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君のため


「伊藤開司くん」
 背後から聞き覚えのない掠れ声に呼び止められた。伊藤、だけならまだ無視できる。カイジとまで呼ばれてしまえば確実にオレのことだ。
 恐る恐る振り返る。高そうな黒いスーツを着たガタイのいい男がふたり、夕陽を背にオレに笑いかけていた。ふたりのうち、背の高い方がもう一度「伊藤開司くん」とオレの名を呼んだ。笑ってはいるが、爽やかな笑顔ではない。グラスゴースマイルのような不自然なカーブを描く唇に、死んだ魚のような瞳。
 人違いです、と答えられるような状況ではない。とりあえず「はあ」と間の抜けた返答をした。男がゆっくりと近づいてきて、オレは釣られて後退りする。
「なにも取って食おうってんじゃない。ちょっと話をさせてほしいんだよ」
 男は顎ですぐ近くの喫茶店を指した。最近では珍しい純喫茶風の店だ。繁華街ということもあって客は多い。もしオレが殴られても証言してくれる人間は多いだろう。瞬時にそう考えて「はあ」とまた頭の悪そうな返事をした。
 片方の男にリードされて店に入る。「三人で」「こちらへ」通されたのは店のど真ん中の席。左右は若いカップル、安っぽいシャンデリアがオレたちを白く照らしていた。どうやらいまここでオレをどうにかしようという魂胆ではないらしい。
「……どっかで会いました、っけ?」
 男ふたりはオレの問いかけをシカトしてそれぞれコーヒーと炭酸水をオーダーした。「奢るよ。なんでも頼みな」「じゃあサイダーで……」しまった、どうせならいちばん高いドリンクメニューにすればよかった。数百円といえども。
 オレの名前を呼んだ方はスーツと同じく高そうな葉巻を取り出し、火を点けた。すぐ独特のにおいが辺りを包む。もう片方は喫茶店に連れ込んだ時点で仕事が終了したのか携帯をいじり始めた。
「で、伊藤開司くん」
「はあ」
「カイジくん――この女に見覚えはあるかい?」
 携帯の液晶画面を提示される。女。発光するような白い肌に大きな目、小さい唇に細い首、媚びるみたいな笑顔。見覚えがあるもなにも、
「オレの――」
「なんだ? 恋人か? 恋人ってのは、家賃ナシで大きな部屋に同棲させてくれて、かつ生活費やギャンブルに使う金、全部出してくれる神様みたいな存在だっけ?」
 心臓が跳ね上がる。そうやってきちんと整理されると、オレは彼女の恋人とはいえないようだった。お互いに好き合っている気持ちは、たぶんある。キスはするし、セックスもする。ただ、その関係を言葉にしたことはない。なんとなくオレがあいつの部屋に居座って、金を出してもらって、毎日飯を食わせてもらっていて――なにもかもを、委ねている。神様といえばそうなのかもしれない。
 ほう、と男は大きく息を吐いた。
「二千万」
「は?」
「いや、三千万かな。オレがこいつに"貢いだ"金額だよ」
「なんの話を……」
「君がこいつと暮らし始めてから、オレが出した額。つまりカイジくんはオレの金でのうのうと暮らしてきたわけ」
「……ッそれは、店で……!」
 女は高級ラウンジで男に夢を与える職に就いている。小さい身体で金を稼ぐ、華やかな夜の蝶だ。そうか、この男はいわゆる太客――彼女に大枚を叩いて甘い夢をみている、ひとりの男。
「いやだなあ、オレだって店で飲み食いした分には文句言わないよ。それとは別。裏引きって分かるかな? オレは直接この女に金を渡して恋人みたいなことやってたの」
 いやあ、騙されたなあと男は大きな声で笑った。周囲の客が一斉にこちらを見て、それからすぐにまた各々の会話に戻る。
「親が病気で大変だとか大学に行きたいから金を貯めてるとか、たくさん聞いたっけ。泣きそうな顔で金に困ってるっていうから援助してあげてたんだよ。好きな女が困ってたら助けるのが男だろ?」
 スロットで数万負けたばかりのオレはなにも言えなかった。そもそもあの女がオレに困った様子を見せたことがないのだ。いつもふわふわとしていてなにをしても怒らない。ただオレがいるだけで幸せだという顔をしている。考えてみれば妙な話だった。
