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雨とリルケ


 雨の中、大きなバラが咲いていると思った。
 ラナンキュラスでもチューリップでもなく、大きなバラだ。アトリエから見えたそれに目を奪われ、コルサは筆を動かしていた手を止める。ザザ降りの雨はしばらく止まないだろう。
「おい、そこの」
 エントランスに走り、なんとか呼び止めようと声を出した。「そこのキサマ、おい」重いドアを開けて裸足のままバラに駆け寄る。雨の匂いと土の匂いに油絵具の匂いが混じった。息を切らせながら近づくと大きく咲いたバラがゆっくり傾き、角度を変える。花弁から覗いたのは陶器のような顔の造りをした女の貌だった。釉薬がかかったように艶めく唇は小さく、睫毛はアカシアのように豊かだ。瞳は虹を思わせる不思議な色をしている。
 パニエで膨らんだスカートは子どもの誕生日ケーキのようにデコレーションされ、足元は木のソールが特徴的なバレリーナシューズ。やっと追いついた芸術家は膝から崩れ落ちる。
――ああ、なんてよくできた人形だ。
 コルサはそんなわけがないと分かっていながらも、そう思わずにはいられなかった。人形が自立して動くはずがない。それは人形ではなく、ロボットやアンドロイドの類だ。
「濡れちゃうよ」
 頽れたコルサに人形が小さく声をかけた。そして細い腕を伸ばし、バラの傘を彼に差し出す。彼女は波打ち際のように繊細なレースが使われたヘッドドレスを着けていた。
「――美しいな――」
 激しい雨がコルサの掠れ声を打ち消す。人形は表情を変えず、額から頬、顎から胸を濡らす雨を鬱陶しがる仕草をした。



「ココア」
「ない」
「ホットチョコレート」
「ない」
「じゃあなにならあるの?」
「なにもない」
「紅茶も?」
「ない」
 白湯を入れたマグカップを人形――少女と呼ぶには大人びているが、女と呼ぶほど成熟していない――の前にことりと置く。
 その白湯に少しだけ口をつけ、俯きがちなままアトリエを見回した。「絵を描くひと?」あまり唇を動かさずに話すから耳を傾けていないと聞き逃してしまいそうになる。
「絵も描く。立体も造る。ワタシはアーティストだ」
 行儀悪く背もたれに肘をついて椅子に座ったコルサは改めて人形の全身を眺めた。びしょ濡れでも服を脱ぐのを嫌がったため、タオルを頭から被せてヒーターを当てている。お陰で部屋は蒸し暑い。
 翻って彼女は木製の椅子に背筋を伸ばして座っている。足先も揃えてきちんと座っているので、ますます球体関節人形然としていた。
「描いてもいいか」
「どうぞ」
 間髪を入れず返事があったので慌てて3Bの鉛筆と画用紙を手に取る。
 マグカップから薄く湯気が上がった。彼女の肌はそれと同じくらい白い。力のなさそうな指先を見つめていると、無機質でつまらないマグカップがナポレオンアイビーのティーカップにさえ見えてくるから不思議だった。
 純白のタイツについた泥はね、ベルベットらしいスカートの光沢、じいっとどこかを見ている硝子の瞳、畳まれて萎んだバラ。
 十分ほどでクロッキーを終え、コルサは大きく息を吐く。こんなものいつもならなんてことのない作業なのに、とても疲弊していた。
「素敵」
 画を見せると人形は微笑んで口を小さく動かした。大袈裟に喜ばないところに好感を持った。
「ワタシはあまり人間は描かないんだが――」
 雨上がりの空を見上げ、独り言のように呟く。
「よかったらモデルになってほしい」
 またバラを大きく広げ、人形はにっこりと笑う。
「ええ、喜んで」



 不必要にフリルのついたドレスのまま花と沈むオフィーリア、ヨカナーンではなくストロベリーケーキを持つサロメ、リボンのワンピースを脱がずピンクのエヴァンターユを手にするオランピア、柘榴ではなく苺を両手いっぱいに持ったプロセルピナ――いままでの彼からはありえない画を次々に描いた。
 彼女はそれほど美しかった。美しいというよりも、やはり出来がよかった。何時間同じポーズを取らせても文句を言わなかったし、不用意に動かない。余計なことも言わない。それは髪の毛一本から爪先に至るまで同じだった。
 こんな絵は売れない、とコルサは分かっている。それよりギャラリーに催促されている彫刻を仕上げねば、いくらコルサとはいえ契約を切られても仕方がない。それでも描かずにはいられなかった。
 絵画のうえであらゆる美女を彼女で上書きした。モナリザもアフロディーテも、真珠の耳飾りをした少女もレディ・アデーレでさえも。
「わたしがいっぱいいる」
 それがどんなに可笑しなことが分かっていない様子で彼女は言う。それがまたコルサの心を惹きつけた。
 彼女に出会ってから寝食や呼吸すら厭わしく、とにかく筆を走らせることばかり考えている。コルサは芸術についてしか考えられないが、人間が生きるためにはどちらも必要であるとは理解していた。理解はしていたが、それよりあの日雨の中に咲いたバラを表現するためにはそんなことにかまけてはいられないと判断したのだった。
 やがて彼は美女の上書きを止め、ひたすらバラを描くようになった。そうなるとモデルは必要ない。しかし彼女はアトリエに呼ばれ、荒々しくガッシュでキャンバスを塗り潰す彼の横で紅茶を飲むようになった。彼女に相応しいように、と与えられたナポレオンアイビーで。
 かつて向日葵を部屋いっぱいに飾っていた芸術家がいたが、あれは部屋を明るく見せようという意図があったそうだ。客人のために。コルサは誰のためでもなくただあの日の自分のためにバラを描き続けた。雨に煙る群青色のなか、大きく咲いたバラを見つけた自分のために。
 眠らず、食事を摂らず、たまにシャワーを浴びた。
 そうして何ヶ月も経った頃、バラだらけのアトリエに一際大きなバラが咲いた。
「いままででいちばん素敵」
 自分と同じくらい大きいキャンバスに咲いたバラを観て、人形は一等嬉しそうに頬笑んだ。
「ああ――これはいい」
 芸術家が膝から崩れる。調色に使ったスティックと容器が音を立て落ち、残った赤と黒がアトリエの床に広がり血のように混じり合う。
 助けの手を差し伸べることもなく、人形は小さく背伸びをし、倒れたコルサに背を向けた。
「じゃあね、さようなら」
 柔らかそうな唇が別れの言葉を紡ぐ。
 人形――というには滑らかすぎる動きで彼女は傘を差し、秋風のなかアトリエを去った。その様子はまるで、満開のバラが緩やかな風に笑っているようだった。
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