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天秤座夜



 
 おかしいなと思ったのは出待ち対応が妙に優しくなってからだ。ネズくんは塩対応で有名なのに、わたしの拙い喋りにいちいち相槌を打ってくれたり微笑んでくれたりする。おまけに「いつもありがとうございます」。勘違いしちゃいけないって思うけど、ファンの悲しき性で「わたしは特別かも」なんて。いつもは怖くて他の子への対応は見ていなかったけれど、恐る恐る聞き耳を立てる。みんなへはいつも通りの「ええ」「はあ」「そうですか」「どうも」を真顔で繰り返すマシーンと化している。
 勘違いしてもいいのかな。
 明後日のライブ後も同じ反応だったら勘違いしたままでいよう。認知される嬉しさは本人にしか分からない。少し幸せになったから、普段より高いスイーツを買って帰った。

「今日も来てくれたんですね、ありがとうございます」
 卒倒しそうになった。ネズくんの記憶力が2日も続くことにびっくりしたし、やっぱりわたしのことを認知していたんだ。
 わたしはしどろもどろで「今日も最高でした」という旨を伝える。手紙とプレゼントを手渡すと、信じられないくらい綺麗な顔で「ありがとうございます」と微笑んでくれた。
「ライブでもいいましたけど、今度インストあるので来てください」
 言葉遣いはあくまで丁寧だ。だけど否と言わせない圧があって、わたしは夢中で首を縦に振った。元より参戦するつもりだ。握手した手は冷たくて、熱っぽい自分の掌が恥ずかしかった。
「手、暖かいですね」
 信じられない台詞に、酸欠の金魚みたいに口だけ動く。返事ができない。なんとか「ええ」「まあ」といつものネズくんみたいな反応をしてその場から逃走した。

 インストの日は柄にもなくヘアメイクなど完璧にして精一杯のお洒落で武装した。いつものバンTによれよれメイクのわたしとは違うから、ネズくんは気づかないかもしれない。でも、それでもよかった。あの日のことは忘れないから(握手した手を洗おうか迷ったのはここだけの話だ)。
「CDお買い上げの方は握手、サイン会に参加できまーす」
 やる気のないバイトスタッフの声かけ。もう持ってるアルバムだけど、ネズくんと真正面から話す機会なんて少ないから買ってしまう。何枚も積むほどお金はないからささやかに1枚だけ。でもいいんだ。話せるだけで幸せだから。
 ネズくんはパーテーションの向こうで、いつもの猫背でつまらなそうな顔をしていた。淡々とサインして握手して「ええ」「はい」「どうも」の繰り返し。普段通りだ。わたしは安心する。震える手で整理券をスタッフに渡し、ネズくんの目の前にスライドした。
「あ」
 花が咲くみたいに、ネズくんは笑顔になった。
「来てくれたんですね」
「本人にお誘いされたら、来ますよ」
「嬉しいです」
 慣れた手つきでサインを描きながらネズくんはいつもよりワントーン高い声で話してくれた。
 握手を求めて手を出すと「ちょっと待ってください」と制されて、ネズくんはポケットに手を入れた。それから片手で顔を近づけるようわたしに促して、
「これ、合鍵です。遅くなるけどベッドで待っててください」
 と内緒話をするみたいに囁いた。
 心臓が爆発するかと思った。
 それからわたしたち以外にバレないように握手をする。手と手の間には冷たい鍵があった。平生を装って「じゃあまたライブ行きますね」とか言って、やっぱりわたしはショップから逃げ出した。
 自問自答が止まらない。合鍵? ベッド? なんで? どういうこと? 正直にいえば、ネズくんを追っかけていて、こういう展開は少し夢見ていた。いつか大勢のなかから見つけ出してくれて、わたしの手を引いてくれる、ネズくんが。でもそれは、馬鹿らしいそんなことあるわけないと自分で笑っちゃうくらいの妄想で。
 恐ろしいことにわたしはネズくんの家を知っているのだ。というか、ファンならみんな知っている。わたしとその他のファンの違い、それはさっきもらった小さな合鍵、それだけ。それだけなのに、どうしてこんなにドキドキするの? まだなにも始まっていないのに。

 ネズくんの部屋は本人と同じ、素っ気ないものだった。白黒でまとめられたインテリアが冷たく感じる。本人そのものだ。ベッドは朝起きたままなのかしわくちゃで、なんとなく皺を綺麗にしてから座ってみた。自分がどうしてここにいるのかわからないまま。
 横になってみた。柔らかいシーツが頬をくすぐる。数時間前までネズくんはここに寝ていたのかな。よく眠れそうなベッドだ。そういえば朝イチでヘアメイクしてもらったから眠いなあ。ネズくんいつ帰ってくるんだろう。
「……おい、起きてください」
 視界が狭まったところで、低い声に叩き起こされた。飛び起きたらいかにも楽しそうな表情のネズくんが目の前にいた。
「うわ、ご、ごめんなさい」
「いい度胸してやがりますね」
 ジャケットを乱暴に脱ぎ捨てて、ネズくんはわたしの隣に座った。「来てくれるとは思いませんでしたけど」「本人にお誘いされたら、来ますよ」「それ、さっきも聞きました」また笑う。たぶんわたしの顔は真っ赤になっている。
 どうしてわたしが?
 そんなこと訊けるような余裕はない。
 ネズくんはわたしの肩を抱いた。ネズくんのつけている香水と、彼の匂いが混ざってクラクラする。キスするんだ、わたしたち。ぎゅっと目を閉じる。ネズくんの唇は薄くて、やっぱり冷たかった。
 それからのことは、恥ずかしくて思い出したくない。綺麗にセットした髪はぐちゃぐちゃになって、この日のためにおろした服は皺だらけになった。ネズくん、ネズくんと何度も名前を呼んだ気がする。気を遣ると同時に急激な眠気に襲われて、前髪をかき上げるネズくんを見ながらわたしは泥のように眠りについた。ネズくんかっこいいな、と思いながら。
 
 翌朝、彼の姿はなかった。売れているバンドマンは朝から忙しいんだろう。服を着て髪をそれなりに整える。まだ夢心地だった。
 コーヒーを飲んでそのままにしてあるカップを見つけた。きっと変に片付けられるのは嫌がるだろう。特に触らず、帰る準備だけ淡々と進める。
 ふと、テーブルにノートの切れ端があることに気づいた。
〈合鍵は持っててください〉
 殴り書きの字でそう書いてあった。わたしはポケットのなかの合鍵を握りしめる。手の熱を奪う合鍵は小さいけれど、わたしの人生を大きく変えてしまった。
 これからどうなるんだろう。
 わたしは途方に暮れた。

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