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赤い花 空の青



 映画はさほど面白いものではなく、僕たちは当り障りのない会話をしながら歩いて帰った。あの俳優は何年経っても演技が巧くならないだとか、前の作品の方が楽しめただとか、そういう全く普通の話だ。風がまた少し強くなっていて、ひゅうと音がする度に名前さんはよろけるのだった。いっそ背負って帰ろうかと思ったが本人が歩くというので黙って、たまに肩を支える。
 赤テントが見えると名前さんは小走りで中に駆け込んでいった。だから僕もつられて駆け出す。追い抜かさないように六割の力で。
「あら、早かったね」
 薪割りをしていた猫娘が振り返り、裂けた唇でニィと笑った。きっと雪を踏む音で僕たちが帰ったのに気づいたのだ。
「猫娘」は座長がつけた名前だ。この裂けた唇は兎唇というらしいが、黒目がちなつり目と相俟ってとても猫染みているのでそう名付けたという。猫娘にも本当の名はあるが誰も知らない。同じように双子も「くっつき」などと口さがない呼び方をされているがそれぞれが親につけてもらった名前を持っているはずだ。やたらと身体の大きい怪力の男は「大」、五歳児のように小さな青年は「小」と何のひねりもない名前もある。
 同じように名前さんは「赤眼」と呼ばれる。普段は鉢巻で目隠ししているのだから、客はきっと彼女が「赤眼」と呼ばれているという情報だけで彼女の眼は赤いのであると認識しているのだろう。初めはそれでも目隠しはしていなかったようだが、最近では殆ど外さない。情報量が多いときちんと唄えない、と名前さんはいっていた。
 恐らくは僕もなんらかの呼び名を賜っているはずだが舞台に立たない裏方の人間なのでちっとも浸透していない。僕は紛れもなく益田龍一だ。
 おかえりといってくれた猫娘に向かって名前さんはゆっくりお辞儀をした――ように見えたが、そのまま倒れこみ、咄嗟に支えることができなかった猫娘も同じように膝から崩れ落ちた。「ちょっと、アンタ……ああ、なんてこったい、すごい熱じゃあないか。寒いのに歩きまわるからだよ」そして僕をちらりと非難がましい眼で見る。異常に気付かなかったものだから気まずくなって視線を逸らした。
「はしゃぐからだよ、本当に自分の身体のことをわかってないねえ……。ほら、そこの。この子連れてって、寝かせてあげて頂戴。奥のテントなら双子が遊んでたけどもう空いてる筈だよ。ストーブ代わりに電熱器を置いてるから、火事にならないように気をつけな。なんだい、おかしな顔して」
 顎と視線だけのお辞儀をして名前さんを抱きかかえた。確かに身体が熱い。
 雑に掃かれた雪を避けながら少しだけ走った。丁度双子が裸足でテントから出ていこうとしていたので入れ違いに滑りこむ。ふたりはふたりで二本しかない腕を使って器用に四足の草履を履きつつよろけつつしながら離れていった。「赤眼どうしたんだろうね」「どうしたんだろうね」「たぶん風邪を引いたんだよ」「そうだよたぶん」と仲良く話している。お互いに語尾を被せるように話すから残響しているみたいに聴こえて面白い。
 布団は継ぎ接ぎだらけでとても病人に似つかわしいものではなかったが我儘はできない。そっと名前さんを寝かせて悪趣味な蝶々柄の毛布と、そしてないよりましだと僕が着ていた二重回しを掛けた。これだって以前いた書生の置き土産らしいから良いものではないのに。
「御免ね、折角お喋り出来て楽しかったのに」
 赤い眼が更に赤く潤んでいた。氷のように白い頬に触れると驚くほど熱く、なぜこの異変に気づくことができなかったのか自分で驚く。
 名前さんは視えないのに映画がすきで、その趣味に付き合ってくれるのが僕を随分信頼してくれている。視えないといってもぼんやりモノが動いている様や曖昧ながら色味は判別できるようだからあとは聴こえる台詞や物音で十分楽しめているらしい。
「僕はいいんです。それより、何か食べますか?」
「ううん……平気。お水が欲しいな」
 裏にある井戸から水を汲んで戻って来ると名前さんは眠りについていた。そっと傍に座って罅が入ったコップを枕元に置く。額に手を置いてどれ程熱があるのか測ってみた。正確な数値はわからないが、かなりの大熱らしいことは理解できた。なんとなく、ああ確かにこの女は生きているのだなと感じる。冷たい、雪女のような見た目なのに、こんなに身体は熱くなるのだ。伏せられた睫毛は雪が乗っているかのように白い。瞼に蓋をされた赤い眼球は見えないから、いまの彼女は本当に真っ白だ。
――龍一くん、私と何処かに逃げよう。
 ふと脳内であの言葉が反芻された。一瞬、起きた名前さんがもう一度いったのかと思ってどきりとした。
――何処かに、
 何処かに、って、何処に行くつもりなのだろう。
 僕たちはこの赤テントのなかで起きて、商売をして、食事をして、そして寝る。その繰り返しだ。たまに喧嘩して、体調を崩して、それから泣いたり笑ったりする。二年間、その繰り返しだ。猫娘も双子も僕より長く此処にいるから僕の何倍もこの経験を繰り返している。名前さんだって同じだ。食事が気に入らないときは外に食べにいく。映画を観に行く。本を買いに行く。外で行われることはイレギュラーなことで、だからみんな大袈裟に楽しもうとする。結局僕たちは外にいても赤テントのことを意識せざるを得ないのだった。
 家長は座長ではない。赤テント自体だった。
――逃げよう。
 逃げる場所などない。
 人間らしい社会生活が厭で、逃げてきて、やっと見つけた居場所が此処なのだから。
――龍一くん、
 ほう、と名前さんは苦しそうに大きく息をひとつ吐いた。

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