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「#幼馴染」のBL小説を読む
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さらばし慕情


 誰かが大きな声を出した。文字に起こせない悲鳴だった。「ぎゃあ」とも「ひゃあ」とも、「いやあ」とも聞こえた。その後また誰かが「おい、あそこ!」と今度ははっきり叫ぶ。あそこ、と指示語があるからにはなにかを指しているに違いない。往来の人間が途端にきょろきょろし始める。オレも釣られて振り返ったら、ポケットの財布が落ちて小銭が四方八方に転がっていった。散らばったオレの小銭を、複数人が踏んでゆく。一円玉、五円玉、十円玉がどんどん汚れ、蹴っ飛ばされた百円玉は側溝に落ちた。
「やだなあ、あれ、自殺じゃねえの」
 電話をしていた若い男が迷惑そうに呟いた。そいつはオレの貴重な五百円玉を踏んでいた。
「俺ああいうの初めて見る」
「俺も」
 学生服のふたりが興味津々という様子で話す。そいつらは蹲ったオレの肩に膝をぶつけていった。
 クソ、どいつもこいつも馬鹿にしやがって。誰に対するものなのか分からないが、怒りに腹が煮えた。
 漸く目に見える範囲の小銭を全て拾い、腰を上げる。その場にいる全員が全員、餌を待つ小鳥のようにぽかんと口を開けて上を見ていた。だからそれに倣う。口は開けずに。
 人々の視線の先にあるのはオレも何度か足を運んだことがある十階建てのサラ金ビルだった。側面を這っているのは蔦なのか罅なのか分からないほどボロくて、内装も汚い古いビルだ。もちろん屋上に安全対策などされていない。すぐに乗り越えられる細い針金のフェンスがなおざりに設置されているだけ。
 そんな屋上の縁に人間がひとり立っていた。風になびく髪は長く、スカートを履いているようだ。女らしい。幽霊のようにふらふらとしている。
「そこの君、危ないからやめなさい」
 勇気のある通行人がその女に声をかける。誰か警察とか呼ばねえのかよ、と思いつつ、オレも黙って上を見るばかりだ。
「なにがあったか知らないけど、まだ若いんだからなんとかなるよ」
「生きていればいいことがあるんだから」
「神様は見てるよ」
「死ぬのはもったいないですって」
 やがて大勢が口々に無責任なことを言い始める。
 本当に止めたいならいますぐあの屋上に飛んでいけばいいのだ。誰もそれをしない。怖いからだ。あのビル自体が、屋上が、死を覚悟した人間が。
 女の顔は分からない。それでもなんとなく、笑った気がした。幸せな笑いではない。諦めたような、しらけたような笑みだ。
 首が痛くなってきたので正面を向く。ついでに周囲を見回した。誰もオレなんか見ていない。赤子を抱いた主婦らしき女、腕を組んだカップル、腹の出たサラリーマン、有名校の制服を着た学生――幸福な連中が、女に説教しようとしている。
 気に食わないが、あのビルに入ったことのある人間はオレだけのようだ。オレがこのなかで最も情けなく、最もどん底に近い人間だった。
 不注意な人々の間をすり抜けるようにしてビルに向かう。認めたくないが慣れたものだ。訪れるのは数ヶ月ぶりだが、エントランスにもエレベーターにもしっかり見覚えがある。トゴで借りた十五万を返し終わってから近づかないようにしていたが、まあ仕方ない。
 屋上に行くのは初めてだった。金を返せなくなった債務者を突き落として保険金をせしめるという話を聞いたことがあるが、幸いにもオレは良き債務者だったのだ。とはいえ、あのとき菊花賞で当てていなければオレだって屋上の人間になっていたかもしれないが。
 最上階から階段を登って、ドアの前に立つ。鎖と南京錠で締め切られていたのを、あの女がハンマーや色々な工具で工夫して壊した跡があった。重い鉄の扉を開けると、一際強い風に前髪が暴れた。
「おい」
 ぺらぺらのダウンじゃ寒さは凌げない。自分を抱きしめるようにして女に近づく。
「おいって」
 返事がなかったのでまた声をかける。思ったよりも不機嫌そうな声になった。
「……なあにぃ」
 女もまた不機嫌そうに返事をした。そりゃそうだろう。いまから死ぬってのに、下からも後ろからも外野がうるさいのは迷惑に違いない。
 フェンスに指をひっかける。がしゃん、と金属音。
「だから、なにぃ?」
 振り向いた女は心底嫌そうにオレをじろりと見た。「止めにきたのぉ?」間延びした声は、子どものようだった。ちろりと見えた舌は青く、ふらふらして見えた理由もすぐ理解できた。
「借金か?」
「違うよぅ」
「じゃあ病気か」
「うーん、たぶん違うかなぁ」
「たぶんってなんだよ」
「……ふられちゃったんだよぉ」
 女がしゃがみこむ。さっきのオレみたいに項垂れて。
「奥さんと別れるって言ったのに、あたしと暮らすって言ったのに、クリスマスは家族と過ごすってぇ」
 ありふれた不倫の話だった。女は泣いているようにも思えた。「あたしなんか死んじゃえばいいんだよぉ……生きてたっていいことないんだしぃ」泣いていてくれ、とさえ思った。あの想像上のしらけた笑いより、涙の方がずっとこの場に相応しい。
「ていうか、あんた誰ぇ?」
 気を抜いた瞬間の予想外の問いかけに「あ、オレ伊藤開司」と愚鈍な自己紹介をする。案の定女は興味なさそうな「ふぅん」という返事を寄越すだけだった。
 オレはどうしたいんだろう。わざわざここにきて。説得するならもう少しまともに話すべきだし、いまにも落っこちそうな女を力ずくで縁から引き剥がすべきでもある。困ってしまって、もう一度フェンスをがしゃんと鳴らす。女は蹲ったまま、こちらを見た。
「オレさぁ、いい話し相手になるぜ」
「……ふぅん」
「オレの情けねえ話聞く?」
「……うん?」
「借金があるのはオレ。病気なのもオレ。金がなくて腐った弁当食ったら腹壊した」
 下にいる幸福な連中はきっと経験したことがないであろうひどい話を並べる。女が涙の滲んだような目を少し細めた。
「あとそろそろガスが止まるし、税金も滞納してんだ」
「カイジくん……だっけ、それってヤバくない?」
「ヤベェよ。オレ、すっげーヤベェんだ。でも生きてんだぜ」
 がしゃん、これは女がフェンスにもたれる音。
「あはは、あたしなら死んじゃうなぁ」
 今度は乾いた笑顔ではなかった。
「なんで生きてるの?」
「たまに、いいことがあるから、かな」
「どういう?」
「確変入ったりロイヤルフラッシュ出たり――ああでも、九蓮宝燈出したときはオレ死ぬかもと思ったっけな」
「ねえそれ全部博奕じゃん」
 地上の喧騒はまるで聞こえない。オレたちだけの会話は情けなくて、でも楽しかった。
「こんな馬鹿でも生きてるんだねぇ」
 オレがフェンスに引っ掛けた指に女の指が重なる。死体のように冷たかった。「あたしたぶんもうすぐ気絶しちゃうから、カイジくんが抱いてここから降りさせてね」青い舌。「カイジくんに免じて生きてあげるからさぁ」こんなに見窄らしい生き方が初めて人の役に立った。オレは安堵するやらなんやらでへへ、と力なく笑った。女も笑った。地上がどうなっているかはもはやどうでもよかった。

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