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アンダンテ



 発覚したときには手の施しようがないほど病症は深刻化していたそうだ。特に彼女は若いから進行も早く、医者は無機質に「二ヶ月保てばいいでしょう」と宣ったとか。当然コルサさんは烈火の如く怒り、金はあるんだからどうにかして彼女を健康体にしろ、戻せ、しかし身体に傷はつけるなと無茶苦茶に暴れた。ぼくはそんな師匠を止めるのに必死で、いちばん辛いであろう彼女の気持ちはまだ慮れずにいた。
「あち、あちち」
 待合室で紙コップのコーヒーに苦戦している彼女は、どう考えたって二ヶ月後に死んでいい人間ではなかった。
 コルサさんは僕の師匠で、美術のイロハを文字通り叩き込んでくださる凄いひとだ。そんな師匠のお世話をするひと、もとい、恋人であるそのひとはコルサさんを唯一振り回したりコントロールしたりできる更に凄いひとで、ぼくはどちらも尊敬している。特に彼女の造園技術は見事で、あれも一種のボタニカルアートだとこっそり思っていた。つくりものでない見事な植物は、師匠もぼくもまったく歯がたたないのだった。
「早く帰りましょうよ、病院は嫌いです」
「ワタシもだ。こんなところにいると病気になる!」
 入院も手術もイヤだという彼女のため、残された約二ヶ月は自宅兼工房で過ごすことになった。もとより住み込みのぼくだが彼女の負担を減らせるよう家事などの手伝いを多めにするようにした。「もう、わたしがやることなくなっちゃうじゃないですか」彼女の笑顔は屈託なく、それはなんだか救われる気持ちになった。
「サボるな! 調色をしろ!」
 しかしそんなときでもコルサさんのご指導は止まらない。アトリエでは毎日大声が飛び交う。けれどその声はいつもより、少し小さく、控えめになったようだった。そりゃあそうだ、恋人が数ヶ月後に亡くなってしまうと知って、落ち着いていられる人間の方が少ない。でもコルサさんは胸を張り、なにもかも平気だといわんばかりの立ち振る舞いでぼくの前に立って作品を作ってみせた。声は小さくても筆の運びや色の選び方は正直で、一ヶ月で作られたペインティングやドローイングは批評家に『ダウナーな一面を改めて見せる、初心に返ったような作品群』とされた。
「確かに、わたしと会う前のコルサさんってこんな作品多かったですね」
 くすくすとその評論を読む彼女を横目に、師匠は「馬鹿馬鹿しいな」と一蹴した。「こんな評、なんの意味もない!」「わたしはコルサさんの作品はぜんぶすきですよ」フン、と顔を背ける。耳が少し赤くなっていた。ぼくが決して入れないふたりの隙間が、とても美しいものに感じられた。
 そうやって三人でいつものように過ごしていた。蜘蛛の糸より細い可能性として、彼女がこのまま生き続ける可能性を信じてみたのだ。特になにを気にすることもなく、いつもの生活リズムで。歩くような速さで、確実に、着実に、ぼくたちは作品を作り続けていった。
 しかしそのリズムが崩れたのは二ヶ月目を迎える前のとある金曜日。いつもは真っ先に早起きするはずの彼女は起きて来ず、まさに「眠るような顔」で旅立っていった。ぼくはコルサさんを寝室に呼び、彼が彼女のなきがらを確認する様子を後ろに、部屋を出た。
 たぶん、彼は泣いていた。いままで聞いたことのない声で何度も何度も彼女の名を読んでいた。喉が裂けそうになるくらい。ぼくはどうしたものか思いつかず、廊下にへたりこんで時間が過ぎるのを待った。
 二時間ほどして、コルサさんはゆっくり出てきた。落ち窪んでいる目はぐしゃぐしゃの前髪のせいで見えない。
「……世話になった」
 掠れた声でそう言い、右手を差し出された。一瞬、戸惑う。握手を求められているのだと気が付かなかった。慌ててぼくも手を差し出し、緩い握手をした。
「……あの、ぼく、」
「――しばらくひとり――いや、ふたりで過ごしたい」
 コルサさんから発せられたとは思えない弱々しい声音だった。それを聞いたぼくは泣きそうになって、もちろんそうすべきであること、呼び戻されるまでは決してアトリエには来ないことを誓った。
 血色の悪い彼の唇は震えていた。なにかかけるべき言葉があったのだろうけれど、ぼくには思いつかなかった。



