「ねえ、巽さん」 彼女の膝で微睡んでいると、柔らかな声で起こされた。優しい指が僕の髪を撫ぜる。 「わたし、死にたいな」 それが恰も今日の天候に就いて述べるかのような簡単な言葉であったので「そうかい」と簡単に返事をした。彼女が述べた中身を理解したのは返事をしてからだ。 慌てて身体を起こす。 「き、君、いま、今なんて言った」 肩を掴んで強く揺さぶった。彼女は目を丸くして「そんなに驚かなくても」と。 心拍数が跳ね上がる。死にたい、と彼女は僕に言った。僕に、言った。 以前少しだけ考えたことがある。彼女の温もりに溺れながら、この体温と死ねたらどんなにいいことかと。その時は忌まわしい考えだと思い、それを捨ててしまった。だって彼女は遊女で(それをいうと、そんな高尚な職業ではないと笑われた)、僕は妻ある身の物書きだ。世間的にも道徳的にも、許されるものじゃない。何より、彼女が死を望んでいない──と。 「死のう、一緒に死のうよ。僕も死にたい。君と死にたい」 「駄目よ。雪絵さんはどうなるの」 「そんなの、関係ないだろ。死のうよ、死にたいんだ」 火が点いたように喚きだした僕を優しく抱き、彼女は子供にそうするように背中をさすった。華奢な肩に顎を載せて「死にたいよ」と呻く。もう現世は嫌だ。逃げたいんだ。 「巽さん。わたし、海がいい」 「……うん」 「いつか行った、あの海がいい。舟を浮かべてね。わたしは白無垢。手と手を取り合って、目を瞑るの」 「うん」 「巽さん、あの世でなら一緒になれますか」 「……うん、勿論」 彼女は、泣いているようだった。 「京極堂、邪魔するよ」 「ああ」 低い声に、顔を上げずに答える。僕を呼んだのは関口君だ。それくらいは簡単に分かる。 「───、するんだ」 帽子を目深に被った文士は、何かを呟いた。 聞き取れなかったので、本を閉じて彼の方を向く。もう一度言うように促せば、逡巡するかのように帽子を更に深く被り、端的に言った。 「長い間留守にするんだ」 決心をしたような素振りだったので期待したが、なんてことはない。留守を頼むというだけのことじゃないか。 「雪絵さんと旅行か。いいね、羨ましいよ」 「いや、仕事さ」 「珍しいね。何処に行くんだい」 「西の方だよ」 「いつ頃帰る?」 「……盆の十三日には帰るよ」 「盆って──嫌なやつだな、君は」 縁起でもない。鹿爪らしい顔をしてみせれば、彼は微かに笑ったようだった。 茶でも淹れようかと問うたが、要らないと言われた。それを伝えたかっただけらしい。 「悪いね。大したもてなしも出来ずに」 「いいよ。じゃあ、さよなら」 猫背気味の背中が遠のいていく。 なにか、厭な感じがした。 「関口君。盆にはまだまだ遠いぜ」 返事は、無かった。 - - - - - - |