「だからさ、本当の意味でカイジくんの神様はオレなんだよ」
 二本目の葉巻。いつの間にか外は暗くなりかけている。
 それから男は女との思い出をいくつか語ってくれた。オレへの嫌味のつもりなのかベッドの上ではどうだったとかこうだったとかそんな話が多かった。オレは適当に相槌を打って、この流れでどんな風に着地するのかを必死にシミュレーションしていた。やっぱり殴られるのだろうか。あの女と別れてマンションを出て行けと言われるのは確実だろう。頭の中がぐるぐるする。殴られるのは別に怖くない。明日からの生活に困る方が恐ろしかった。
「プロポーズしたんだよね、先週」
 三本目の葉巻。
「そしたらあいつ、すごい顔してさあ。親がどうとか大学がどうとか、返事は待ってほしいとか――とにかく、そのときやっと愚かなオレは気づいた。ああ、ただの色恋営業に引っかかって莫迦みたいに金使っちまったんだって。そしたらあんなに愛おしかったあいつが急に憎くて憎くて仕方なくなってさあ」
 だんだん語気が強くなる。相変わらず笑った顔を作っているが、その実、内面はまったく穏やかではなかった。そして男は呟く。「殺してやるって、思ったよ」賑やかな店内に、その言葉は静かに沈んでいった。誰も気に留めない、でもオレには確かに聴こえる、むしろオレにだけ聴かせるような調子だった。
「絶対殺してやるって。金が惜しいんじゃない、純粋なオレの気持ちを弄んだのが許せたかったんだ――分かるだろ?」
 どくどくと脈拍がうるさくなる。男の声はいやに優しかった。
「ただこう見えてオレは会社をいくつか経営していて、そういうことをするのはちょっとまずいんだ。オレが捕まったら社員やその家族が路頭に迷うからね」
「――お前は、なに、を」
「だからさ、オレの代わりにあいつを殺してくれないかな」
 シャンデリアがまっすぐ落ちてきたような衝撃を感じた。頭のてっぺんから爪先まで電流が走ったように痺れ、なにも考えられなくなる。殺す? 誰が? 誰を? オレが、あいつを?
「いい弁護士はつけてやる。心神耗弱を狙えば数年で出てこられるし、上手くやれば不起訴になるかもしれない。とにかく、あいつを殺してほしいんだよ」
 どさ、とテーブルに分厚い茶封筒が置かれた。明らかに見慣れない札束だった。「手付金と、オレの名刺が入ってる。一晩考えてまた連絡くれ」男は懐からサングラスを取り出し、死んだ目を隠すようにゆっくりかける。ずっと黙っていたもうひとりが伝票を掴み、ふたりは何事もなかったかのように去っていった。物騒な話をしていたというのに、店内は変わらず賑やかで活気があった。
 帰り道、茶封筒を捨ててしまおうかとさえ思った。だがあの男は前触れもなくいつものオレの行動範囲に現れ、すべてを明らかにしていった。ここで中途半端に逃げるともっと恐ろしいのかもしれない。ヤクザが出てきたらと思うと――考えたくもなかった。
「あ〜、カイジくん、おかえりぃ。なにしてたの」
 マンションでは女がオレの帰りを待っていた。「今日はお仕事ないから一緒にご飯食べよぉ」と抱きつき、仔猫みたいに胸元に擦り寄ってくる。
「んん? カイジくんどこ行ってたの?」
「……雀荘」
「お金持ちの人が来てたんだねぇ、高い葉巻の匂いがするよ〜」
 くんくんとシャツを嗅いで、女は変な顔をした。一瞬どきりとする。あの男の匂いだ。あの葉巻。言い訳ができなくてしどろもどろに「腹減ってねえから、オレは晩飯要らない」とだけ応えた。尻ポケットの茶封筒を悟られないよう、壁を背にして不自然に与えられた部屋に向かう。「くさいよぉ、シャワー浴びようよぉ」「はいはい、分かった分かった」罪悪感やらなんやらで複雑な気持ちになった。
 女はとにかくオレに甘えた。子どもでもないのに髪や身体を洗わせ、いろんな話をした。今日はオレがいないあいだ友達とアフタヌーンティーに興じたそうだ。その金もあの男から出ているのかと思うとまた複雑な気持ちになる。
