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ハッピーハニーキス



 学生の頃から数年勤めていた名画座が潰れ、なんとパチンコ店になった。オープニングスタッフを頼まれたが冗談じゃない。あんなやかましいところで働いた日には耳が頭か、その両方がおかしくなってしまう。薄ら笑いでそれを断り、とりあえず姉に「無職になっちゃった」と電話した。ただの近況報告で深い意味はなかった。しかし姉は渡りに船といった様子で「あらあらまあまあ」と嬉しそうな声を出し、次いで「じゃあうちの近くの古本屋でバイトしない? ご夫婦でやってるんだけど旦那さんが腰いわしちゃって、誰か頼めないかって話聞いたとこなの」「あの辺古本屋とかあるんだ。でもうちから遠いし」「っていっても一ヶ月かそこらよ、そのあいだはうちに泊まればいいじゃない」「……あのねえ」これが姉のひとり暮らしならわたしもふたつ返事でオーケーする。ところが姉のいう「うち」とは彼氏とふたり暮らしの、それも半年前に同棲を始めたばかりの、極めつけにタワマン高層階なのだ。
「そんなの気まずいよ……」
「部屋なら余ってるの。ダンデはここんとこ忙しくて寝に帰ってきてるみたいなものだから、そんなに顔は合わせないと思うし」
「……部屋が余ることあるんだ……」
「ダンデがどうしてもここがいいって言うから」
「ふーん、あんまり職場から遠いと帰れなくなっちゃうもんね」
 わたしの冗談はあながち間違ってもいなかったようで「そうそうそうなのよ」と姉が相槌を打つ。
「いつから来れる?」
「いつでも」
「じゃ明後日にでもうちに来て。奥様にお話ししとくわね。服はわたしのを着ればいいから身分証だけ持ってきてちょうだい!」
 そうまくしたて、姉は電話を切った。口数が多かったように思う。たぶん、ダンデさんが忙しいのは本当で、話し相手がいなくて寂しかったのだろう。どうせすぐ仕事が見つかるわけでもなし、姉孝行してやるか。そこで長く働けるようになれば引っ越せばいいのだし。姉と同じくあまり物事をややこしく考えないわたしは夜には荷造りを済ませ、翌日にはトランクひとつで姉とその彼氏が住まう目も眩むような家賃の部屋に上がり込んだのだった。
「ここがキッチン、自由に使っていいから。これがわたしの部屋、あそこがダンデの部屋で、作業部屋があっち、あなたの部屋はそこね」
 結婚と子育てを見越して選んだと思われるその部屋はまるで生活感がないよう見えた。姉も姉で忙しない毎日なのだろう。キッチンなんか殆ど使ってないようだ。「バスルームも好きに使って。今日の夜、ダンデに挨拶だけお願いね。何年ぶり?」「うーん、三年前に家族でお食事したとき以来かな」「あら、顔覚えてる?」「先月も雑誌の表紙でお見かけしました」姉は嬉しそうに笑ってわたしの肩を叩いた。薬指に細いリングが輝いていた。
 その夜改めて紹介されたダンデさんは三年前のイメージと大して変わらなかった。爽やかで快活で、おっとりしたお人好しの姉とお似合いの印象だった。どうしてまだ結婚しないのか聞こうとして、あまりにもデリカシーがないことに気づいてすぐやめた。
 幸い、古本屋にはすぐ気に入られた。名画座で働いていたというのが奥様には好感触だったようだ。なんとなく分かるが、通じるものがあるらしい。どうやら金持ちが道楽でやっている店だそうで、わたしは日がないちにち座って、たまにやってくる物好きのために旧式のレジを動かせばいいだけ。持ち込まれた本の鑑定は奥様がするので、名画座のもぎりの仕事とだいたい同じだった。実に楽で、そのうえ本も読めるのだからこの一ヶ月は夏休みのようなものだと思うようにした。
 ところが。
 初めの一週間が過ぎた辺りで姉に「顔色が悪すぎる」と指摘された。
「そんなにお仕事大変?」
「ううん違う。ちょっと夢見が悪くて」
