ようやく一語、二語話せるようになった息子が寝かしつけのときに「いや」と言うようになった。眠くなくてぐずるというよりも寝ることに怯えているようで、怖い夢でも見るのだろうかと思った。なにか怖い絵本でも読んだかと妻に訊くと「最近はどろんこピカチュウとかはらぺこキャタピーがお気に入りだけど」と首を傾げた。念の為ふたりでそれを確認したが、夜が怖くなるような描写はなかった。 「もしかしてフワンテが来るのかな」 「まさか、この辺で見たことないですよ。それに部屋には入れないでしょう……たぶん」 「今日は寝てくれた?」 「とりあえずは」 妻は紅茶の入ったカップをおれに差し出し「明日はわたしが寝かしつけてみるね」と言った。「いつもお願いしてごめん、ありがとう」「いえ、こちらこそ。いつも家事をありがとうございます」お互いに一礼する。息子がいるのは幸せだ。けれどこのふたりきりの時間がなにより幸福だと感じる。昔のおれがいまのおれを見たら顔をしかめそうだ。 最近刺繍に目覚めた妻はちくちくとクロスステッチでクッションカバーを作っている。 「それなんの柄ですか?」 「これね、前にあの子が描いた家族の絵をそれっぽくしてるの。このグレーのがネズくん。こっちの青いのがわたし。で、ちっちゃいこの丸いのがあの子」 「……カンディンスキーみたいでいいですね」 「あはは、将来は大物かな」 暖かい時間をゆったり過ごしていると、廊下から啜り泣く声が聞こえてきた。そっとドアを開けると大きなぬいぐるみを抱きしめた子が目を擦りながらこっちを見ている。鼻をぐずぐずいわせてまた「いや」を繰り返した。ちょっと困ってふたりで顔を見合わせる。 「わたしが行ってくるよ」 息子を抱き上げた妻が笑った。月並みな表現だが、聖母のようだった。 翌日、保育園から息子を連れて帰ってきた妻が「お昼寝のときは泣かないんだって」と教えてくれた。むしろ他の子よりもよく寝るようで、寝る子は育ちますねと褒めてもらったらしい。 「暗いのが怖くなっちゃったのかな。ちっちゃい電気点けたまま寝かせてみようか」 「そうですね」 画用紙にクレヨンでお絵描きをしながらうとうとする息子を抱き上げ、ふたりで子ども部屋に向かう。また名作を描いてくれたみたいだ。極度に抽象化されたおれと妻が息子と手を繋いでいる絵に見える。ホラー映画ならこの絵のなかに化け物でもいるのだろうが、そんなことはないほのぼのした大作だ。 「この絵もいいですね」 「いいね、ロベール・ドローネーみたい」 などと話して息子をベッドに寝かせる。毛布をかけたらそれまでおとなしかった息子がまた「いや」と言って妻にしがみついた。 「寝るのがイヤ?」 「いや」 「ママと寝よっか」 「……いや」 「パパがいい?」 泣きそうな息子は「いや」としか言わない。もっと話せたらなにが「いや」なのか答えられるのに、お互いにもどかしい。じゃあ寝るまでパパとママがいるからと言うと不安そうな顔でおれの手をぎゅっと握って「うん」と小声で返事をした。 「どうしよう、明日からの出張キャンセルした方がいいかも」 寝かしつけてから妻が腕を組む。 「なんとかしますよ。なにかあったら連絡しますから」 「うーん、ありがとう。三日もだけどよろしくね」 一緒に紅茶を飲みつつ、土産はなにがいいとかそんな話をした。おれの好きな幸福な時間だが、息子のことがひっかかってどこか上の空になってしまう。おれの憂いを察した妻は「大丈夫だよ、絶対」と聖母の顔で笑った。 「こわいのがくる」 妻がいない最初の夜、息子がジェスチャーを交えて懸命におれに伝えた。もっと散らかった言葉だったが要約すると「こわいのがくる」だ。ポケモン図鑑を出してどれが来るのか確認したが、それらしいゴーストタイプのポケモンのページを見せても「ちがう」といやいやをするように首を振る。 「おれがいると来ない?」 「うん」 「どんなやつ?」 「おっきい、こわいの」 手を大きく動かし、なにかその「こわいの」を表現してくれている。手が小さくて腕が短いからただばたばたしているようにしか見えなくて可愛いけれど本人は必死だ。 「たくさん来る?」 「ううん、いっこ、こわいの」 「なにか言ってくる?」 「……ううん」 一階ではないから不審者が覗いてくることは考えにくいが、万が一ということもあるか。「じゃあ一緒に寝ましょうか」座椅子を持ってきて小さいベッドにもたれる。息子はおれの腕にしがみつき、しばらく辺りを伺っていたが少ししたら愛らしい寝息を立てて眠ってくれた。 怖いものが来ると言ったと妻にメッセージを送る。腕にしがみつかれたまま。「ネズくんが一緒に寝てくれるなら安心」とハートマークつきで返信があった。その夜はずっと起きていたが不審者もポケモンもどちらもやってこなかった。