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217


――ああ、頭がとても痛い。


 白く、靄がかかったような視界。足のつま先やお腹の底はとても冷えていて、右手だけが妙に温かかった。目だけを動かして周囲の様子を窺う。真っ白な部屋。見慣れぬトラバーチン。花瓶。瞬きを数回する。目はだんだん慣れてきたが、知らない場所にいることに変わりはなかった。
 次に頭だけを動かして状況を把握する。わたしは清潔なベッドに横たわり、右手を誰かに握られているようだ。アジサイ色の豊かな髪を湛えた男性が目を閉じ、祈るように丸椅子に腰掛けていた。
「だ、れ」
 掠れた声は怯えているように聞こえただろうか。男性はすぐ顔を上げ、目を大きく見開いた。
 彼はなにか小声で呟き、すぐ戻るからと手を離して部屋を出ていった。白い部屋に残されたわたしは、すぐに頭のなかが真っ白になる。ここはどこで、一体わたしはなにをしているのか――頭が痛い、頭のよく分からないところがとても痛い。
 数分後、彼は白衣を纏った女性を連れ戻ってきた。
 曰く。
 ここは病院。わたしは一昨日階段から落ち、この病院に搬送されてきた。意識不明が続いている間、彼がずっと側にいてくれたそうだ。
「オレは……キミの恋人さ」
 少し目を逸らしながら言う彼は恥ずかしそうでもあった。だが困ったことに、わたしには分からない。名前も、どんなひとかも、わたしたちがどんなお付き合いをしていたのかも、まったく思い出せなかった。
 そう理解した途端、パニックになって悲鳴を上げそうになった。階段から落ちたことすら、覚えていない! ここが病院、という判断はできるのだからすべての記憶を失くしているはずはないが、目の前にいる好青年の名前もなにも思い出せないことが恐怖で、同時にとても申し訳なかった。
「わからなくったって、そのうち思い出すよ」
 遠慮がちに彼が腕を伸ばし、わたしを抱きしめた。とても熱い身体。浅黒い健康的に灼けた肌になぜか安心感を覚え、きっと彼は嘘つきではないのだろうとぼんやり感じた。
「キミはオレをダンデって呼んでた」
「ダンデ……」
「そう、オレはダンデ。キミの恋人、一緒に暮らしてるんだぜ」
「……ごめんなさい」
 よく分からない涙が溢れて止まらない。ダンデに申し訳ないから? 記憶喪失という重い枷が怖いから? 分からない。いまはなにも。
 意識が戻ったからといってすぐに帰れるものでもないらしい。担当医が難しいことをなにやら並べ立て、わたしは少なくともあと二週間はこの白い部屋に留まる運びになった。
 ダンデは毎日面会にやってきた。朝早くから来てお昼まで話したり、一度帰ってまた夕方訪ねてきたり。そのときにきっと前のわたしが好んで読んでいたであろう本も持ってきてくれる。嬉しくて読もうとするが、一日に何錠も飲まされる薬の副作用なのか眠気がとてもひどい。ダンデが来てくれている間もほとんど夢現のような状態だった。それでも「ちゃんと薬飲めて偉いな」と彼は優しく笑いかけてくれる。ちょっと我儘なふりをして「飲みたくない」なんて言っても「一錠ずつでいいから、ほら」と全部飲むまで見守っていてくれるのだ。どうしてわたしはこんなに優しい恋人の存在を忘れてしまったのだろう。悲しくて、――ああ、また頭が痛い。
 彼に抱きしめられると胸の奥がぎゅうっとする。瞼の裏にちかちかと星が舞って、いてもたってもいられなくなってしまう。きっとこれは「ときめき」だの「愛」だの「恋」だの呼ばれるやつだ。わたしはそんなものまで忘れてしまったのか。ダンデは帰る前に必ずわたしの手の甲にキスをする。唇が触れたところはじんと熱くなって、眠りにつくまでその感覚は残った。
「素敵な彼氏さんですね」
 定期的に採血にやってくる看護師さんはにこにことそう言った。記憶がなくったって、彼がいいひとであることに変わりはない。わたしは曖昧に笑って、窓の外の新緑を眺めたり曇り空にため息を吐いたりした。
「ねえ、先生にお薬が強すぎるって言ってくれませんか?」
「なにかありました?」
「ずっと眠くって……あんまりものが考えられないんです」
「なるほど。相談してみますね」
 後日、医師が薬の副作用の説明に来た。ナントカという薬の副作用に悪夢を見る、というのがあるらしい。それのせいで疲れているのかもしれない、でも治療には必要な薬だから上手く付き合っていきましょう、とかなんとか言っていた気がする。熱心に聞いていたのはほとんどダンデだ。わたしは相変わらず眠たくて、彼に手を握られたままなんとなくそれを聞いているだけだった。
「わたしさ、日記とか、書いてなかったのかな」
「はは、キミはそんなマメなひとじゃなかったよ」
 ダンデが大きな口を開けて笑う。白くて、綺麗な歯並び。身だしなみに気を使っていることが一目で理解できる。


