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戦え! 何を? 人生を!


「大丈夫ですか」
「急いでますから」
 最初の会話はそれだった。いま思うと会話として成り立っていない。スピードを出した真っ赤な車に正面から戦いを挑もうとした彼女の腕を掴んだのが始まりの始まり。危うく人を殺しかけたその車は怒鳴りつけるようにクラクションを二度鳴らして通り過ぎた。死に急ぐとはこういうことかと感心した覚えがある。文字通り、だ。
 彼女は午前二時の夜空よりも昏い目でじいっとおれを見た。
「もうすぐだったのに」
「死ぬのは勝手ですがおれを第一目撃者にしないでください」
 咄嗟に出たのは自殺志願者にかけるには冷たいと思われる言葉だった。「話は聞きます、うちに来ませんか」フォローのつもりで続けて発した台詞はどう考えても弱みにつけこむ汚い男のものだ。おれは自分のアドリブ力のなさに些か絶望した。
 道路に直接ぺたんと座っていた女はもう片方の手をおれに差し出した。立ち上がらせろということらしい。軽く引っ張ったらナナフシみたいに細い身体がゆっくりおれの隣に並んだ。
「死ななくちゃいけないんです」
 おれはそれに明確な返事をしなかったと思う。女はうちに着いても大した話はしなかったし、おれの酒とおれの薬を飲んでソファで寝てしまった。連れ込んだ女とセックスしなかったのもそれが初めてだった。
 次の日から彼女は当たり前のようにおれの家に居着いた。仕事は昨日辞めて部屋も引き払って本当にあとは死ぬだけだったそうだ。それを止めたおれには責任があるということで、その理屈は分からないでもなかったのでおれも頷く外なかった。
 死にたい気持ちにしても理解できないわけではない。おれにもそういう時期はあった。たぶん彼女と同じ年齢だった頃。唯ぼんやりとした不安に苛まれたおれは文豪ぶって周囲との連絡を絶ったり引きこもって霞を食ったりしていた。死ななかったのは結局、歌っていたかったからだ。なにを聴いても読んでもマシにならなかったが自分で詩を書いて歌うと救済になった。おれの人生はそうやって戦うのが正攻法だったのだろう。おまけにそれで食えるようになったので有難い話だ。
 そういう話を彼女にもしてみた。相変わらず昏い目でそれを聞いては「でもそれはネズさんの話だからね」とつまらなそうに言うのだった。「とにかく、戦ってみるのもひとつのやり方ですよ」「面倒くさいです」丁寧だったりぞんざいだったりする彼女の話し方はとても好ましかった。
「すぐ来てください」
 打ち合わせ中に苛立った声で電話がかかってきて偉い人たちに頭を下げて指定された場所に向かう。大通り沿いの昔からある薬局で彼女が薬剤師と喧嘩していて、よく聞くと「シアン化カリウムを売れ」「無理です」「じゃあ硫酸タリウム」「それも無理です」と彼女が無理難題を押し付けているに過ぎなかった。おれに気づいて「この人全然わたしの話聞いてくれない」と文句を言うので「すみません、ちょっと混乱してるんです」と取り繕って店から出す。もうこの薬局には来られないなと思った。それから毒物や劇物は法律で厳しく管理されているのでふつうの人間にはなかなか買えないことを教えた。彼女は少し考え込んで「分かりました」と小さく答えた。ひとまず安堵したが、早く人生の戦い方を教えなければとおれも考え込んだ。
 別の日はライブが終わって真っ直ぐ帰ると彼女が裸のマハの如く優雅にベッドに横たわっていた。白かったシーツがじっとりと赤く染まっていたので慌てて救急車を呼ぶ。救急隊員はおれたちの関係などをしつこく訊いたあと、汗くさいおれに向かってあからさまに嫌な顔した。「彼氏さんも一緒に来てください」「……ああ、おれですか、すみません」おれは恋人だったのか。また嫌そうな顔をする隊員の隣に座り、揺れる車内でぼんやりと死にたがりの青褪めた顔を見つめていた。医者の話によると彼女のタータンチェックめいた腕は傷は多いものの筋肉や神経を痛めてはいないらしい。白くて細い腕をやがて溶けるという黒い糸で縫い、医者は精神科を勧めてくれた。紹介状を受け取り、おれはいつかと同じように頷くよりなかった。