息子だけになると現れる何者か。イマジナリーフレンドではなさそうだし、やはり夜というか暗闇に対する漠然とした恐怖だろうか。明け方、橙色の豆電球を見つめながら自分の小さい頃はどうだっただろうか考えたが思い出せなかった。 息子を保育園に預け、日中はずっと寝ていた。息子がクレヨンをこすりつけたソファのアームレストに首を置き、ぐっすり寝た。だから今日が締め切りのエッセイについて担当者が何度も電話をかけてきたことに気づかず、息子を迎えに行きがてら電話口で何度も謝り、日付が変わる前に送りますと相手には見えないのに何度も頭を下げた。おれも随分丸くなったものだ。 猛烈な勢いでキーボードを叩き、その傍ら息子にご飯を食べさせ、風呂に入れ、着替えさせ、クレヨンを持たせて画用紙を与えて、それからまたキーボードを叩く。我が家のアーティストが今度はキュビズムの手法でジグザグマっぽいものを描き始めた。親バカかもしれないが本当にセンスがあるように思える。そのうち絵画教室でも通わせてみようか。そんなこんなであと五時間しかない。 「パパはもう疲れましたよ」 「んー」 息子も目がとろんとしておねむの様子だ。おれも寝てしまいたいがそうもいかない。今日は一緒に寝るのは無理だろう。抱き上げて廊下奥の子ども部屋に連れて行くと「ねない」と駄々を捏ねた。「いい子は寝る時間です」「やだ」「明日はママが帰ってくるから」腕にしがみつかれたままなんとかベッドに押し込む。 「怖いのはもう来ません、大丈夫」 「ほんとに?」 「ほんとです、ほんと」 お気に入りのピカチュウ柄の毛布をかけてあげる。おれの腕の代わりにピカチュウのぬいぐるみを渡し、少しの間ぽんぽんとお腹を叩いてやって、眠りにつくのを待つ。「こわいのくる」「ほら、明るいの点けておきますから」豆電球を指さしてみるが息子は怯えた目をするだけだ。 「じゃあちょっとだけお仕事してくるから、待ってなさい」 「やだ」 「すぐですよ」 少し泣くかもしれないがこれ以上担当を待たせるわけにもいかない。なんとかあやして「すぐきてね」と泣きそうな息子の頭を撫で、急いで仕事部屋に戻った。 「ぱぱいないと、こわいのがくる」 先月のライブのことなんか忘れてしまったが一生懸命捻り出す。あと二千字、千字、五百字、三百……よし、終わりだ。読み返しもせず文字数だけ確認してメールの送信ボタンを押す。書けと言われたことは書いたはずだし、どうせ本当の締め切りは今日ではない。あくびと背伸びをし、水を飲んでから息子の部屋に向かう。もう寝てくれたかもしれない。 こんこん、と小さくノックをしてドアを開ける。「いい子にしてましたか?」小さい明かりに向かって声をかけても返事はない。ベッドに近づきもう一度同じことを言おうとして、ベッドがあった場所になにもないことに気づく。息子もいない。やっぱり寝られなくておれを探しにどこかに行ったのだろうか。慌てて家中を探し回る。リビング、おれたちの寝室、バスルーム、いないとは思うがキッチン。どこにもいない。途方に暮れて、そのあとパニックになる。 妻にすぐ電話をかけて息子がいないとしどろもどろに説明した。家を出て行くとしてもドアノブに手が届かないだろうし、そもそもそれなら廊下を通ったときにおれが気づくはずだ。どうしよう、警察に行くべきだろうか、それとも――おれが全てを言い終わらないうちに妻は訝しげな声で「なに? 寝ぼけてる?」と遮った。 「子どもってなに? 誰か預かってるの?」 「は……?」 「引っ越したばっかだから眠りが浅いんじゃない? あした帰ったら話聞くよ、今日はもう寝るから、じゃあねネズくん」 一方的に電話を切られた。さっきおれに置いていかれた息子もいまのおれと同じ気持ちだったのだろうか。 出張から戻った妻は変わらず「子どもってなに?」だった。そういえばベッドもなくなっているのはおかしい。狼狽えつついままでの全て――息子がいること、最近なにかに怖がってなかなか寝てくれなかったこと、おれたちは三人家族で、それなりに幸せだったことを話した。妻はひとつひとつに相槌を打って「超大作な夢見たんだね」と笑った。からっとしたいい笑顔。 「その……クロスステッチ」 ちょうど息子が描いたおれたちの絵をモチーフにした図案を指したら妻は「これ抽象画っぽくて可愛いでしょ」となんでもなさそうに言った。息子だったはずの小さくて細長い丸いシンボルはなくなっている。 一体どうなってるんだ。あのときおれが仕事なんか無視して息子と一緒にいれば、いままでのままだったのか? いなくなったとしても、記憶ごとどこかにいなくなってしまうものなのか? 息子がクレヨンで落書きした跡が残っていたソファのアームレストを見る。買ったばかりの綺麗なソファだ。なんの痕跡もなかった。 - - - - - - - |