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ピュア



 朝、いつも通りの時間に起きると、サイドチェストに置いていたはずの眼鏡がなかった。困ってしまう。わたしは眼鏡がなければ世界をぼんやりとしか捉えられないのだ。
 目を細め、チェストの下やベッドサイドを探してみるがないものはない。幸い充電コードに繋ぎっぱなしのスマホはそのままだ。液晶を睨みつけながら職場に「起きると眼鏡がなかったので行けません」と連絡した。「眼鏡作りに行けば?」「眼鏡を作りに行く眼鏡がありません」「どうするの?」「……コンタクト探します」「はーい」コンタクトなんてもう何年も着けてないのに! 度数すら忘れてしまっているから、ネットで注文もできなかった。
 続けて、泊まっていったはずの恋人がいないことに気づく。いつもならわたしより遅く起きて「まだ早いですよ」とかなんとか根拠のないことを言ってシーツに引き摺り込む男がいない。「ネズくん、ネズくん」手探りで部屋中を回ってみるけれどわたしの視力ではネズくんの輪郭ははっきりとは分からないし、部屋をうろうろしてもあまり意味がないようだ。
 諦めてベッドに戻ってスマホをいじる。「ただいま」玄関から声がした。これは間違いなくネズくんの声だ。
「パン買ってきました。ベーコンエピでいいですよね」
「うん、ありがとう」
 勝手にいなくなったのじゃなくて朝ごはんを買ってきてくれていたみたいだ。少しほっとして、買ってきてもらったパンを食べる。目の前のものがすべてぼんやりしているだけで、味もぼんやりするようだった。
「あのさ、眼鏡知らない?」
「眼鏡。知ってますよ。視力を矯正する器具」
「違うよ、わたしの眼鏡」
「はあ、去年買いましたよね、縁が黒くて」
「……違う、もういい」
 ネズくんの返事は間違っていないのに全部間違っている。わざとなのか天然なのか判断できなくて、寝起きの頭で受け止めるには複雑すぎた。
 テレビをつけても音が聞こえるだけで映像はなにが起こっているのか分からない。なんだか、視力ひとつがダメになると聴覚にも自信がなくなってくる。本も読めないしましてや料理も片付けもできない。早急に新しい眼鏡を作りに行かないと。
「じゃあ、おれは帰ります。また夜にきますね」
「待って」
「甘えてくれるのは嬉しいですが仕事です。連絡します」
 ちゅ、と右耳の上あたりにキスをして彼は部屋から出ていった。呆然とする。ベッドから降りられないのに、わたしは今日どうすればいいのだろう。
 この辺にあったはず……と洗面所の引き出しを片っ端から調べる。まとめて買っておいたはずのコンタクトは一枚も、片目分も見つからない。そもそも数年前のコンタクトがつけられるのか、という問題はあるが、ひとつもないほどつかった記憶もなかった。
 あとはもうお手上げだ。スマホのカメラを通せば近場はそれなりに見られるが、部屋からは出ていけない。ネズくんがまた来る、という言葉を信じて、電子書籍を読みながら寝ることにした。



 また泊まっていったネズくんはわたしの耳を甘く食みながら「今日はオフです」と囁いた。つまり一日中わたしといられるということだ。
「わたし仕事……」
「行けるんですか?」
「ああ――そっか」
 昨日眼鏡を作れなかったからまた行けないんだった。
「眼鏡作りに行かないと」
「今日じゃなくてもいいでしょう。今日はゆっくりしたいんです」
「だってなにも見えないよ」
「おれがいますよ」
 ぎゅっと抱きしめられ、肩のほうへ流れた髪を弄ばれる。このまま流されてしまうこともできないのだけれど彼の腕を払えるほどの気力は持ち合わせていなかった。しかたないなあ、と自分に言い訳するように呟き、境目が曖昧なネズくんの顔を見つめた。たぶんネズくんは笑っている。
「ランチはあとで買ってきます」
「うん」
「そのあとはどうしますか?」
「わかんない」
 ネズくんの顔だけがそれとなく分かる世界で、わたしはどうすればいいのだろう。
 怠惰に、緩慢に過ごし、そういえば職場に連絡も入れるのも忘れてしまっていた。
「なに考えてるんですか」
 鈍く光る目がまっすぐわたしを見ている、気がする。大きな手が身体中を這って、パジャマが脱がされて、いつも通りに身体が開かれてはわたしはもうなにもできない。こんなに近くにあるのにネズくんの顔もはっきり見えなくて、わたしはいま誰に快楽を受けているのか。「ネズくん、」なにも考えられないよ。ネズくんがここにいることしか、確かなことじゃない。



 三日目にして、わたしは彼に頼り切りになっていた。起きたらネズくんネズくんと呼んで朝ごはんを用意してもらって服を部屋着に着替えさせてもらう。なんて面倒くさい女だ。
 しかし自己嫌悪に陥る間もなく、彼は意外とわたしの世話を楽しんでいるようでもあった。風呂上がりにピアスを落としたときなど、這いつくばって一緒に探してくれたり、水が飲みたいというと少しの距離なのに代わりにウォーターサーバーまで行ってくれたり、困っている恋人を助けるというよりも従者のようにふるまってくれる。
「眼鏡、どこ行っちゃったんだろう」
 少なくとも昨日までのわたしは「ネズくんについてもらってきて、眼鏡を作りに行こう」と考えていた。
 ところがいまでは起きて、彼に面倒を見てもらって、気がつけば夜になっている。依存だ。これが依存でなくてなんなのだろう。非常にまずい事態だ。
「コンビニ……」
「おれが行きます。なにが欲しいですか」
「あの、」
「外は危ないですよ」
 5歳児に言い聞かせるみたいに言うなんて! 反論しようとしたらネズくんはとっとと部屋から出ていってしまった。今日のネズくんはいつもと違って少しお洒落をしているから、このあと仕事かもしれない。わたしのために食料なんかを買ってくるのかも。胸ポケットのあたりになにかきらめくアクセサリーをつけていたから、フォーマルなパーティーだったら夜遅くなりそうだし。
 ネズくんはどこにでも行けるのに、絶対にここに戻ってきてくれる。なんとなく、急に捨てられることはないような気もした。
 不便なのと安堵する気持ちが綯い交ぜになったまま、わたしはベッドに横になる。
 眠っているとき、夢の中ではなぜかなにもかもがはっきり見える。現実とは違う。ネズくんも、優しい目つきで頬笑んでいるのだ。

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