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ALICE and the PIRATES


 記憶にあるなかでいちばん古い本は『いろいろなポケモンとその生息地』だ。絵本と図鑑の中間みたいなその本には所々書き込みがあったから、いま思うとアニキがその昔読んでいたものだろう。ばらばらになるまで読んで、まだ見ぬポケモンと様々な地方に思いを馳せたっけ。飽きずにずっと読んでいるものだからアニキは妹は読書が趣味らしいと思い込み、いつからかあたしへの誕生日のプレゼントは本が恒例になった。いやじゃないし、本はあれば読む。だけどアニキの趣味はそんなによくなくて『ポケモン進化論』とか『ガラル地方における木の実分布』みたいな勉強になるけど読むのが大変なものばっかり。たぶんアニキは読んでも楽しめるんだと思う。あたしは毎年そういうのを受け取りながら、いいアニキなんだけど……とちょっと残念に感じていた。
「やだ、ネズくんって趣味悪い」
 その恒例のプレゼントに文句をつけたのはあたしじゃなく、アニキの友達だった。その年のプレゼントは『化石復元史』。また難しそうな本だなあと顔をしかめた気がする。アニキはもっとしかめっつらで「おまえはこういうの興味ないでしょうけど」と反論した。
「マリィちゃんもないよ。ね、ないよね」
「あ、えと、あたしは……」
「わたしがもっといい本あげるから、これ読まなくていいよ」
 そのアニキの友達、おねーさんは翌日、綺麗にラッピングされた小さい本をくれた。どきどきしながら開封すると緻密な絵がまず飛び込んでくる。次にタイトル――『不思議の国のアリス』アニキは不機嫌そうだったけど、そのタイトルを見て態度を変えた。「へえ、いいじゃないですか」てっきりポケモン関連の本をくれると思っていたからぽかんとして、おねーさんとその本を交互に見た。
「あんな難しい本を読むならこれも読めるよ。すごく可愛いお話だから」
「ありがとう……あの、すぐ読むね」
「いつでもいいよ」
 おねーさんはにこにこして、次に「ネズくんも難しいのばっかりじゃなくてこういうの読みな」とアニキに同じくらいのサイズの本を手渡す。アニキは複雑そうな顔でそれを受け取ってすぐ部屋に戻った。あたしはリビングでおねーさんと少しだけお喋りして、そのあと駅まで彼女を見送った。
 家に帰ってすぐに読み始めた『不思議の国のアリス』は瞬きも忘れるくらいに楽しくて可愛くて、気がついたら晩ご飯も食べないまま寝る時間になっていた。慌ててお風呂に入ってパジャマに着替えてベッドに潜り込んだけど、胸がときめいてなかなか眠れなかった。
 翌朝アニキに「どうせ昨日のうちに読んじまったでしょう」とまた一冊本を渡された。『鏡の国のアリス』と書いてある。表紙も同じ作家の緻密な絵だ。
「あれの続編です。帰って、寝る前に読みなさい。全部終わらせてから」
 アニキが部屋に戻る前に渡されたのはこの本だったようだ。「でもこれアニキの」「おれはもう持ってます。これはおまえの」きっとおねーさんはあたしが一晩で読み終わると分かってて、あらかじめ続編を用意しておいてくれたんだ。そう思ったらまた胸がときめいて、跳ね回りたい気持ちになった。
 自分の気持ちを言葉にするのはあまり得意じゃない。だけどこの感動はどうしても直接伝えたくて、おねーさんに電話で一生懸命お礼と感想を言った。電話越しにおねーさんは笑っていて、あたしはすごく幸せで、初めての感情に包まれたのだった。
 それからおねーさんはなにかにつけて本をプレゼントしてくれるようになった。アリスみたいな小説だけじゃなくて戯曲といわれる(あたしにとっては)新鮮な本や、とにかく可愛くてお洒落な絵本、小難しい研究書までいろいろだ。『シャーロック・ホームズシリーズ』『サロメ』『ロミオとジュリエット』『はらぺこあおむし』『金枝篇:簡約本』アニキも対抗するようにビアズリーの画集やゴーリーの絵本などいろんな本をくれるからあたしの部屋の本棚はどんどん大きくなって、しまいには根負けしたアニキの部屋に一部置かれることになった。
