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雪女


 急に吹雪始めた夜道はあっという間に見慣れない光景になった。元々土地勘のある場所ではない。やはりこの時期に単独でコトブキ村からシンジュ集落まで行こうとするのは無謀だったようだ。案内人を頼むべきだった。いまさら悔いても六日の菖蒲、十日の菊。一面が白銀の世界になり、オレはたったひとり途方に暮れた。目印になるものを探そうとしても睫毛に雪が積もり瞬きもままならない。寝たら死ぬぞと自分に言い聞かせ、重い足を動かして前へ前へと進んでゆく。方向感覚は既にない。
 民家はないか。山小屋でもいい。川が近ければ船頭小屋でもあるはずだが――自分の鼻先さえ見えない真っ白な世界ではそうそう簡単に見つかりはしなかった。急ぎの用事があるというのに、困り果てる。
 無闇に歩き回っていた足を止めたのは遠くに橙色が見えた気がしたからだ。火に違いない。これ以上目標もなく歩き続けたら死んでしまうので灯り目指してまっすぐに歩く。
 はあはあと息急き切って辿り着いた先は質素な庵だった。橙色の正体は舶来物の照明が心細げに灯された火で、よくこれに気づいたなと感心する。
 這入口と思しき戸を数回叩く。「吹雪で迷っちまった。休ませてくれ」中から返事はない。もう一度叩こうとしたら戸が開き、前髪の長い女が現れた。白い肌、白い着物、短刀を手にしている。一瞬驚いたが護身のためだろう。
「ああ、セキさん」
 女は短刀を構えたまま柔和に微笑んだ。
「寒かったでしょう。どうぞお入りください。ちょうど夕餉にしようと思っていたところなんです」
 招き入れられた庵のなかは暖かく、囲炉裏には薪が焼べられている。濡れた蓑を預け、感覚がなくなりかけていた手足をさすった。生き返る心地だ。
「粗末なものですけど」
 茸や野草がふんだんに煮込まれた羹を取り分け、手渡される。漆塗りの椀から食欲をそそる匂いが立ち込め、途端に腹が鳴った。
「なんでこんな寂しいとこに住んでるんだ?」
「ここで生まれたからです」
「危ないんじゃねぇか、女ひとりだと」
「そうですね、たまに」
 女の言葉は波風を立てないような、凪いだものだ。表情は崩さず、薄い唇をあまり動かさず、淡々とオレの問いかけに答える。用意していた返事をそのまま寄越しているみたいだ。
 舌を火傷しそうなほど熱い汁を啜っているのに背中にぞくぞくと寒気が走る。「夜通し吹雪くみたいです」女はまた淡々とそう言った。シンジュ集落はここからどれくらいかと尋ねると、首を少し傾げただけでなにも言わない。この吹雪だから読めないのか、本当に分からないのかは計れなかった。
 悲鳴のような音が外から聞こえる。かなり風が強いみたいだ。落ち着いたとはいえ、こんななか出て行くのは流石に恐ろしい。
「泊まって行ってください。明日は晴れますよ」
「……あんた、オレの心が読めるみたいだな」
 にこり、女は稚い笑みを浮かべた。ふたりでいるのに、ひとりで話しているみたいに手応えがない。不安と恐怖が孤独感を募らせるのかもしれない。
 用意された布団は一組だけだった。「ごめんなさい、先日もうひとつあった布団を処分してしまって……」こんな美人と同衾できるのは願ってもない状況だ。下衆な考えを悟られないよう「オレは起きてるからいいぜ、あんたが寝てくれ」と強がってみた。彼女の緩んだ襟元に目が行かないよう、どこでもない場所を見つめて。
「いいんです、ふたりで寝た方が暖かいじゃありませんか」
 女がオレの肩に手を置く。冷たい手だ。「ねえ、暖めてください」どうしてこんなに指先が冷たいんだ。ずっと火のあるところにいたのに。
「セキさん」
 後ろから抱擁され、甘やかな声が鼓膜を揺らす。
「セキさんの髪はとっても綺麗ですね」
 首筋の和毛を擽りながら女が囁いた。それを合図にしたように、囲炉裏が消える。なにか言おうと振り向いたら唇に唇が押し当てられた。剃刀みたいにうっすら冷たい唇だ。何度か接吻を繰り返し、薄い布団のうえに押し倒される。
「いいの、全部わたしがしてあげるから」
 恐ろしい美貌から放たれる寒々とした睦言に身体が熱くなる。不気味な事態なのに何故か心は安らいでいた。女があやすように優しく触れるからかもしれない。冷たい吐息と温い吐息が混ざり、しんしんと冷えた部屋に浸む。
 戸の隙間から月明かりが洩れる。吹雪は収まり、こんこんと白い雪が積もるだけだ。
 温まった身体の隅々を暴いたにも拘らず、女の全身はまだ冷たい。氷そのもののように冷たく、閉ざされた肉体だ。
「セキさん」
 布団からはみ出した指先がかじかんだ。それを察した女が手を掴み、そのまま食む。喉の奥に届きそうなくらいに口に含み、指の付け根を強めに噛んだ。「……っ」ちりちりとした痛みがまた快い。女の手は氷菓子みたいにひんやりとしている。そのせいで、繋がった箇所だけが焼けるように熱い。
 白い身体が雪兎のように跳ねる。仰け反る喉を見つめ、いつか聞いた怪談を思い出す。あの話だと主人公はどうなっていただろう――思い出せない。
「セキさん」
 細い声がまたオレの名を呼ぶ。頭がぼうっとして、眠気さえ感じた。
 女の唾液に濡れた唇が吊り上がった。嗤っている。女の名を呼ぼうとして、なにも知らないことに気づく。
「あんたは誰な、ん……」
 オレの果敢ない言葉は接吻に奪われ途中で霧散した。

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