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まにまに


 小鳥の囀りで目が覚める。爽やかな朝だ。名前は知らないが近所を塒にしている白い小鳥のはず。窓を開けて確認してみるが、姿が見えないことは想定内だった。
 チン、とトースターが鳴ったのが聞こえて「あちっ」弾けるような声が続いた。オレは一歩一歩踏みしめて階段を降りる。少しばかり木材が軋んできぃきぃと特徴的な音を立てた。親から継いだ築何十年の一軒家だ。どこかボロもあるだろう。
「おはよう」
「おはよ、ダンデ、むくんでる」
 コーヒーの目が覚める匂い。幸せの匂いだ。目を擦り、スクランブルエッグをトースターに乗せる恋人――そう、きっと、確かに――オレの恋人を抱きしめるために腕を広げる。
 ふふと笑って彼女は同じように腕を広げた。オレはオレより一回り小さい身体をぎゅうっと抱きすくめる。恋人は「どしたの朝から」とまるで子供をあやすかのように背中をぽんぽんと叩く。
 オレはとても酷い男だ。
 女を騙して家に連れこむなんて可愛いもので、愛しい人を手にかけたこともあるし、その身体を――いいや、これは仔細に思い出したくはない。甘やかしてお姫様扱いでごまかして、閉じ込めてしまったこともある。ある、というのかあった、というのか。
 つまりそういう話の主人公になりがちなのである。
 小鳥の囀りで目を覚ましたことがあっただろうか。恋人が朝食を用意してくれて、微笑みかけてくれたことがあるだろうか。あるのかもしれないが、そういう細やかな幸せが思い出せないほどオレの頭のなかは汚泥に塗れていた。
「ダンデの身体あったかーい」
 くっついたまま、恋人が耳元で楽しげに呟いた。
「二日酔いかな?」
「いいや、平気だ。朝食ありがとう」
「うん、食べよう」
 なんでもない、本当になんでもない会話だ。裏もない。意味深な単語が含まれてもいない。ありふれた、きっと世界中の恋人たちが交わすようなふつうの会話。オレはまだ彼女を抱きしめている。
 しかし、と頭の中にいる、手を血に染めた自分が茶々を入れる。「しかし、そうやって平凡な日常の裏に潜むものこそがいちばん恐ろしいとは思わないか?」「そうだな、例えば朝食のあとにふたりでバスルームにある死体のバラし方について話し合う、というのは面白いぜ」「オレが主人公ならありがち≠ネ話だろう?」うるさい、うるさい。今日のオレは幸せな主人公だ。
「いい匂いをかいだら腹が減ったな」
「わたしもー」
 白いクロスを引いたテーブルで向かい合い、同時にトーストをかじる。幸福が口いっぱいに広がって、目を細めた。
「今日の予定は?」
 上目遣いに尋ねる恋人にどきりとする。可愛らしかったのと、先ほどの陰の自分の言葉を思い出してしまった。
「特には……ああ、通販で買ったレコードが届くはず。午前中指定だから二度寝できないな」
「えー、食べたあとの二度寝がいちばん気持ちいいのに!」
「キミは寝ていていいよ。オレが受け取る」
「それはなんか、ダンデに悪いかなって」
「気にしなくていい」
「……だからキバナにだらしない嫁って言われるんだぁ」
 突然出てきた男の名前にどきりとする。が、共通の友人だ。不自然ではない。そしていま判明したところによると恋人ではなく、妻だったようだ。変なことを口走らなくてよかった。脚本も与えられずに主人公を演じる恐ろしさに改めて身慄いする。
「えーとね、あ、シーツ洗うから下に出しておいて」
「分かった」
「それとこないだ割っちゃったカレー皿買いに行きたいな。午後どう?」
「いいよ、キミの好きなところに行こう」
 コーヒーを飲みながら今日の予定をふたりで決めていく。あのカフェにも寄ろう。そういえば本屋が新しくできていたはず。晩ご飯はどうしよう?
 極めて自然で、爽やかな朝だ。
「こういう日曜日、幸せだなー」
 目の前の、これ以上ないほど素敵な女性――妻がにっこり笑う。
「オレも、幸せさ」
 コーヒーカップが空になった。身体の芯から温まり、全身に幸福が行き渡る。
 念の為バスルームを覗いてみた。「そういえばシャンプーが切れてるぞ」「それも買わなきゃね」
 気まぐれでも構わない。たまにはこういう単純に甘やかな朝があってもいいだろう。少なくとも今日いちにちはこれ以上ないほど穏やかに幸せに過ごしてやろう。

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