言われるたび、脳の奥が甘く痺れていった。わずかに残っている理性の糸が震え、頼りなくなってゆく。本当にこのままでいいのか。オレはこのダメ人間のまま、この女の側にいていいのか。 「ねえ、そのままでいいよ」 ――いいんだ、オレは、このままで。 だってそうだ。そもそも彼女には金がない状態で出会っている。働いている姿など見せたこともない。カイジの開き直りにも近い態度は女にも伝わったようで、放浪し続け一週間ぶりに帰ってきた彼の無精髭だらけの頬を彼女は優しく撫でた。 開き直ってからは楽だった。今日は今日でなんとなくこなし、明日は明日で同じように過ごす。次の日も、その次の日も、なんとなく訪れるのだ。朝も昼も夜も、なにも変わらなかった。 「ねえねえ、カイジくん、ショッピング付き合ってほしいな」 その日は偶然にもカイジの手元にそれなりの金があった。家賃も生活費も払わない暮らしをしているため、一度につぎ込む額が大きいせいだ。だから彼も機嫌がよく、普段なら絶対についていかない高級商業街に向かった。 彼女はよく来るらしく、迷わず目的のメゾンに足を運んだ。カイジでも聞いたことのある有名ブランドだ。さすがに立ちすくみ、二の足を踏む。「カイジくんもおいでよぉ」店の中央で女が振り返り、微笑んだ。せめてもう少し綺麗な服を着てくるべきだったと羞恥心に耳が熱くなった。 「これどうかな、似合う?」 女はワンピースを指差し、それから自分の顔を差した。なんだかよく分からない柄物のワンピースはカイジには到底おしゃれなものには見えなかった。 「ご試着なさいますか?」 ちょうどよく店員――という呼称が正しいのかは不明だが、元の顔が分からなくなるほど濃いメイクをした女が彼女に声をかけた。 「待っててねカイジくん」 「んぁ」 試着室に細い身体が消え、カイジは見るものもないのでじっと小さいソファに腰掛けていた。さりげなく同じようなワンピースのタグをチェックする。 「なんっだこれ……布がこんなにすんのかよ」 普段彼が着ている服と価格が二桁違った。驚くのと呆れるのが同時にきて、大きく息を吐く。 しかし、いま出せない額でなかった。元は彼女の金であるということを一旦棚におけば、先日の大勝ちのためキャッシュで支払える程度の値段である。彼女にプレゼントのひとつもしたことないことを思い出し、彼は背中を丸めた。 「じゃじゃーん」 試着室の目隠しを勢いよく開け、女が飛び出してくる。なんだかよく分からない柄は蛇にもチェーンにも見え、それがしなやかな彼女の身体に絡みついているようだった。 「……似合ってる、可愛いよ」 そう呟くのが精一杯で、あとは頭のなかでぐるぐると買ってやるべきか否かについて迷いが混迷していた。 「そぉかな、似合ってる? えへへ、嬉しい」 女は似合っているという事実ではなく、彼に可愛いと言われたことを嬉しく思っている。それに気づかないカイジではない。だからこそまた悩んだ。悩んでしまった――この金をさらに膨らませれば、もっといい服が買ってやれるのではないか? 「でも着ていくところがないや、恥ずかしい」 少し赤くなり、女は首を横に降った。また可愛いと思ったがそれは言わなかった。結局購入はまたの機会にということになり、小さいハンカチだけを彼女は買って店を後にした。 「カイジくんは素直だね、そのままでいてね」 また笑う。その笑みの奥にはなにかありそうだったが、今度はカイジには分からなかった。 それから。 一ヶ月近く、まともに家に帰らなかった。雀荘で負けては競馬に行き、少々の金を手にしてはパチンコで溶かす。そして裏カジノでそこそこ金を作り、今度は競艇で半額にしてしまい、次の競輪で当ててしまう。負の連鎖とも言い切れない。多少は当ててしまう。これがギャンブルの恐ろしいところで、次こそは次こそはと希望を持たせてしまうのだ。 結局カイジは当初の軍資金と変わらない程度の金を持って女との部屋に帰った。あのワンピースを買ってやれるだけの金は残しておいた。ギリギリの精神力で。 マンションのエントランスでキーを忘れて首を捻っていると、ガラスの向こうから二人組がやってくるのが見えた。ラッキーだ、入れ違いで入ってしまおう。怪しい風体をごまかすように、正面を避けてそのふたりを待つ。 エントランスのドアが開く。 カイジは息を呑んだ。 ふにゃりと笑う女が、見知らぬ男と腕を組んでいたのだ。あの柄物のワンピースを着て。 「な、んで」 掠れた小さい声だった。自分にも聞こえないくらい。けれど女には届いたらしい。カイジと目を合わせ「あ、生きてたのぉ」と驚いた顔を作ってみせた。 「おまえ、なんで」 拙い言葉しか出てこない。男の方は困った様子でふたりを交互に見ていた。 「だって、カイジくん、わたしのこと好きじゃなかったでしょう」 「そんなこと、ない、そんな……っ」 「一度も好きって言ってもらえなかったし、ああでも、そんなことはどうでもいいんだよ」 ふにゃり。 「カイジくんが好きなのは、肯定される自分なんだよね。わたしじゃなくたっていいんだよね」 「オレは、オレ、は……」 膝から崩れ落ちる。影がふたつ、離れていった。 そのままでいいって言ったじゃないか。 ――そのままじゃ、 ダメだったじゃないか。 - - - - - - - |