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キノフロニカ


「はぁあ、あっちぃなぁ〜」
「エアコンの真前に陣取っておいてそれはないっすよ」
 背伸びをしながらため息と共に呟いた独り言はすぐリーグスタッフに捕まえられた。省エネモードという名前で二十八度に固定されたエアコンしかないロッカールームは男がふたりいるだけで十分生ぬるい。外に比べれば幾分かマシかもしれないが、仕事でもなければ長居したくなるものでもなかった。
「キバナさんの髪いいっすよね、涼しそう」
「楽だしな、パクっていいぜ」
「いや、俺は主義で伸ばしてるんで」
 そう言いながらスタッフは手首の黒いゴムで手早く髪を括った。鎖骨くらいまで伸びていた茶髪がくるくると手際よくポニーテールになる。蛍光灯の反射で天使の輪ができた。結構な毛量があるが、綺麗に手入れされている髪だ。
「オレうなじフェチなんだけどさ」
「えっ、あの、俺はそんな」
「違うオマエじゃない、聞けよ」
 一連の仕草を見ていたら最近気になっている女の子を思い出した。女の子、って歳でもないかもしれないけど。
 一度ダンデと好奇心でシーシャラウンジに行った。お互い「興味はあるがひとりで行きたくない」という情けない理由だった。どうやっても目立ってしまうオレたちを個室に案内した無愛想な店員がその女の子だ。暗い店内に濃いメイクで年齢は分からない。もしかしたら歳上かもしれないがそれはどうでもよかった。その店も省エネかなんだか知らないがやけに暑くてほとんどの店員は髪を括り、ツインテールやポニーテールを揺らしていた。オレは咳き込むダンデを横にずっとその子を眺めていた。ダンデさえ髪を雑に束ねているのにその子だけはずっと髪を下ろしたままだったのだ。
「怖い話しようとしてます?」
「変な合いの手入れんな、違うから」
 暑いせいか無意識のうちにその子を呼びたかったのかオレはやたらと酒を飲んだ。グラスが空くたびにその子を呼んでメニューにある酒を上から順に頼んで行った。味は覚えていない。勢い余ってボトルまで入れて、その子がネームタグにオレの名前を書くのを茹った頭でぼんやり嬉しく感じていた。横ではダンデが完全に終了していた。
 それから週に一度は誰かを連れてそのラウンジに行くようになった。ホップを連れて行こうとしてダンデに本気で怒られたのは先々週だ。ネズには「趣味じゃねぇ」と一蹴された。ネズはああいうところが好きそうだと思ったが、違ったようだ。マクワは二度連れて行った。アイツは意外と酒に強くて張り合いがある。
「じゃあ今日は俺を連れてってくれるってことっすね」
「二時間後にエントランスな」
「デートみたいっすね!」
「やめろ!」
 酒を飲むだけならあのラウンジに行かなくてもいい。あの子が無感情な顔でオレの声を聞いてくれるあの空間がいいのだ。いつものオレならすぐに口説いてやることをやるのに今回はそんな気になれない。いつまで経っても慣れないあの店がそうさせるのだろうか。どう声をかけたらいいのかも分からない。名前を訊く? 何時に上がるか尋ねる? もし声をかけたとして、オーダーのときと同じ顔をされたら次はどうしよう。笑ってごまかすか? あの場に行くと中学生の頃と同じような気持ちになってしまう。
「へぇ、ここってシーシャ屋だったんすね、入りましょうか」
 からんからん、とドアにつけられた安っぽい鐘が鳴る。コントの入りのようだな、と思った。
「こんばんは」
 ぎりぎり聞こえるくらいの声で応対してくれたのは例の子だった。オレを見て、次に茶髪のスタッフを見る。そしていつもの個室に案内してくれた。今日も蒸し焼きになりそうなほど暑いのに長い髪はそのままだ。オフショルダーの黒いワンピースがセクシーで見惚れてしまいそうになるのを懸命に堪えて平然とした顔つきを作る。どうせ誰も見てないのに。
「この店暑くないすか」
「言ったろ」
 ロッカールームと同じくらいの温度感だ。生ぬるく、不快というほどではないが心地よくもない。そんななか、今夜も最初の日と同じようにメニューの上から順に酒を頼む。味は分からないまま。あの子を肴にしているようで我ながら気持ち悪い。
「ようでっていうか、まんまっすね」
 口から白い煙を大量に吐き出しながら茶髪が笑った。
「たぶんあれっす、女の子が露出多めの格好してるからエアコンそんなに効かせてないんでしょうね。寒いと可哀想じゃないすか」
 ああ、なるほど。言われてみれば他の店員も肩や脚をよく出している。あの子以外をそんなに見ていないものだから気づかなかった。「まあフツーは客第一だと思うんですけど」また白い煙が舞う。「ここ珍しいっすね、紹興酒がある。頼んでいいすか」「……オマエ割と楽しんでるな」「キバナさんの金すから!」「あーはいはい、好きにしてくれ。全額は出さねえぞ」ガラス越しに見えるあの子は相変わらずの表情だ。肝心のシーシャを楽しまない変な客に思われていたらどうしようなどと心配していたが、あの雰囲気だとそもそもオレというものに興味がなさそうだ。誰も寄せ付けない、孤独を愛するひとに見える。寂しいような有難いような。
「もしあの子のうなじが見れたら全部持ってくれます?」
「は?」
「だから、俺があの子に髪を括ってもらうよう頼んで、それが成功したら全額奢りでっていうことにできないすか?」
「……好きにしろ」
 心臓が跳ねたのを悟られなかっただろうか。顔を背けたら視界の端っこで彼が立ち上がる気配があった。ふらふらと、でもしっかりとした足取りで個室を出る。トイレにでも行くつもりだろう。目を向ければあの子と話している様子が見えてしまうかもしれないからずっとなにもないところを見つめていた。いつの間にか頼んでいた赤ワインは美味くなかった。
 数分――体感では数時間後、へらへらと笑った茶髪が戻ってきた。成功したのか失敗したのか読めない。なにも言わないでいるとスマホのディスプレイをこちらに向けて「いやあ、今日はありがとうございます」と勝利宣言をした。思わずドアの向こうのあの子を見る。髪はそのまま、つまらなそうにどこか遠くを見ている。
「縛ってはくれなかったけど、うなじは撮りましたよ」
「うわオマエ……キモいな……」
「見ないんすか?」
「見る」
 即答したオレもかなり気色悪い。
「タトゥー入れてるからうなじ出さないんですって。可愛いタトゥーだと思うんすけど」
 そう言いながらひび割れたディスプレイが明るくなる。写真を撮ったのかと思いきや動画だ。驚くのと呆れるのとで口がだらしなく開いた。ブレブレの動画はあの子が嫌そうな表情で後ろを向き、片手で髪を纏めて少し持ち上げてうなじを晒したところを収めていた。
「なんだこれ?」
「小鳥です。口を開けた小鳥。それとなんか文字が書いてあったんすけど、なんだったっけ、忘れました」
 画面の中のあの子は再び髪を下ろし、不機嫌な顔つきでなにか言った。声は入っていない。
 口を開けた小鳥。なにか意味があるのだろうか。ミステリアスなところがますます気になる。くらくらしてきた。楽しそうにシーシャをふかす茶髪の隣で、今日はオレが終わってしまった。



