強くなくてもいい、ただ、自分の役割を見つけて全うすればいい。リーダー――セキのアニキから教えられたのはそういう生き方だ。ここヒスイでは皆が何某かの役割を持っている。そうでなければ生きていけない、生き残れないからだ。ボクがキャプテンという地位を受け入れたのも、生き残るためだ。ムラではまだまだ解明されていない生き物の脅威に怯えながらも人々は安穏と暮らしており、平和そのものに見えた。 その賤家に気づいたのはキャプテンになって数日経った頃だ。どこぞにお守りを落としたから探してほしいと子どもに泣きつかれ走り回っているときにふと目に留まった。長屋の裏手にぽつんと立っているそれはお世辞にも賑わっているとはいえないムラのなかでも一際鄙びて見える。農具を入れておく小屋だろうか。ボクは好奇心ともいえないただの興味でその小屋に近づき、覗いてみた。板と板の隙間から見えたのは緋色の襦袢と、そこから突き出た白い手脚だった。生きているのか死んでいるのかは分からなかったが、とにかく人間だ。想定外のものに腰を抜かす。手をついたところにちょうど、子どもが探しているという石のお守りがあった。 「ツバキにいちゃんは、おばけ怖くない?」 お守りを返してやったとき、ぽつりとその子どもが呟いた。「このツバキに怖いものなんてあるもんか」ボクが少し馬鹿にした風に答えたら別の少年たちが「でもおれたち見たんだぜ」「ムラの端っこにおばけが住む家があるんだ」と口々に捲し立てる。 「怖くないならにいちゃんが捕まえてきてよ」 そういうわけでボクはまた同じ襤褸小屋の前にいた。日はすっかり暮れていて辺りには誰もいない。子どもたちの話ではこの家の中に住んでいるのは若い女の化け物で、目を合わせると食われるとか声を聞いたら聾になるとか注意するよう言われた。確かに気味の悪いところだとは思う。 呼び鈴のようなものはなかった。戸らしき箇所も見当たらなかったので適当なところをこんこんと叩いてみる。 「はあい」 若い女の声がした。あの襦袢を纏っていた女だ。生きていたのだ。途端にボクは緊張してしまって次の言葉が出せなくなった。あの、とか、その、とかもごもごしていたら、すぐ右隣の板がぎいと音を立ててゆっくり開いた。そこが扉だったのか。女は「あれ、ええと、コンゴウ団の、誰だったっけ」ボクを指さして、首を傾げた。「ツバキ」ボクはいちばん簡単に自己紹介をして、なかに入ってもいいか訊いた。女はにこりと笑い、どうぞと言った。 小屋内は外側ほどひどいものではなかった。土間に囲炉裏があり、奥にはさっきまで彼女が寝ていたであろう布団が敷いてある。 「セキさんから?」 質問の意味が理解できなくて押し黙った。「違った? じゃあラベン博士かな」女はまた首を傾げ、着ている浅葱色の襦袢に手をかけた。よくよく見ると、思ったよりも若そうだ。ボクと同じか、少し上くらいの年齢だろう。細長い首は生っ白くて、月の光に映えて眩しいくらいだ。細い指先は少し乱暴にしたら折れそうなくらい。水の溜まりそうな鎖骨が露わになったところでようやくボクは我に返った。 「ちょっと待って、なにしてるんだよ」 「ああ、脱がせたいの? どうぞ?」 女は腰紐を解きながらくすくす笑っている。様子がおかしい。ボクは本当に食われるのだろうか。そう感じて後ずさる。 「おまえ、なんなんだ」 辺りを見回してもこの女がなにで生計を立てているのかが読めなくて混乱する。この女は異物だ。ムラにいていい生き物じゃない。 「セキさんから聞いてないんだ」 着物を脱ぐ手が止まる。女はまだ笑っていた。 「じゃあ教えてあげるね。わたしは、このムラで唯一、わたしにしかできない仕事をしてるんだよ」 分からない、なにも思いつかない――ボクは女を見下ろして少し震えていた。 「世界最古のお仕事。分かったらまたわたしのところに来てね」 女は襦袢を半分脱いだままボクの手を取り、戸口に導いた。「またおいで」と聞こえるのを背に、ボクは家に帰った。 「おばけなんかいなかったよ」 翌日、子どもたちにはそう伝えた。「でもあの小屋には近づかない方がいいぜ」「なんで?」「なんでも」「へんなの」口答えをしても子どもたちは素直に言うことを聞いてくれた。 それからボクは悩んだ挙句デンボクさんに頼み込んで本部の図書室で古い文献を次々に読んだ。世界最古の職業。当たりをつけたのは「身体ひとつでなんとかなるもの」だ。となると盗賊や兵士になるのだろうが、女はそのどちらにも思えなかった。占い師も考えたが、あの部屋にはそれらしき道具はない。諦め半分で巻物を紐解いていたら〈巫女〉の文字が目に飛び込んできた。神のお告げを聞く者。つまり――シンオウさまに関係する仕事か。それならアニキと面識があるのも納得できる。「これだ!」思わず叫んだボクの後ろで博士がびくりとした。 空が真っ暗になるのを待ってまたあの粗末な家の前に立った。戸を叩くと女はすぐに出てきた。今夜は橙色の襦袢を身につけている。 「昨日ぶりだね、いらっしゃい。ええと、」 「ツバキ」 「そうそうツバキくん」 ボクをこの部屋にひとつしかない座布団に座らせ、自分は畳に直接座ったまま囲炉裏に木屑を投げ込んだりぱたぱたと扇いだりしている。 「あんたの仕事が分かったんだよ」 「早いね、勉強熱心なんだ」 「あんたはたぶん――シンオウさまの声を聞ける、唯一の人間なんだ。だからアニキとも知り合いで、」 囲炉裏の炎がごうと勢いを増した。女の輪郭が浮かび上がる。にた、と笑っていた。紅い唇がゆっくり動く。「違うよ」ボクは唾を飲み込む。やけに喉が渇いて仕方ない。 昨夜と同じように彼女は襦袢を脱ぎ始めた。今度は止める隙もないほど速く。曝け出された身体はせせらぎのように澄んでいて、それでいて艶かしかった。 「答えを教えてあげる」 手招きされ、何故か逆らえずに裸体の彼女の傍に寄った。細い腕がボクの首に甘えるみたいに絡む。まつ毛がぶつかるほど顔を近づけた。「わたしはね、わたしでいることがお仕事」耳元で囁かれた言葉が脳髄の奥深くまで滲み渡る。女の表情は明らかにボクを誘っていた。耳朶が柔らかく食まれ、頭の奥がぐずぐずに蕩けてしまう。気がつくとボクは彼女の身体に押し入り、獣のように腰を振っていた。こんなの知らないはずなのに頭がおかしくなるほど気持ちよくて、果てても尚彼女にしがみつく。満足した頃には明け方近くだった。外の空気は澄んでいる。 「今日はお金は要らないよ、気をつけて帰ってね」 その言葉に手を伸ばしかけて止めた巻物の付札の文字を思い出した。あれは確か〈娼婦〉だ。 「またおいで」 うっすらと明るくなる空を嫌がるように女は小屋の中からボクに声をかけた。振り向く。板の隙間から玻璃のような目が見えた。 あの女はきっと強くない、ひとりでムラの外に出たら死んでしまうのだろう。そうして見つけた生き方を蔑めるほど、ボクは立派な人間ではなかった。 - - - - - - - |