 彼女の死にたい意思が案外強いと悟ったおれは極力家で仕事をするようになった。ライブは仕方ないができるだけ減らして彼女の傍にいるようにした。おれが家にいることが増えても彼女は特に気にしている様子もなく、部屋の隅やベッドに座っていることが多かった。時々、「今日は寒いですね」とか「お腹空きました」と言って冷蔵庫を開けに行くくらい。その度におれはほっとするのだけれど、同時に不安にもなった。驚くべきことにいつの間にかこの面倒臭い女がおれにとっての生きる理由になっている。おれの存在は彼女にとって生きる理由になっているだろうか。
 戦え、と何度か言った。その度に彼女はなにを?と鬱陶しそうに応える。「ネズさんは戦えばいいよ。わたしはもう嫌なんです、疲れたの」その理由はずっと語らないのだから狡い。
 一緒に寝るようになって暫く経った頃、夜中に大きな物音で目が覚めた。土嚢を落としたような音だった。隣で寝ていたはずの彼女の姿がない。訝しみながら音がした方へ行くと小さい身体が床に蹲っていた。夢遊病かと思いきや首に麻縄が巻いてある。「大丈夫ですか」「……お尻痛い」今度は天井の梁で首を括ろうとしたが結び方がなっていなくて解け落ちたようだ。この死にたがりは本当に詰めが甘い。おれは呆れながらも彼女を引っ張り上げて寝室に戻した。「死にたいならもっと上手にやればよかったんですよ」彼女はおれの言葉に一瞬だけ目を丸くし、そして笑った。「ネズさんの言う通りだね。下手くそだった、ごめんなさい」そんな笑顔は初めて見る。胸が締め付けられる気持ちでいっぱいになって、思わず彼女を抱きしめた。それ以上のことはしなかったが、とにかくこいつを死なせてはいけないとまた強く感じた。
 それからも彼女は何度も自殺未遂を繰り返し、おれが止めて病院に連れて行くことが続いた。果たして本気で死ぬつもりなのかおれを弄んでいるのか最早分からない。そんな風に考えながらおれは顔馴染みになってしまった医者の「措置入院という方法もありますが」という言葉を聞いていた。
「わたしが死んだらネズさんは悲しいの?」
「悲しいです。辛いです」
「そうですか」
「だから死なないでください」
「うぅん。分かりました」
 最近彼女はおれの曲を聴くようになった。お気に入りは恋の歌らしい。おれに興味を持ってくれたのは喜ばしいことだ。「それならきみのために曲を書きます」と言うと彼女は曖昧に微笑んだ。





 ネズはそうやって長い長い前置きを終えた。新曲を演りますと言ってからもう何時間も、何ヶ月も経ったような気分になった。実際には長くても数十分のものだろう。それでも異様だが。
「そういうわけで自殺未遂を止めた彼女に捧げます」
 フロアがざわつく。ネズは「戦え」「なにを?」「人生を」とシンプルなフレーズを狂ったように繰り返し、喉が血が出るほど叫んだ。それは歌というよりも「彼女」相手に言い聞かせているみたいだった。それに、ネズは泣いていた。本人は認めないかもしれないけれど、確かに泣いていた。そんなネズを見るのは全員初めてだったのでどんな風にその歌を聴けばいいのかも分からなかった。ただ理解できたのは、その「彼女」は自殺未遂を止めたのではなく自殺を成功させたのだろうなという事実だけだった。
「人生を戦え」
 虚しく響く掠れ声が、妙に耳の奥にこびりついた。

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20220424*藍崎さん
リクエストありがとうございました!