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100万人のスター



 ショッキングピンクのうえで弾けるように笑う女は100万人のスター。銀幕の女優ではない。100万人のためのポルノスターだった。おれはそんな彼女が心底嫌だった。職業に貴賤はないといえど、恋した女がポルノスターだった場合、諸手を挙げて喜ぶ者はいるだろうか? 知らない男は彼女の声が良いといい、もうひとりの知らない男はいやいや脚が良いという。
 どれもこれもおれ独りだけのものではないのだ。本棚からこちらを微笑むパッケージが嫌でぱたんと伏せた。
「今日撮影で遅くなるよ」
 キスをひとつ。聞き分けのない子どもに言い聞かせるような口付けだった。これから知らない男とキスをしにゆく唇はやけに赤くて生々しい。腕を掴んでもう一度キスをねだる。女は少し驚いた顔をして、柔らかい唇で応えた。
「……行かないでください」
 唸るおれの頭を優しく撫でて「できるだけ早く帰るね」と一言。ああこの手もいまから知らない男と絡むのだ。
「じゃね。ネズもがんばって」
 100万人に褒められる声は確かに可愛らしい。軽やかな足取りはいまにも飛んでゆきそう。
「行かないでください」
 おれの我儘は鍵をかける音にかき消された。
 どんなにキスをしても愛撫をしてもセックスしても彼女の全ては手に入らない。それどころか身体を重ねるたびに指の間から零れ落ちてゆくような気がする。彼女の作品は観たことないが、きっと同じような声で同じような仕草で男を誘っているんだろう。
 これを考え始めると身体がバラバラになってしまう。安定剤を掌いっぱい飲んで落ち着かせる。そしていつだったか彼女が泣きながら訴えたことを思い出す。
「ネズだって、100万人のネズじゃん。あたしだけに愛してるって言ってよ。あたしだけ好きって言ってよ。100万人のためのラブソングばっかり書いて。つまんないんだよそんなの。あたしだけ愛してよ」
 どうやって宥めたか覚えていない。ポルノスターとシンガーでは立場が違う。そんなおれにとっての正論をいっても女は納得しなかったことだけは記憶にあった。
「同じだよ。100万人に夢見させてるんだから」
 違う。
「同じだよ」
 同じじゃない。
「あたしだけ愛してよ」
 おれにだけ抱かれてくれよ。
 おれはお前にイカれてる。100万人の馬鹿と同じ。
 胸がざわざわし始める。掌いっぱいでは足りなかったようだ。震える手で戸棚からありったけの薬を探し出す。とうに冷たくなった紅茶で無理やり流し込んだ。胃に落ちる錠剤は重くて冷たい。
 くらくらする頭を抱えながら創作部屋を目指す。100万人のためのラブソングを書くために。
 おれたちは100万人のための存在。100万人のため、ふたりは諍い涙を流す。ふたりとも、お互いが心底嫌いだった。愛しているからこそ、本当に嫌っていた。相手が自分だけのものにならないと分かりきっているからこそ。そういった点では、おれたちはやはり似たもの同士で、ふたりでいるしかないのだった。

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