「ええ? アンタ知らなかったのぉ?」 猫娘に童顔の名刺を見せたら嗤われた。 どうも、彼を突然現れた得体の知れない人間だと思っていたのは自分だけだったようだ。 「そのアオキとかいう男、ずっと前から来てたよ。名刺は貰ってないけど名前は聞いた。字が読めるの、アンタと座長くらいだろ」 ふう、っと煙を吐き出す。 彼女は蛇がここを去ってから煙草を覚えた。兎唇が白い煙を吐く様は、目眩がするくらい異質だ。火鉢に灰を落としてもう一度咥える。 「赤眼だけ聴いたら帰るからさ、座長が煙たがってる。気分悪いだろ、あれ。帰るとこ観えるし」 僕にとって有益だと判断したので猫娘の話を聞くことにした。火鉢を挟んで正面に座る。猫らしく尖った長い爪の手入れをしながら彼女は話を続ける。「下の名前は初めて知ったさ。なんて読むんだい」「ぶんぞう」「ふうん、渋いね。見た目も悪くないし」 青木文蔵。警察に知り合いなんていないから、間違ってもあの童顔と接点はひとつもない。それなのに、なんともいえない不快感が胸を支配していた。むかむかとする。初対面なのに、だ。脂っこいものを食べ過ぎたときと似ていた。 二本目の煙草を吸い終わり、猫娘は黙って僕に三本目を催促する。胸ポケットから座長の半纏から盗んだ洋モクを取り出して投げた。 「明日も来るって」 「だろうね。ずっと来てるっていったじゃないか。ああもう、燐寸をおくれよ、湿気て点きやしない」 同じように盗んだ燐寸を箱ごと投げる。 今夜も名前さんは死体のように眠っている。夕飯も食べず、こんこんと寝続けている。出番が終わるや否や倒れこむから、そろそろ病院に連れて行った方がいいのかもしれない。名前さんは“持病持ち”どころではないから身体には気をつけなければいけないのに、本人が病院嫌いだから始末におえない。あの肌の白さははっきりと病気で、赤い目もそのためであるのは一目瞭然だ。それでも、なんという病気であるのか僕はいまだに知らない。 「気づいてなかったのはアンタとくっつきくらいだよ」 「……情けない」 「ああ、ホントにね。役立たず」 「でも、なんで教えてくれなかったんです。黙ってるなんて」 「なんで益田に教える必要があるのさ。おかしな奴はあれだけじゃないだろ。自分が気付かなかったからってムキにならないでおくれよ」 「ど、」 道理だ。 黙っていた方がいいに違いない。大人しく口を噤んだら猫娘はまたふん、と鼻を鳴らした。 「あれはちょっと頭のおかしい人なんじゃないか。ああいうのがいきなり出刃包丁振り回すんだよ」 「け、」 警察なのにと反駁しかけて口を閉じる。余計なことはいわない方がいい。 座長を初め、殆どの奴らは公僕が嫌いだった。テントを張った途端に撤去を命じられたとか、なにもしていないのに引っ張られたとか恨みつらみを長年聞いてきた。駄目だ、矢張り黙っておこう。座長がそれを知ると、次にあの童顔を見るや出刃包丁を振り回しそうだ。 「名前も気がついてる筈だけど、あれはまだなにもいわないね。気持ち悪いも嬉しいもいわない。ま、そもそもあの子は客に対して何もいわないんだけどさ」 ということは童顔はまだ直接名前さんに接触を図ってはいないようだ。 腕を組む。 なんとなく、名前さんは真っ先に僕に相談してきそうだという気がしていた。どうしよう、変な人が来ちゃった、とかいって。 「で?」 ふう、と煙。「アンタはなにを、どうしたいの」急な角度からの質問だったので目を剥いてしまった。猫娘はおなじ質問をもう一度する。 なにを、どうしたい。 僕は現時点でなにも考えていなかった。青木文蔵という童顔の刑事が名前さんの唄を毎日聴きに来ていて、しかもほぼ毎回泣いている。この事実の把握はしておきたかったが、それはなんのためでもなく単純に好奇心を満たすためのものだった、多分。 「ううん、とにかく要注意人物だということで」 「なんだ、それだけかい。てっきりぶん殴りに行くのかと思った」 「ぼ、僕が? なんでまた」 殴るとしたらそれは座長の所業だろう。 「だって赤眼に惚れてるだろうアンタ、俺の女に手を出すなとかいえないの」 「やめて下さい、そんなんじゃないです」 「ホントに?」 言葉とは反対に、猫娘はまるで興味がなさそうだった。爪を研ぐことに集中しているので僕のことなど殆ど気にかけていないのだろう。それはむしろありがたいと思った。 「明日もう一度話してみます」 「そうだね、どんな人なのか知りたいし。ああ、明日は晴れるよ」 猫はなぜだか明日の天気をよく当てる。 丁度良く土砂降りにでもなってくれたらいいのにね。 彼女はそう呟く。 なにが丁度良いのか分からないが、特にいうこともなかったので立ち上がってテントを出た。 - - - - - - - |