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赤い花 空の青



 欠伸と伸びをしながら布団から抜け出した。「おはよう、双子」
「おはよう」「おはよう」「益田はお寝坊さんだね」「うるさいな、皆が早いだけだよ」「もう始まってるのに」「えっ、嘘だ」「本当だよ」「本当だよ」「今は」「赤眼が唄ってる」相変わらずの双子は、大慌てで服を脱ぎながら髪を整え今日身に着けるべき衣裳を探す僕を見てけらけら笑う。演者でないといっても人前に出はする。大体、集金や客引きをすることが多い。本当に困ったときは舞台に立たされるらしいが幸いまだ本当に困ったことはないようだ。
「ねえ見て」
 どれほどの客がいるか把握しておこうとこっそりテントに忍び込むと、隣についていた双子がひそひそ声で話しかけてきた。
「あの、前の方にいるお客さん」
「お客さん指差しちゃ駄目だよ」
「いいんだよ見えないんだから」
 ふたりは小声で言い争いをする。根負けした片割れは右前方にいる男性客を顎で指した。「あの人」おかしな客でもいるのかと思ったら、そこには年齢がよくわからない真面目そうな男が座っているだけだった。あれがどうしたと双子に話しかけるのと同時に名前さんが二曲目を唄い終わった。舞台の袖で、座長が煙管に火を点けたのが見える。
「あの人」「変だよ」「うん、おかしい」「だって昨日も一昨日もいた」そんなことか。熱心な客は多くはないが、全くいないわけではない。奇妙な見世物に取り憑かれてしまうのだ。非日常を求める人間たちだろう。「違う」「違うよ」「あの人、赤眼しか見ないんだ」「赤眼のお唄を聴いたら帰っちゃう」「それにね」「そう、それに」「あの人」「泣くんだよ」「いつも」「同じ唄なのに」「泣くんだよ」「益田」「……何」「怒ってる?」
 確かに男は泣いているようだった。しきりに鼻を擦っていたのはそういう理由からか。
「怒ってないけど、これ以上騒ぐと怒るよ」
 このテントは入る度に狭いのか広いのかよく分からなくなる。多分、広いのだと思う。その広いテントのなかに客はそこそこいるようだった。うちの客には男が多い。演者に女が多いからだ。しかし刳い見世物に案外平気な顔をしてみせるのは女客の方だ。剣を飲み込む正統派の演物を観て気絶した男がいたことを思い出した。
 薄い空気にやられたのか頭が痛くなってきた。中腰のまま背を丸めてテントから出る。結局、名前さんの顔を見ただけになってしまったがそれも悪くない。
 四日前のあれ以来、一度も身体を重ねることはなかった。大して気まずくなることもなく、いつも通りの僕たちとその他座員だ。変わったことといえば、蛇が本当にいなくなったことと、そのせいで名前さんが酷く落ち込んでいるということくらい。目に見えて元気をなくし体調を崩しているが決して舞台は休むことはない。看板娘だから、周囲もそれを喜んでいる。
 何に使うのか知らない、散らばった木材をなんとなく片付ける。勝手なことをすると怒られそうだが、寝坊してなにをするでもなく手持ち無沙汰という最悪の状況にいるのでもうなにも怖いものはない。
 遮音性が強いテントから名前さんの唄声はまともに聴こえない。そろそろ三曲目も終わる頃だ。そうしたら大と小が出てきて、それから双子が出る。これだけの人数がいればもう客引きはしなくて良いだろうし、寝ていればよかった。なんにせよ、名前さんが袖に引っ込むまではできることもすることも、したいこともない。
 僅かに拍手が聴こえた。この様子ではテントのなかでは大喝采。どうやら彼女の演技はつつがなく終わったようだ。
「はあ、暑かった」