 ちょうどその頃おねーさんとアニキは友達から恋人になって、また友達に戻っていたタイミングだった。友達と恋人の違いはよく分からないけど、アニキは柄にもなく傷ついて『鏡の国のアリス』を読み返していた。そんなセンチメンタルなアニキをみるのは始めてだったから、ちょっとだけ「うげ」と思ったのだった。
「……おまえも大人になったら分かりますよ」
 そのときのアニキの寂しそうな表情は忘れられない。「うげ」と思ったから。ちょっとだけじゃなく、かなり。
 そんな思い出話をしていると、おねーさんが「そんなことより、荷物詰め終わった?」とあたしの話を遮って言う。電話の向こうでおねーさんはなんだかばたばたしているみたいだ。
「うん、だいたい終わったよ。あとは持っていく本を選別するだけ」
「そっか。落ち着いたらおっきい本棚買わないとね」
「そうやね、いまのやつの、二倍は要るかも」
「三倍かも」
 くすくす笑い合う。
 あれからそこそこ大人になって、あたしはおねーさんと一緒に暮らすことになった。ルームシェアじゃなくて、恋人同士の同棲だ。記念日というものを考えるなら、それはきっと『不思議の国のアリス』をプレゼントされた日。あの日からおねーさんはずっとあたしの頭と心のなかをジャックしていたのだ。
「また明日ね」
「うん、またね」
 明日からふたりで選んだ部屋にふたりで住める。昔のように胸がときめいて、飛び跳ねたくなって仕方ない。おねーさんの「またね」を反芻しながら通話を切って、そのまま本棚と睨めっこをする。
「業者が来るの、明日の何時でしたっけ」
 アニキがひょっこり顔を覗かせた。なぜかあたし以上に緊張していて、さっきも訊いたのに同じ質問をしてくる。何度も。だから無視して「アニキの部屋にある本も何冊か持っていくけん、あとでそっち行くね」と声をかけた。「ああ……はい、どうぞ」のそのそとアニキは部屋に戻っていく。
 もともと本以外にあまりものを持っていないから、荷物の過半数は本になった。おねーさんから貰った本もアニキから貰った本も全部手元に置いておきたいから、殆ど持って行く。邪魔になったら(ならないと思うけど)こっちに戻せばいいだけの話だし。
 すっかり箱に収まった蔵書に満足しているとおねーさんからまた電話がかかってきた。もう日付も変わるところなのに、急ぎの用事かな。「はぁい」と出て、「たいへん、マリィちゃん、大変だよ!」と大慌てのおねーさんにまた遮られる。
「わたしたち殆ど同じ本持ってるから、どれをどっちが持って行くか考えないと!」
「え、そうなん? なんで?」
「だって、わたしが読んで面白いと思った本をマリィちゃんにあげてたんだし……」
 初めて聞く事実にあたしは「えっ?」とまた間抜けな声を出した。
「そうじゃなくて、考えようよ。えっと、状態がいい方を持っていくことにしようか?」
 おねーさんは真剣に相談を持ちかけてきたが、あたしは幸せとときめきでぽやぽやしてそれどころじゃなくなってしまった。そっか、おねーさんはあたしの感性と自分の感性が似てるって思ってくれてたんだ。ずっと。最初から。なんでだろう。分かんないけど嬉しい。やっぱりあたしたちの記念日は『不思議の国のアリス』を手渡されたあの日、あたしの誕生日の次の日だ。
 たぶんあたしはとびきりの笑顔でだらしなく電話をしていたんだと思う。部屋を覗きにきたアニキは「うげ」という顔つきをしていた。

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