 嘘ではない。枕が変わったから寝付けなくなったのかと思ったがそうではなく、寝覚めが悪いのだ。ここのところいつも寝心地が悪い。おかしな夢を見る。姉には関係ないし心配させたくないので詳しくは話さなかったが、溺れて手足の自由が利かなくなる夢だ。身体中になにかがまとわりついて気持ちが悪いのに、逃げようとするとそのなにかに捕まって身動きも取れない。息ができない、苦しい、失神する――と意識が本当に深いところまで落ち、気がつくと朝になっている。そんな状態で働くのだから業務内容はともかく、精神的に健康ではないはずだ。
 浴槽でうとうとしかけていた身体をなんとか動かし、ドライヤーもそこそこにパジャマに着替える。
「寝る前にホットミルク飲まない?」
 姉がリビングから声をかけてきた。うん、と小さく返事をしてそちらに向かう。ぺたぺたと裸足で部屋に踏み入るとダンデさんがわたし用の白いマグカップを持っていた。なんだ、姉じゃなくてダンデさんが用意してくれていたようだ。
「熱いぜ、気をつけてくれ」
「ありがとうございます」
 ほんのり甘い、蜂蜜が入っているであろうそれをゆっくり飲み干し、またありがとうございますとお礼を言った。ダンデさんはにこりと微笑んだ。「おやすみなさい」「おやすみ、いい夢を」上手に応えられず、苦笑いを返して与えられた部屋に帰る。悪夢を見たことはダンデさんには関係ない、関係ないから言っていない、だからあの言葉に裏はない。優しくて気遣いのできるひとだ。そんな風に考えながらベッドに身体を預けた瞬間、わたしの意識は泥のようにどろりと崩れて溶けた。瞬きをする。すぐに瞼が重たくなって開かなくなって、髪が乾かないうちにわたしは眠りについた。
――溺れる
――くるしい
 自分の呻き声でぼんやり目が覚めた。相変わらず手足は動かなくて、爪先が冷たい。金縛りとはこういう状態を指すのかもしれない。生憎とわたしは幽霊なんて信じていないけれど。微かに動く瞼を無理やりこじ開けて目を覚まそうとする。目の前は真っ暗だった。
「ん、う……っ、!」
 頼りない意識の下、次に分かったのは口が塞がれていることだ。そして耳も慣れてきて、荒い息遣いのなにかがわたしに覆い被さっていると理解した。犬がじゃれてきたかと思ったが、この家に犬はいない。
「やぁ、あ、なに……っ」
 唇に生暖かいものが押し当てられるのを避けて声を絞り出す。その何者かは舌打ちをした。痺れたように動かない手足のまま、よく目を凝らしてみる。カーテンから僅かに射す月の光が照らしたのは、
「だ、んで、さ……ん」
 わたしの精一杯の悲鳴はまた熱い唇に封じられた。さっきからずっと一方的に唇を食まれ、舌を吸われ、呼吸が奪われていた。溺れる、と感じていたのはまともに息ができていなかったせい。突き飛ばして大声を上げたいのに、身体がまったくいうことをきかない。
「――おかしいな」
 食べ尽くすようなキスが終わったあと、ダンデさんはそう呟いた。「昨日までは一度も目は覚めなかったのに」子どもが学校でなにか新しいことを習って、それを理解できなかったような顔つきだった。純粋な目をしていて、それがとても恐ろしかった。
「動け――ないのか、それならいい」
 訳が分からなくて泣きそうになるが、表情筋もうまく動かない。絶対におかしい、金縛りだなんだという怪奇現象ではなく、明らかにわたしの身体に異変が起きていた。
 ふわふわのパジャマが乱暴に脱がされ、今度は胸の先に口元が寄せられる。唾液が肌を滑る音がやけに大きく聞こえて吐きそうになった。
 ふふ、とダンデさんが乾いた笑いを漏らした。
「大丈夫、毒じゃないから」
「そ……んな……」
 ああ、分かった、全部分かった。
 ずっとずっとダンデさんがこんなことしてたんだ。思えば初日からコーヒーや紅茶を淹れてくれていたような気がする。姉が渡してくれていたけど、ダンデさんが用意して、なにか変な薬を入れていたんだ。睡眠薬かなにかだろう。それで意識を失ったわたしの身体を弄んでいたに違いない。
