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なんでもない夜に


 惰性で続けてきたバンドを解散した。告知もせず、MCでただ解散するとだけ言った。客も惰性で来ているような人間しかおらず、お疲れ様だとか寂しくなるだとか、銘々がそれなりのことを言った。十年ほど仲良くやっていたメンバーとは感傷的な打ち上げもなにもせず、俺は駅までの途中で楽器も売り払ってしまい、いままでの十年をなかったことした。後悔は少しだけあった。
 軽い身体を風に任せてふらふらと彷徨う。いままでは駅からライブハウスかスタジオ、またはその周辺の安い居酒屋くらいしか足を運んだことがない。解散記念だ、馴染みがあるのに全く知らない景色を見てみよう。財布にそれなりの金があることを確かめ、歓楽街に歩き出した。
 輝く街並みからは早くもクリスマスの足音が聞こえる。ハロウィンが終わったばかりだというのに、世の連中は生き急いでいるとしか思えない。あまり派手な店は好みではないので明るいなかでも落ち着いた店を探す。
 目に留まったのは小さい小さい看板を出しているバー、のようなものだった。壁に落書きみたいに描かれた矢印に従って階段をどこまでも降りていく。何度も折り返しがあるので目が回ってしまう。途中でやめようと思ったときにはエントランスの鐘をからんと鳴らしてしまっていた。
 マスターが小声で、おそらくいらっしゃいませに準ずる言葉を発した。聞き取れなかったので差し示されるままにカウンターに座り、マルガリータを頼む。このカクテルに纏わる話が好きで、歌詞にしたこともあるっけ。
「マスター、おれにもマルガリータ」
 掠れた声がカウンターの端から聞こえた。聞き覚えのある声に思わず顔を向ける。
「そのさあ、マスターっていうの恥ずかしいからやめてくれよう」
「じゃあ店主、店長、おれはなんでもいいです、早く」
「あ、あの」
 型を取って造り上げたように綺麗な鼻筋、薄い唇、意地悪くにやにや笑う表情――十年前、俺はこのひとのライブを観てギターを買ったんだ。同じギターを買って、衣装も似せた。いつだったかストールを巻いて表舞台に立つようになった時期にはそれをも真似してダサいストールを着けた。なにもかもをネズにしたかったのだ。
「もしかしてネズ、さんです、よね」
「はあ、そうですけど」
 あの、俺、あなたのファンで――しどろもどろになりつつ、俺がいろいろ言うのをネズは愉しそうに眺めていた。俺、あなたに憧れてギターを始めたんです。バンドも組みました。ネズは適切な相槌で話を促してくれ、マスターがマルガリータをコースターのうえに置くまで俺は話し続けていた。
「……さっき、解散してきたんです」
 グラスを傾け、ネズと視線を合わせる。
「俺たぶん、ネズさんになりたかったんだ。あんなにかっこいいステージを観て、自分もネズさんになれるって錯覚したんです」
 でも駄目だった。俺はネズじゃないからいくら音楽をやっても売れないしファンもつかないし、なによりあんなに輝けなかった。薄暗い地下でずっとワケの分からない、ネズの二番煎じみたいな音楽をやり続けた十年に意味はあったのだろうか。少しアクティブなふつうの人間ができあがっただけだ。
「でもふつうの人間に十年は大きすぎます、失敗しました」
 ふつう、という言葉にネズは唇を歪める。「ギブソン」とマスターに言い、脚を組み直した。
「おれはね、ふつうの人生が欲しかったんですよ」
「あ――」
「十年前、ちょうどきみがバンドを組んだ頃、おれはふつうの女と恋をしていました。ふつうの恋をしたかったんです」
 ふつうに恋をして、ふつうに結婚して、ふつうの家庭を築いて、とネズは宙を見つめる。真珠を思わせるマルガリータをグラスに半分残したまま、俺は彼の話を聞くだけだ。暗い照明のなか、ネズの青白い肌は浮き上がるようだった。
「ところがおれはふつうではいられなかった。売れちまいましたからね、意に反して。あの頃のおれはアイドルでした」
「ネズくんかっこよかったもんねえ」
「失礼な、おれはいまでもかっこいいんですよ」
 ギブソンを差し出したマスターに軽口を叩きつつ、ネズは話を続ける。
「あることないことを言われて、書かれて、おれより恋人がやられちまいました。さっきのひとがわたしを見て笑ってたとか、ネズと別れろって脳内に直接文句を言われるとか……いまは分裂病って言っちゃいけないんでしたっけ? とにかく、それですよ。暴れて大泣きして手がつけられなかったです」
 笑い話のように語るそれはあまりに壮絶で、俺はなにも応えられない。
「三年ほど頑張っていたんですが駄目でしたね。ある日そいつが夜中におれの首を泣きながら絞めてきたんです。一緒に死のう、って。向こうでならふつうに幸せになれるからって」
「もしかして、」
「ああ、そう、そうですね、それで変な痣ができたんでストールで誤魔化してたんです。冗談じゃないですよ。天国なんてないんです。死んだらそれまでですから。おれは恋人を振り払って、警察だったか救急だったか、そのどちらかを呼びました。この辺はちょっとしたニュースになりましたっけね。クスリを疑われて厄介でしたよ。やってたら通報するわけねぇっつうの」
 明らかに酔っている。マスターはお人好しな「やれやれ」という表情で頭を振った。
「ふつうの恋をしたかった。それだけだったのに、できなかった。おれの人生は失敗です」
 ネズはいまでもコンスタントに楽曲を作っていて、爆発的に売れはしないが根強いファンがいる。俺もそのひとりだ。だから俺からすればネズの人生は決して失敗ではない。でもそれは俺がネズになりたかったからで――
「おれたち、失敗仲間ですね」
 いつの間にか目の前に置いてあったギブソンを一気に煽る。
 その恋人はどうなったんですか、とは聞けなかった。帰ったら、ふつうすぎる俺の恋人を抱きしめようとぼうっとする頭で考えた。

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