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「幸せになろうね」



 小さい手が遠慮がちにおれの手を握り返した。
 落ちぶれた街を歩くおれたちの足取りは軽い。駅まで永遠に着かなければ、このままふたりでどこまでも歩いていける気がした。切れかけのネオンは星の瞬きに見えたし、目つきの悪い酔っ払いは祝福のクラウンに見えた。それくらい舞い上がっていたのだ。
 わたし幸せになりたい。
 おれが幸せにしますよ。
 その会話が始まりになった。好きです、お付き合いしましょう、なんて子どもっぽい言葉はなかった。幸せになりたい人間と、それを幸せにしたい人間が揃っていたので、ふたり歩調を合わせた。それだけだった。それだけなのに、おれたちは既に幸せになっている。繋いだ手の暖かさがリアルだった。
 パズルをやっと見つけたと思った。
「幸せになろうね」
 おずおずと彼女は呟いた。
 合鍵を渡した時の驚いたような嬉しそうな表情は忘れられない。リングをプレゼントした時の泣きそうな瞳はもっと忘れられない。共に暮らし始めた時の涙は焼きついて一生忘れないだろう。
 おれは彼女の幸せのために全力を尽くした。我を忘れて。彼女の幸せがおれの幸せだから。
「ネズくんさぁ、最近いいことあったの?」
 同棲を始めてから暫く経った頃、打ち合わせで初対面の人間にそう言われた。馴れ馴れしい口調にむかついたが仕事なので適当に返す。「まぁ、いつも通りですよ」
「俺はさぁ、この仕事長いんだけど」
 だからなんだ。
「幸せな人間が作るものって面白くないんだよね」
「……つまり、どういうことですか」
「ネズくんの最近の楽曲、なんにも面白くないんだよねぇ」
 禁煙席なのに煙草に火をつけるそいつは、おれのためを思ってアドバイスしてくれたわけではなさそうだ。ただの罵りだった。
「……いつも通りですよ」
「ふーん、じゃあただの不調かぁ」
 煙草の煙が顔に吹きかかる。吐きそうになった。
「とにかくタイアップの件は頼むからね。締め切りはまだまだだから、考えてやってくれよ」
 領収書ください、と慌てて店員に言いながらそいつは乱暴に金を払う。一挙一動、全てがおれの神経を逆撫でする嫌なやつだった。
「ただいま、帰りました」
「おかえりなさい、お疲れ様」
 もう慣れたこの会話が、今日は少し虚だった。リビングから顔を覗かせる幸せの象徴。出会った頃より明るい表情が増えていて、いまの生活が満たされていることがよく分かった。
「今日はネズさんが好きなものばっかり作ったよ」
 ――幸せな人間が作るものって面白くないんだよね。
 ふとその言葉を思い出して、彼女への返事の仕方を忘れてしまった。「ありがとうございます」辛うじてそれだけ告げる。幸せだった。言葉にできないくらい。
 食事もそこそこに、タイアップの話をして創作部屋に篭ることにした。彼女は喜んでくれた。お仕事頑張ってね、夜食差し入れるね、と完璧な受け答えまでしてくれた。
 いつもの、いままでのネズを求められていることはよく分かっていた。世界を燃やす歌を。
 心も身体も満たされて、初めて自分の立場を振り返る。世界はどう見える? 憎いか? 怖いか? 忌まわしいか? どれも違う。いまは幸せが全てを塗り替えていた。燃やせるものがなにもなかった。
 おれは呆然とする。
「幸せになろうね」
 その言葉がおれを縛りつけたことは明白だった。この世で幸せになりたい人間を幸せにしたいおれが生まれたことで、この世を燃やせなくなってしまったのだ。
 ギターを手にしたまま、なにもできなくなる。戯れに散文的な音を出してみてもなにも生まれない、外で騒ぐ輩の声に苛つきもしない、近づいてくる彼女の足音だけが耳に触れる。
 ――幸せな人間が作るものって面白くないんだよね。
 どれもこれも、おれが幸せになったから。おれはまた呆然とする。
 背後には幸せの足音が迫っていた。

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