『コルサ 約二年ぶりの大型個展開催 新境地開拓か』
 ネットニュースで大きな見出しを見つけた。どう考えても美術リテラシーの低いライターが書いたその記事はまったく要領を得ないが、つまり単純にコルサさんが個展を開く、場所は馴染みのギャラリーと、アトリエに隣接した大きな庭園であるという。そうか、ぼくがあのアトリエを去ってからそんなに経つらしい。師匠――いまとなっては師匠と呼んでいいのかも判断できないが、元気になっただろうか。
 その翌日、インビテーションが送られてきた。シンプルなそれには個展タイトルとレセプションの日時、それと一言「見せたいものがある」という癖字が添えられていた。間違いなくコルサさんの字だった。
 久しぶりに会えるという事実に、ぼくはそのときは単純に嬉々としていた。
「ああ? 手土産なんぞ要らんというのに! キサマは客だろう!」
 耳の奥がキーンとした。あのコルサさんに戻っている。大きな声に鋭い目つき、「要らん」と言ったくせにぼくの手から土産のワインを奪ってどっかにやってしまった。
 それにしてもおかしいな、そろそろ時間なのに客がぼく以外に誰もいない。そわそわしていると「キサマだけだ、今日呼んだのは」とぽつりとコルサさんは言った。「本来のレセプションは明日だ。キサマにだけ先に見せたいものがある」インビテーションに書かれていた言葉そのままだ。
 美しいガラス戸と開け、隣接した庭園に出る。ふわりと風が吹き抜け、気持ちがいい。庭園に作品というと例の彫像を並べたようなものを想像したが、目の前に広がっているのは”あの庭”だった。彼女が手入れし、管理していたあの庭によく似た、違うなにかだった。
「苦労したぞ! ここまで育てるのは!」
 高い空に向かってコルサさんが叫ぶ。
「あれは庭を大事にしていたからな、ワタシがそれを枯らすワケにはいかないだろう! ワタシは成し遂げたぞ! アイツごと、庭をアートに昇華したのだ!」
「コルサさ、」
 背筋がぞくりとする。――庭の植物たちはまるで――まるで生きているような造形と瑞々しさだったのだ。風にざわざわと揺れる様子も、コルサさんの言葉に相槌を打っているように思える。
「通夜も葬式も必要なかったのだ! あれは、ずっとワタシの傍にいなければいけないのだから!」
 どんどん声が大きくなって、言っていることもよく分からなくなる。
「これはワタシたちの共作なのだ。時間はかかった。歩くような速さで! 確実に! 進めてきたことなのだ」
 恐ろしさからぼくは動けなくなった。彼は気が狂っているか、狂いそうになっているかのどちらかだった。後退りをすると、いつかと同じように右手を突き出された。以前と違ったのは、封筒が挟まっている点だ。
「ワタシはこれでもキサマを信頼していて、腕も認めている。明日以降読め」
 そして今日は帰れと言われたのでそのまま逃げ出すようにうちに帰った。新作はひとつも観られなかった。



 翌朝目に飛び込んできたのは『アーティスト コルサ氏、自宅で死去』の見出しだった。なにかの間違いかと目を何度も擦る。庭園で、失血死しているのが見つかったそうだ。状況から見て自死、遺書により適切な処置がなされるとのことだ。
 そこでぼくは嫌な予感がした。昨日コルサさんに渡された手紙を破り、大急ぎで読む。
――ああ、もう、最悪だ、思った通り……
 便箋、というにはそっけない真っ白な紙には人間の分割の仕方と、それぞれのパーツをどこに埋めて欲しいかが仔細に書かれていた。間違いなく、あのコルサさんの字で。どうせ遺書には弟子に一任するとかなんとか適当なことを書いていて、最初から全部これをぼくにやらせるつもりだったんだ。
 彼女が死んでから、ずっとずっとこうするつもりだったに違いない。
 悪趣味で、自分勝手で、最後まで芸術家で――ぼくをきちんと認めてくれた、最悪の師匠だった。

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