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無意識下で逢いましょう


 ふと、もう逢いたくない、と言われた。
 おれはとても間抜けな顔になり、逃げるように電車に乗る恋人の腕を掴もうとして空振って、ホームの端っこにぽつんと残された。終電があっという間に彼女を連れ去ってゆく。一瞬気が遠くなる。はっとすると迷惑そうな駅員が傍に立っていて、おれが出て行くのを待っていた。咳払いと共に帽子を被り直し、出口はあっちだと視線で誘導する。おれは一層猫背をひどくして情けなく帰路についた。
 なにか嫌われるようなことをしただろうか。いつも通りのデートだったと思う。いつも通り――だから、よくなかったのか? しかし、別れたいと言われたわけではない。逢いたくない。逢いたくないというのはどういう心理だろう。
 ただでさえ三ヶ月後の新譜のための歌詞に悩んでいる頭がさらに紛糾する。パンクだというのにおれはその夜「逢いたい」と呻くような詞を書いた。違う、ここは「逃げたい」などと歌わなければおれではない。けれど「逢いたい」のだ。さよならをしたばかり、逢いたくないと言われたばかりなのに、ますます逢いたくなってしまった。頭を抱えたり背伸びをしたり彼女にメッセージを送ろうとしてやめたりを夜通し繰り返し、やっぱり「逢いたい」と歌詞にした。本人に伝えればいいのに、ここで立ち止まってしまうのがだめなおれの真髄だった。
 次に窓を見たときにはもう朝が来ていた。真夜中より黒いコーヒーを淹れ、その「逢いたい」の歌詞をバンドメンバーにメールで一斉送信した。どれだけ考えてもやはり「逢いたい」以外に言葉は出なかった。顔を洗ったあと鏡に映ったおれの顔はコーヒーよりも昏かった。
 目の隈を指でなぞっていたらスマホがメッセージの受信を告げた。早速メンバーからお叱りか。相手も確認せずに開いたら、恋人から〈昨日はありがとう、楽しかった〉というまったく想像していなかった感謝の言葉が送られてきていた。驚いてその短い文章を数度読み返す。ひよこの絵文字が語尾についているのは真意を測りかねるが、ともかく好意的であることに変わりはない。
〈こちらこそ、ありがとうございました〉
〈あれ、ネズくんにしては早起きだね。寝てないの?〉
〈電話してもいいですか?〉
 少しの間。
〈いまから仕事だからだめ。帰ったら連絡するね〉
 逢いたいです、と素直に返事を打たなかったことを褒めてほしい。やけくそになって眠ろうとして、コーヒーのせいで目が冴えて眠れず、やむなく睡眠導入剤を一シートつっこんだ。カフェインとベンゾジアゼピンが身体のなかで拮抗し、脳がバグる。寝ているのか起きているのか分からない状態でベッドに仰向けになり、動けずじっと天井を見た。
 バグった脳の片隅で恋人が優しく微笑んでいた。当たり前にある風景としての恋人だ。ほとんど無意識で、無自覚といってもいい。気がつけば彼女のことを考えている。まるでそう生まれついたみたいに。運命づけられたみたいに。無意識下の恋人は昨日の言葉なんて憶えがないような表情で微笑んでいる。愛らしくて、逢いたかった。
 だから〈いまから帰るよ〉と彼女から連絡があるまで、そんな放心状態を楽しんでいた。薬の副作用の幻覚だったのかもしれないが、心地よかった。
 微かに震える指で通話ボタンを押す。コール音がいつもより長く、もしかして出てもらえないのではないかと不安に駆られた。唇が戦慄く。恋人の名前を呟いた。するとそれが合図だったように「もしもし、いま電車降りたとこだよ」と応答があった。安堵してシーツにより深く沈み込む。
「まだ駅だから後ろうるさかったらごめんね」
 確かに背後に喧騒が聞こえる。そんなものは気にならないけれど。
「――今日ずっと、きみのことを考えていました」
「――わたしも、ネズくんのこと考えてたよ」
「今夜逢えませんか?」
 少しの間。
「……逢いたくない……よ」
 彼女の声音から、その不安定な心理が伝わってきた。本音であり、建前でもある。真実であり、偽りでもある。どうして分かるのかは、恋人だからとしか言いようがない。彼女の意識が伝わるのだ。けれどそこに思い至った理由は分からない。だからそのまま訊いた。彼女は答えを言い淀んだ。
「言いにくいんだけど……ネズくんが好きだから……あんまり逢いたくない……」
 答えになっていない。焦ったくて聞こえないくらいの音で舌打ちする。正しい答えを引き出せない自分への苛立ちだ。
「それじゃ分かりません」
「……上手く言えないんだよ」
「でも昨日は楽しかったんですよね?」
 まさか、あれが嘘だったらおれは救われない。
「逢ったら楽しい。でもそのあと、すごく寂しくなって……もっとたくさん話したかったのにって思っちゃうから、いやなの」
 ぽつり、ぽつりと雨垂れのように彼女は呟き始めた。散文的なそれらを必死に聞き取る。
「今日もね、無意識のうちにネズくんのこと考えてて、怖かったんだよ。実際に逢ったら照れて……ちゃんと話せなくなるのに、こんなにネズくんのこと考えちゃうくらい好きなんだって、怖くなった」
「そんなの……」
 おれも上手く返事ができない。おれも無意識に、幻覚できみを見るくらい好きなのにちっとも怖くないんだ。おれがおかしいのか、きみが繊細なのか、どちらなんだろう――とにかく逢いたい。
 だんだん平静を取り戻してきた頭が解決策を模索する。逢いたいというのはおれの我儘だ。彼女の意思を尊重すべきだろう。嫌われていないことが分かっただけでも収穫だ。
「……いつになったら逢えますか」
「分かんない……ネズくんの新譜が出る頃には逢いたいよ。新曲の話とかしたいもん」
 三ヶ月後! 気絶しそうになり、慌てて「遠すぎます」と文句をつける。「じゃあ早く出してよ」無茶を言うな。
「連絡はするから、わたしが落ち着くまで待ってほしいな。逢いたい気持ちはあるんだよ、ほんとだよ……」
 泣きそうな調子なのでそれ以上なにも言えなくなり、おれは「分かりました」ととりあえず納得した風を装った。きっと三ヶ月後には、これも笑い話になるだろう。そんなこともあったね、と笑う彼女を想像してみた。
 身体に気をつけるようお互い挨拶し、電話を切る。ディスプレイを改めて見たらメッセージが何通も来ていた。
〈いい歌詞です!〉
〈ストレートでいいっす!〉
〈いままでと違いますがこれはこれで新しいネズっぽい感じで話題になると思います〉
 すっかり忘れていた。無意識のうちに彼女のために書いた歌詞がそれなりに誉められている。三ヶ月、笑い話ついでにこの歌詞の話もしよう。いいや、我儘なおれは三ヶ月も待てないだろうからプリプロのCDを渡す。そこで驚いて真っ赤になる恋人を眺めながら真夜中みたいなコーヒーを淹れよう。
〈逢いたいです〉
 送れなかったメッセージを消去し、曲のタイトルを考える。印象強く、彼女にすぐ理解されるようなものがいい。リード曲にして、おれがどれだけ逢いたかったかを喧伝するのだ。
 思いついたタイトルをメンバーにまたメールする。
〈いいタイトルです!〉
〈わりと好きです!〉
〈青春パンクみたいですね。プロモーション考え直します〉
 概ね好評であることに満足し、おれは目を閉じた。また彼女の笑顔を空想していた。

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