――ああ、頭が痛い、頭の奥、脳の奥の奥がずきずきと痛む……


 ふ、と釣られてわたしも笑顔になった。ダンデといると、そわそわしながらも自分を取り戻せている気持ちになれる。
 薬が効いてきて容態も落ち着いたのか、決して悪夢とかいえない夢も見るようになった。身体の大きな男性がわたしを優しく抱きしめてくれ、ふたりでどこかに出かけている夢だ。彼は宝石のように輝く美しい瞳でじいっとわたしを見つめる。わたしは嬉しくて恥ずかしくて、彼の腕にしがみつきながら石畳をゆっくり歩くのだ。ふたりのテンポで。
 夢のなかの彼はきっとダンデだ。ダンデに違いない。それなのに、顔ははっきりと浮かばないのだ。あの健康的な肌、がっしりした体躯、大きな声、快活な笑顔、白い歯、それと――なにか引っかかる、なにか、ピースが欠けている気がする。
 ばくん、と心臓が大きく揺れた。
 わたしはなにかに気づきそうになっている。怖い。真っ白でなにも考えられなかった頃よりも、ずっと怖い。時計を見ると真夜中の一時。ナースコールに手を伸ばし、すぐ引っ込める。中途覚醒はよくあることだ。こんなことでいちいち忙しい彼らの手を煩わせることはできない。
 余分に与えられていた睡眠薬を飲み、殻も捨てずにシーツに包まる。さっきまでの夢の続きを見られるよう願ったが、気がついたときには朝だった。
「あれ?」
 朝の検温に訪れた看護師がその殻に目をつけた。
「ダメですよゴミはすぐ捨ててください」
「あ、ごめんなさい」
「ベッドが汚いとストレスになっちゃいますからね……あれ? これ、処方されてない薬ですね。どっかで混じっちゃったんでしょうか。飲んでないですよね?」
「……飲んでません」
 今度は彼がすみませんとお辞儀をし、発熱がないことを確認して去っていった。
 供された朝食は食べる気になれなかった。はっきりと、わたしの身体になにか起こり始めていた。処方されていない薬の正体は分からないが、あのあとすぐに眠れたから睡眠導入剤の類であることは間違いない。どうしてわたしの手元に? 最悪の想像と、昨日の夢のフラッシュバックで頭がずきんと大きく痛んだ。
「おはよう、今日は熱がなかったみたいだな!」
 小さい花籠を持ったダンデが病室に入ってくる。
 健康的な肌、がっしりした体躯、大きな声、快活な笑顔、白い歯、それと――そうだ、夢のなかの優しい男性は、八重歯があった。
「顔色もいいぞ、よかった!」
 近づいてくるダンデの口元をじいっと見る。矯正したのか、正しい歯並びのお手本のような美しさ。その中に八重歯は、ない。
 思わずシーツを握りしめ、身を縮こめる。
「あなた、だれ」
 掠れた声は、怯えの色を纏っていた。
 ダンデが唇の端を歪め、目を見開く。琥珀の色をした大きな瞳は、夢のなかのパライバトルマリンの彼とは明らかに別人だった。
「だ、れ」
「……オレだよ、ダンデ」
「ちがう、わたしは」
「キミはオレの恋人だろう? また混乱してきたかな。先生を呼んでこようか」
「やめて、やめて! あなた誰、ねえ、やめてよ!」
「大きな声出しちゃいけないぜ。ここは病院なんだから」
 しいっと唇に人差し指をあて、ダンデが花籠をベッドサイドに置く。医者を呼んでくる、と離れていく背中を止めることもできず、わたしは恐怖に涙することしかできなかった。

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