×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -




とげよ、さらば。



 全く、わたしが少女であることに気付かされたのは社会に放り出されてからであった。周りの友人はといえば少女の殻を脱ぎ捨て女へと華麗に変貌していた。その抜け殻を眺めながらわたしは思ったものだ。ああ本当に、女であることはなんて美しいことだろう。わたしが女であるだけ、十分に女の醜さや綺麗さは分かっているつもりだ。女であることは楽しい。生理が数ヶ月も止まっているのも寂しい感じがする。
「また痩せたんじゃないの」
「そうでもないと思う。ちゃんと食べてる」
 もう二十年来の友人はわたしの体重の変化に厳しい。ふたりであんみつに黒蜜をだらだらとかけながら、ふたりそれぞれのいまについて語っている。友人はそろそろ恋人と入籍する予定らしい。彼女にとって人生で三人目の恋人だ。いままでの恋人のなかで、いちばん彼女のことを愛してくれている。彼女の惚気を聴くのはとてもすきだ。どろどろに愛されているのがとても伝わる。
「甘い」
 わたしはなにもいえることがなかったので淡々とあんみつの感想を述べた。彼女の話を聴くだけでお腹がいっぱいになる。愛情はお腹にたまるのだ。わたしは少女だから、恋愛に夢を見ている。恋愛はきらきらしていて、とても重みを持つものだ。
「あんたは結婚とかしないの? 例のバンドマンの彼と」
「わかんない」
「するよお、絶対すると思う。だって愛されてるもん。もう長く付き合ってるし、向こうはするつもりだと思うよ」
 紅い唇。口の端についた黒蜜をぺろりと舐めとる舌は蠱惑的で、全くどうして彼女はここまで女になりきれるのか感心してしまう。
 何時間もくだらない話をして、じゃあまたねと笑顔でさよならをして、わたし達はお互い背を向けた。足音が聞こえなくなるくらいでわたしは人気のない路地にふらりと身体を滑らせる。胃が気持ち悪い。喉の奥に指を突っ込んで、静かに嘔吐した。少し形を崩したあんみつがどろりと出てくる。愛情で満たされたうえに少し詰め込み過ぎた。
 誰にも見られていないことを確認してから口元を拭いて身体を起こす。喉が灼けるように熱い。
 背中を丸めて帰路につく。
 家に帰ると制作に疲れたネズが寝ていた。小さな寝息を立てて幸せそうに。
 わたしは意味もなくため息をついて、それから昨晩から描いていた絵の続きにとりかかった。わたしは画家をしている。初めの何年かはきちんと社会人として働いていたが、向いていないことに気づいて職場から逃げるように去ってしまった。なぜなら少女だから、きちんとした枠組みに収められると蕁麻疹が出てしまうのだ。そうして生来なんとなく描き続けていた水彩画を人前に出したらそれなりに評価されいまに至る。個展は幾度か行った。
 わたしは主体を持たない。だから絵を描いていないと身体がばらばらになってしまう。あまり巧くない絵でも。
 水彩をちり紙に落とした。ぼんやりと色が滲んで境目が曖昧になる。そのぼんやりとした様が、まるで世界とわたしの関係のようでとてもすきだ。
 二、三度咳き込む。
 筆を走らせていると、自分が少女であることや愛情の重さや結婚について、いろいろなことを忘れられる。自分が少女であることは明確であるにもかかわらず、それを忘れないと社会的な生活は営めないのだ。
にゃあと外で猫が鳴いた。それに応えるように赤子の悲鳴のような泣き声も聴こえる。発情期の猫だ。まるで学生時代の友人たちのよう。うるさくも儚く可愛らしい。本当に、あの学生時代に恋愛をしなくてよかった。なんの準備もできていない時代に、そんな大層なことはきっとできなかったのだ。
 筆を洗おうと振り返ると冷たい身体に抱き締められた。ネズは少しだけわたしを持ち上げ、小言を言う。
「軽すぎますね」
「おはよう」
「ちゃんと昼飯食べましたか?」
「さっきあんみつ食べてきた」
 食べたけれど、吐いたことはいわなかった。ネズを心配させたくなかったというわけではない、単純にいわなかっただけだ。そっと降ろされて、また小さく咳き込んだ。
 そういえばなぜ吐くのか問われたことがある。そのときはなんと答えたか、すっかり忘れてしまった。
 彼はいつも私の手首を握って細いと文句をいい、お腹を掴んで細いと嘆く。自分だって普通のひとより細いことを忘れているようだ(勿論それを差し引いてもわたしは軽いのだけど)。
「猫がうるさいですね」
 煙草に火を点けながらネズは外を覗いた。わたしは窓を開けるがらりという音がとても苦手だ。身体中に棘が刺さる音に聴こえる。いつまでも閉ざされた空間にいたいのに、窓や玄関はそれを許さない。ああわたしはなんのために画家に身を窶しているのだろう。社会と関わりたくなかったからではないか。当然そんなに簡単に物事は上手く行かないとわかってはいるが。
「ネズ、眩しい」
 嘘をついて窓を閉めてもらおうとした。心が弱い少女なのだからこれくらい許されるはずだ。
「これ吸い終わるまで待ってください」
 わたしの方も見ずに返事をされた。「彼処に猫がいます」発情していた猫の在処を教えられて、いったいどんな顔をすればいいというのだろう。分かっている、きっと彼はなにも考えていないのだ。ただ「猫」という少女がすきそうな生き物を見つけて、それを少女の私に教えただけだ。
 誰かの自動車の上で、やけにつやつやとした黒猫が酷い声を上げていた。
「黒猫」
 見ればわかるのに、沈黙が怖くてそう返事した。
「なにかついてますよ」
 冷たい手が頬を掠める。きっとさっきまで使っていた水彩絵の具だ。瞼を降ろす。
「小さい顔ですね」
 ネズの掌はとても心地よい。身体のあちこちがとても寒いわたしには、ネズくらい身体が冷たいひとでないと居心地が悪いのだ。
 こうやって必要以上に愛されるためにわたしは体重を減らしているのかもしれない。本当はいまよりずっと体重がないときちんと生きられないのに、どうしても小さく薄くなりたがる我儘な身体。
 彼はわたしにもっと太って欲しいのだ。夜毎干からびていく身体に、居心地の悪さを感じているらしい。
 もういちど「うるさい」と猫に対して同じことをいってネズは窓を閉めた。途端に部屋は安心できる空間になる。
 そうだ、きっと、社会から身を守るため、ネズに守られるために痩せているのだ。
 外界から与えられる痛みに慣れていく自分を守ってあげるために、透明に近づこうとしているのだと思う。少女期が終わるまで、きっとわたしは彼と一緒にいるだろう。
「ネズ、すき」
「どうしたんです、いきなり」
 少女らしくふふ、と笑ってみせた。
 さっき刺さった棘が抜けた気がした。

- - - - - -