いつの間にか十月になっていた。 目を刺す陽射しに、眉を顰める。じりじりと眼球を焼かれているようだ。眩暈が酷い。 じゃり、と何かを踏む。嫌な感触だった。陽射しを避けるために翳した手をそのまま、屈んで踏みつけたものを確認する。 下半身の潰れた蝉があった。 いきなり気の萎えることばかりだ。この坂を越えればいつもの人がいるのに、どうも今日は気が乗らなくなってしまった。汗だくの姿で会いたくない、という別の理由もあるのだが。 足元の蝉はとうに死んでいたようだ。乾燥した死骸はもう一度踏むとぐしゃぐしゃになってしまった。何と残酷なことか。心の中で謝りながら一歩踏み出す。 こんなに坂が長かった筈がない。時空が歪んでいるみたいだ。自分に会いたくない中禅寺が呪術でも使っているのかもしれない。 暫く歩を進めたところで、けたたましく蝉が鳴き始めた。煩い。どこの樹にとまっているかは分からない。 蝉が鳴くのは求愛行動である。とすると、今喚いている蝉は夏真っ盛りの重要な時期に伴侶を見つけられなかったらしい。行き遅れ、か。 「……もう駄目だ」 引き返そうと頂上から背を向ける。首筋が暑い。 ふわりと温い風が吹いた。帰って風呂に入りたい。すぐに思考回路を別のことに使うのは得意だ。気持ちを切り替えよう。下り坂ならすぐに下まで辿りつける。 「苗字くん」 涼しい声が、聞こえた。 風の流れに逆らって振り返る。「中禅寺さん」 「暑いね」 そんな風に仏頂面でいう癖に、汗一つかいていない。暑いねというときも寒いねというときも、彼の表情は変わらないのは奇妙だと思う。 そもそもおかしいのは、この暑い中彼が陽の下に出てきたことだ。こんなところに出てきたら彼なんか溶けてなくなってしまう。 「僕に会いに来たんじゃないのかい?」 「その筈でした」 手を差し伸べるくらいしてくれてもいいのに。名前は汗を拭った。 蝉はまだまだ煩い。 中禅寺が口を開く。何かいっている。聞こえない。喧しさを増した蝉が会話を邪魔する。きこえない、と応えたが、その言葉が彼には聞こえていないようだ。意思疎通が図れない。 もう相手も見つからず死にに行くしかない虫たちを責めることはできなくて。 「おいで」 と、聞こえた気がしたのだけれど。 「蝉がうるさくてね」 真っ黒い中禅寺は顔を上げて辺りを見回す。 途端に静かになった。冷たい視線は虫を射殺してしまうのではないのだろうか。 夏が終わりますよ、と小さく呟いた。 - - - - - - |