 翌日、生ぬるさを維持したロッカールームでひさしぶりにネズとふたりになった。コイツはどんなに暑くても汗をかかない。身体も青白いし幽霊のようだ。
「なんですか、ひとの顔をじっと見て」
「暑くね?」
「ふつうです」
 いつもと同じ長袖ジャケット、ごついブーツ、どうしてこれで汗をかかないのか。代謝がぶっ壊れてるんじゃないかと思う。
「グローブ新しくした?」
「よく気づきましたね。前のは穴が空いちまったんで新調しました」
「だよな、もっとボロかった気がしたし」
「おれは物を大切にするんです。今日初めて使ったんですがサイズが合わないのか靴擦れみたいな傷ができて困ってんですよ」
 ネズはぶつくさ言い、グローブを外した。指と指の間が赤く腫れている。でもそれよりオレの目を引いたのは、
「オマエそんなとこにタトゥーあったんだ」
 手の甲のド真ん中に描かれたなにかをよく見るために腕を掴む。「離せ」とネズが文句をつけたが無視した。
「え、あれ? これ、」
 青白い皮膚のうえで赤い実がついた小枝を咥えた鳥が羽搏いている。その傍らにはシンプルなフォントで見慣れない文字列。口の中で声に出さず発音してみて人名だと判断する。
「離せって」
 ネズは冷たく言い放ち手を払い除けた。見られたくないのかオレに手を掴まれたくないのか随分力強い。でももう見てしまった。しっかりと。
 頭の中で昨日見た動画が再生される。昔の映像みたいに色褪せて、音はぼやけている。あの子のうなじにいる口を開けた小鳥。読めないけれど添えられた文字はきっとネズの名前だ。
「半年くらい前に入れたんです。見せびらかすようなもんでもないでしょう」
 なんだかネズのぼやく声も曖昧に感じる。古いラジオから流れる音声のようだ。
「ああ、いや、似合ってる……」
 オレの呟きは本心から出たはずだが、負け惜しみのようにも聞こえた。それに対してネズが珍しい表情を作る。唇が歪んでいた。
「ところでおまえ、最近シーシャにハマってるようですね」
 ちかちかと明滅する視界で、あの子とネズの姿が重なる。たぶんネズはこの手であのうなじに触れて、あの子は喜ぶ。笑顔を見せる。孤独を愛する無感動な表情なんてネズは見たことがないのかもしれない。鮮明に思い出せるはずのあの子の姿が遠くなる。
 鼓動の奥で氷が割れるような感覚があった。恋が始まる前に潰えたと気づくのに数分かかった。

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