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傷口


 うちから片道だいたい三十分、駅からそんなに遠くない、街灯も等間隔で建っているしコンビニも近くに何種類かある。チャイムを鳴らして返事がなければあらかじめ渡された合鍵で上がりこむ。似たような革靴が並ぶ三和土にわたしの可愛こぶったブーツが参加し、薄暗い廊下に勝手に灯りが点く。
 リビングと寝室を確認してもアオキさんはいなかった。一応キッチンとバスルームも見てもいない。ふつうならもう退勤して、帰宅していてもおかしくない時間だ。この時間に伺いますと事前に連絡したのに、返事がなかったのは仕事が忙しいからか。コートをくるくると脱いでベッドに倒れてみた。わたしもバイト帰りだからちょっと疲れている。グレーのシーツは洗濯したばかりらしく柔軟剤のいいにおいがした。危ない、寝そう、お腹すいた、寝てもいっか、アオキさんまだ帰らないだろうし……なんてふわふわと思っていたらスマホがメッセージの受信を告げる。いま終わりましたという彼らしい簡素な連絡。たぶんどこも寄り道しないだろうから十五分くらいで帰ってくるはずだ。それなら起きていようと思ったのは一瞬だけで、瞬きをした途端わたしは眠気に負けてしまった。
 どれくらい時間が経ったか分からないが、目が覚めたのは膝裏に冷たい指先が触れたせいだった。「ぁ、おかえりなさい」「はい、ただいま」なにしてるんですか、という質問をしようとして、それは冷たい唇に遮られた。キスしたまま器用にわたしのストッキングを脱がせ、自分もスーツを雑に脱ぎながらアオキさんがわたしのうえに乗っかってきた。ネクタイを外しつつ「終わったら飯にしましょう」と雰囲気もなにもないことを言い、少しだけ乱暴になかに入ってくる。慣れているから簡単に悦ぶ自分がちょっと悔しかった。
 アオキさんは辞書で「クソ真面目」を引いたら例として出てくるような人間のくせにセックスは悲鳴を上げたくなるくらい面倒くさい。いきなり始めるのもそうだし、髪を引っ張ったり首を絞めたりするのが趣味だ。わたしが嫌な顔をするのが嬉しいらしく、毎回そういうことをする。最初は戸惑ったが最近はなんとも思わない。むしろ気持ちよく感じてしまう。いつもスーツの下に隠れているしなやかな筋肉が動くのを見るのが好きだ、無表情だけど射精する瞬間には眉間に皺を寄せるのがたまらなく好きだ、低い声で名前を呼んでもらうのが好きだ。
「……、はぁ、」
 全てが終わってから、彼が避妊具の口を結ぶ仕草を見るのも好きだ。最後に比較的汚れていない方の手のひらで頬を撫で、またキスをしてセックスが終わる。アオキさんは唾液がついた唇を親指で拭い、スーツから煙草を取り出すためにベッドから一度離れた。ぎし、とスプリングが軋んで安っぽい音がする。
 燐のにおいの後に部屋中が煙たくなる。いまだにわざわざマッチを使って火を点けるところも好きだ、もうアオキさんならなんでも好きなのかもしれない。本当はセックスが終わってから一服するような男は嫌いなのに。決して芳しいとはいえない香りから逃げるために枕に顔を埋めた。柔軟剤のいいにおい。
「焼き鳥定食とトンカツ定食をテイクアウトしてます。どっちがいいですか」
「……どっちも要らないです。お味噌汁だけちょっとください」
 日付が変わりそうなのにそんなもの食べられない。でもわたしの分まで買ってきてくれたのが嬉しくてうわずった声が出た。
 乱れた髪を手櫛で整えつつ、アオキさんは自分のスマホを見る。「失礼、電話です」「はい、どうぞ」止める理由もないから二つ返事で承諾した。彼が律儀に部屋から出て行く瞬間、冷たい風が吹き込んで身体が震える。
「はい、ああ、どうも、いま家です、自宅、はい……」
 ぴしゃりとドアが閉まった。身体と気持ちを持て余し、毛布に包まる。柔らかくて気持ちいい。またうとうとしかけたらアオキさんが「じゃあまた週末に、ええ、はい、分かってます、じゃあ」と電話を切りながら戻ってきた。
「週末もお仕事なんですか?」
「聞こえましたか、すみません。嫁です」
 嫁です。
 想定していなかった言葉が頭を素通りする。嫁。嫁? 嫁って言った?
「嫁です。妻。家内。今週末来ると連絡がありました」
「けっ……こん、してたんですか」
「はい。随分前に」
 鼓動が速くなる。耳の奥がきぃんと鳴った。――アオキさんって、結婚してたんだ、知らなかった――でも確かにわたしたちは恋人同士だ、などと確認したことはない――さっきまで幸せだったはずの身体が急速に冷え、虚ろになってゆく。不思議そうにわたしを見るアオキさんが怖くて目を逸らした。「単身赴任です、月イチくらいで嫁が来て掃除や洗濯していくんですよ」どうしてそんな当たり前のように言えるのか分からない。
「あの、わたし――」
 やっと絞り出した声は驚くほど弱々しく、泣きそうだった。混乱しているわたしを横目に三本目の煙草を咥えた彼は「鉢合わせなけりゃ大丈夫です」と平然と言ってのけた。
「どうしました、変な顔して。吸いますか」
 差し出された煙草を震える指で受け取る。触れ合ったアオキさんの指先は温くて、乾いていた。

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