「カイジくんあったかくてきもちー」
 そりゃ湯船に浸かっているからだろう。小さい身体が胸にもたれかかり、鼻先が鎖骨の辺りを擽った。「いーにおいになった」それも身体を洗ったからだ。生温い湯を波立たせ、女の身体の線をなぞる。柔らかくて、頼りない。皮膚は薄いし、骨も細そうだ。どんな血が流れているのだろう。
――殺してほしいんだよ。
 男の掠れ声が勝手に蘇ってきて、どくんとまた心臓が大きく跳ねた。
「なあに?」
「なん、でも」
 なんでもない、ことは、ない。ありえない。
「出ようぜ、あんまり浸かってるとふやける」
 ごまかすみたいに阿呆なことを言う。女はけらけら笑った。「顔色が悪いよ、疲れてる?」「かもしれねぇ」「じゃあすぐ寝ないと、カイジくんは寝不足だよぅ」そんなことを言いながらオレに髪を乾かさせ、部屋着も着させる。この戯れは恋人同士のものだろうか。それとも、ペットや使用人に対する態度と同じか。女の白痴のような表情や声音からはなにも読み取れなかった。「お姫様抱っこして」と言われたのでその通りにする。同じシャンプーを使っているのに、彼女からはまた別の甘ったるい香りがした。
 ベッドに放り投げるように寝かせたらきゃあきゃあとはしゃいでオレの腕を引っ張った。バランスを崩し、押し倒すような体勢になる。鼻先が触れ合うくらい近づき、一度軽いキスをした。やはりこの女があの男から何千万も巻き上げたとはまるで思えなかった。計算などできない、本当に幼い女なのだ。少なくともオレにはそうにしか見えない。
――殺してほしいんだよ。
 殺す理由がない。オレには、ない。いくら"神様"が言うことだって、聞けることと聞けないことがある。
 指先、腕、肩、頸筋に両手の指を這わせる。女はくすぐったそうに身を捩った。細長い首に行きつき、花束を掴むみたいに手のひらを広げ、力を込める。ふだんは目立たない喉仏を合谷にリアルに感じた。
「……苦しいか?」
「ううん、苦しくないよ」
 ぐっと力を入れる。けほ、と女は咳き込んだ。
「ちょっと、苦し、い」
 親指に力を入れたら呼吸が制限される。プロレスラーが喉を突かれて失神するやつ、あれと同じ仕組みだ。
「もしオレがこうやってお前を殺そうとしたら――どうする」
 殺さない、だって理由がない。
「もしオレがお前を殺す気だったら――」
 殺さない、だって、
「……いいよぉ、カイジくんになら、殺されても」
 糸より細い声で女は答える。信じられないくらい穏やかな声音だった。
「だってカイジくんのこと好きだから、なにされてもいいんだよ。いまが幸せだから、この瞬間カイジくんに殺されても、なんでもないんだぁ」
 オレは殺さない、だって、
「ッ、オレも……オレも、オレだって、好きだよ……! オレの方が、好きなんだ……! 好きなのに、オレは……ッ!」
 唐突に涙が溢れ出す。そうだ、ずっとずっとずっと大好きなんだ。好きだから側にいるし、殺さない。神様より大事で、いまのオレにとってはいちばん大切な存在で、それはただ金だけじゃなく精神的に、こいつがいないとオレは成り立たないという話だった。
「ごめん、ごめん……! 誰よりも好きなのに、オレは、なんで……!」
「……あはは、よく分かんないよぉ、泣かないでよぉ」
 情けなくぼろぼろ泣き続け、なにも見えなくなる。
「はじめてカイジくんが好きって言ってくれたぁ」
 こんなことにならないと、オレは好きな女に愛の言葉ひとつも囁けないのか。柔らかい身体が砕けるくらい強く抱きしめ、ひきつけを起こしそうなくらい泣く。女は戸惑いながらもそっと頭を撫でてくれた。
 オレはこの女を殺さない。好きだから、愛しているから、現在の神様よりも大きな存在だから、たとえオレの身になにがあっても、なにをされても。
 一度本気で女の首を絞めた手のひらが悔悟にじくじくと熱く痛む。「泣かないで、大好きだよ、カイジくん」二度目のキスは塩辛かった。

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