 大きく息を吐きながら、テントから客が出てきた。煙草でも吸いに出てきたか。木材を抱えたまま「毎度有難う御座います」と深々とお辞儀をした。
「あ、いや、はは、参ったな」
 本当に「参った」といった風な声音に思わず顔を上げる。
 まずい、と口元を右手で覆った先ほどの真面目そうな男が居心地悪そうに立っていた。ちくりと頬に痛みが走る。男は童顔で、杳として年齢が知れない。学生にしてはきちんとした格好をしている。二十代も半ばといったところだろうか。同世代だ。
 参ったといったのは途中で抜けたのと、しかも泣いているのを座員に見られたからだろう。
「おやお客様、泣いていらっしゃるので」
 勝手に意地悪な台詞が口を衝いて出る。まずい、自分が不機嫌な顔をしているのが分かる。必死で眼と口を笑顔に持っていくが、不気味な表情になっていそうだ。
「ご気分でも……」
「や、違うんです、さっきの名前さんの唄を聴いていたら、つい」
 ちくり。
 童顔は赤眼と呼ばずわざわざ名前さんと呼んだ。こいつ、気に入らない。「それはそれは、お有難う御座います」どんどん不機嫌になるのを悟られまいと再び深々とお辞儀をした。顔を上げたくない。「ああっ、せ、背筋を傷めてしまいました! 申し訳御座いません、このままの姿勢でお話しすることをお許し下さい」頓狂な声を上げたら童顔は周章狼狽して「大丈夫ですか」と五回ほど喚いた。ばさりと伸びた前髪が視界を狭める。
「ええと、そ、そうだ、名前さんにお伝え下さい、感動していた客がいたと」
「ええ、ええ、伝えます。お客様はお帰りですか?」
「そ、そうですね、ちょっと仕事を抜けだしてきたもので」
 妙に誤魔化さなくても、その態度で名前さんだけ観に来たことは丸分かりだ。この童顔、頭が悪い。
「それは残念です。お土産に蛇の抜け殻などどうです? 蛇遣いの娘が抜けましてね、もうそろそろ数も少ないのですが、記念にどうでしょう」
「いや、お、お構いなく、明日も来ますから」
「明日はお仕事はお休みですか? それなら明日は是非くっつきや猫娘もご覧下さい。赤眼にばかり御執心のようですと、他の座員が嫉妬します」
「そんなことは」
「存外、舞台からお客様たちのことはよく観えるのですよ」
 舌を出す。お前なんて気になるはずがないじゃないか。気にして欲しければもっと声を上げて派手に泣くがいい。
「そうだ、あの、僕の名刺をお渡しします。なにかあればご連絡下さい」
 ごそごそと童顔は上着から名刺を取り出した。
「はい、どうも、有難う御座います。私は名刺を持っておりませんのでお渡しできませんが、益田と申します」
「益田さんですね、はい、よろしくお願いします」
 童顔の名前を読みもせず服にしまう。そろそろ丁寧な言葉遣いも疲れてきたので終わりにしたい。「それではお気をつけてお帰り下さい」お辞儀をしたまま道を開けた。「はい、それでは」爽やかな声が頭上から聴こえ、足音が徐々に遠ざかっていく。
 うーん、と伸びをした。首と肩を鳴らしながらずっと抱いていた木材をあるべき場所に戻す。
 あれはきっと莫迦だ。話すときに「ええと」「あの」「いや」等の一言をかなり入れていた。整理して話せない人間は莫迦だ。蛇の抜け殻を本当に売りつけてやればよかった。悔しい。
 テントに戻ろうと歩き出すと、はらりと名刺が落ちてきた。下ろす足の下に上手く落下したので強かに踏みつけてしまう。おっといけない、とひとりごちながら名刺を拾った。土の跡が大きくついてしまった。軽く指で払いながら、なんとなく名刺の文字を読む。
『東京警視庁捜査一課 青木文蔵』
「……は?」
 絶対に僕らの世界と相容れない人間が、突如として現れた。


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