 太腿が掴まれて、下着をずらされた気配がする。頭の芯が冷えて気分が悪い。ちゅ、と震える太腿にキスをされて、指の腹が敏感な部分をなぞった。
「ちゃあんと濡れてる」
「ん……っ!」
 遠慮なしにごつい指が捩じ込まれた。くちゅくちゅと卑猥な音を立てながらなかを刺激されて変な声が出てしまう。
「こんな早く気づかれるとは思ってなかったな。昨日は最後までしても起きなかったのに」
 胸の内では大きな悲鳴をあげていた。身体中が気持ち悪かったのはダンデさんのいろんな体液のせいだったのだ。悪い汗をかいたとばかり思い込んでいたのに。
「気持ちよさそうだったぜ。でもやっぱり、起きてる方がいいな」
「……あ、う……」
 ダンデさんがボトムをずり下げる。いやだ。下着から屹立したものを取り出して、さっきキスした辺りに擦り付けた。こわい。悪気のなさそうな笑顔で「一緒に気持ちよくなろうか」なんて言った。やめて! どれも声になって出ていかない。それなのに涙だけはきちんと溢れて、こめかみを濡らした。
 ずくん、とお腹の奥が熱くなる。恥骨をぐりぐりと押し付けるように身体が密着してきて、元々逃げ場のないわたしはすっぽりとダンデさんの大きい身体に覆われた。
「っ、はぁ……」
 耳元で低い吐息。脳みそが攪拌されたみたいにぐらついてまともに思考ができない。わたし、意識がないあいだにダンデさんとセックスしてたんだ。触られたりキスされたりだけじゃなくて、最後の最後まで。彼氏がいるからだめだとか、そもそも彼を好きではないからとかそういうのじゃなくて、姉の恋人にこんなことをされた事実が怖かった。姉と間違えて触れてしまうくらいなら許せたのに。せめて、わたしだと分かっていないままでいてほしかったのに、きちんとわたしを狙って乱暴していたのだ。
 鷲掴みにされた腰の皮膚が痛い。ダンデさんが身体を揺さぶるたびに内臓がぐちゃぐちゃになっている気がする。内側も外側も、もうぼろぼろだった。
「いや……いやだ……っ」
 ぎしぎし、ぐちゅぐちゅ、ぎしぎし、それから肌のぶつかるぱんぱんという音。わたしの可愛くない呻き声よりもそれらの音の方が大きかった。ベッドの軋みが姉の部屋まで聞こえるのではないかと思うほどに。
 抉るようなピストンのひとつひとつに呼吸ができなくなってしまう。苦しくて辛くて、ようやく動かせるようになった指先でシーツを必死に掴んだ。そうしないと身体がばらばらになりそうだった。
 可愛いなあ、とダンデさんが囁いた。「本当はずっときみを抱きたかったんだ」嘘か本当か分からない。だって、姉さんがいるのに。ふたりは結婚するって聞いた――っけ?
「はなして、もういや、いやです……っ」
 またダンデさんは花が咲くように笑んだ。
「ああ、もちろん――すぐイくから、そしたらオレも寝るよ」
「うっ、う、んぅ、っ!」
 また唇に噛みつかれて呼吸がままならなくなる。わたしが息苦しいと彼は気持ちがいいようで、腰の動きが激しくなった。だめだ、この流れはよくない、本能的に危険だと感じる。
「ぐ……ぅ、ッ!」
 ダンデさんが吼えた。同時にどくん、と臍の下に熱いものが注がれる。「……はは、ごめん」もうなにも言えなくてただ泣くだけ。動けないし、まだ口も回らない。
「また明日」
 簡単にわたしの服を整えてから最後にまたキスをし、彼は部屋を出て行った。ほんのり蜂蜜の味がするキスだった。優しい味だと思ったのにこんなに気持ち悪い甘さだったなんて、怖気が止まらない。
 ダンデさんは明日もまた間違いなくこの部屋に来るだろう。そのときわたしは気絶しているのとしっかり起きているの――どちらが正しいのだろうか。どちらにせよ、そこにわたしの意思はないのだ。姉のお人好しな笑顔がよぎって、頭痛がした。

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