×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -




大人になる前に


 親がおれに無頓着であったように、おれもおれに無頓着だった。服があればそれを着る、テーブルに並べられたものを食べる、そして適当な時間に寝る。母親が料理をしている場面など一度も見たことがないし、父親に絵本を読んでもらったこともない。おそらく思春期あたりまではそうして生きてきた。つまり、まともな「愛情」を受けずに育ったのだ。
 妹が物心つく頃に両親がいなくなって、途端におれは「生活」をしなければならなくなった。ジムリーダーになったのは「生活」のためだ。名門のジムリーダーになれば金は稼げたし、愛するスパイクタウンのために生きられた。一般的にはまだ子どもとされる年齢で「自立」した「生活」をするおれは、皆から好かれる存在になった。おれがおれ自身をどうやって好ましく思えばいいのか分からないまま。
「ネズくんはかわいそうだね」
 そんなおれに声をかけたのはマンションのちょうど上の部屋に住むいくつか歳上の女性だった。妹は「おねえちゃん」とその女を呼ぶ。だからおれも「お姉さん」と呼んでいた。名前も聞いたが、距離感が掴めなくて口にする勇気がなかったのだ。
「みんな学校に行って、好きなコの話なんかして、ニキビに悩んだり身長に悩んだりしてるのに」
「……これ以上悩みたくありません」
「思春期っていうのはそういうものなんだよ」
 彼女はおれの髪で遊ぶのが好きだった。癖っ毛を編んだり束ねたり試行錯誤して「やっぱり長いのが似合うね」といまの髪型を発案してくれた。ブレイズを勧められたときには断るのに苦労した記憶がある。「ネズくんはうなじが綺麗だから、出してた方がいいよ」そんな風に言われてむず痒かった。照れていたのだろう。
「なんでいつもそんなにひどい服装なの?」
「あるものを着てるだけなので」
「サイズが合ってないし、色の組み合わせもちぐはぐ。黒や白にもいろいろあるんだよ。わたしがお金出すからちゃんと似合う服を着て」
「いえ……」
「気にしないで、お金はあるんだから。っていうか、そんなひどい格好でわたしの隣にいてほしくない」
 それならおれから離れたらいいだけの話なのに、彼女はそうしなかった。おれは彼女に逆らえなかったのでなすがまま。行きつけだという古着屋に連れて行かれ、あれやこれやと次々に試着させられて「オフホワイトかあ、これは違う」「ネズくんグリーン似合わないね」「わあ、マゼンタ似合う! セクシーだよ!」と褒められたり貶されたりしながら服を買ってもらった。レジで見たこともないような会計金額が表示され「最初のシャツだけでいいです」と小さい声で言ったら手の甲をぴしゃりと叩かれた。そうして、おれのカラーが決まった。あれは確か脚を出すと寒くなってきた初冬のことだったように思う。
 彼女の決めた髪型にして彼女の選んだ服を着ているおれはそれまでの自分とはまったく違って見えた。きちんと存在している、ひとりの人間に感じられた。そのうち同い年くらいの女子からファンレターなども貰うようになったが、突然の「愛情」に困ってしまい、読みもせずに捨てた。おれにとって女というものは、お姉さんだけでよかったのだ。お姉さんからの「愛情」がもっとも気持ちよかった。
 一方で、そんな自分を好ましく思い始めていた。ひとに好かれ、支持される立派な人間。やっとネズとして生きられるようになった、そんな感触だ。木枠だけだったところに白いカンバスが貼られ、下書きのあとに絵の具が塗られ始めたところ。
「ネズくんの目は綺麗だね。睫毛もしっかりしてる。教えてあげるから、アイメイクしない?」
 おれは頷くほかなかった。全身を彼女の好きなようにしてもらえることがとても幸福になっていたから。彼女の描く最高のネズになりたかった。器用だったのでメイクはすぐに覚え、センスがいいと褒められた。嬉しかった。
「ネズくんはいいコだね」
 彼女の膝は居心地が良かった。頭を預けると全身の力がふわふわと抜けてゆく。ここにいれば、こうしていれば、おれはとても幸せだ。こうやって髪を手櫛で梳かれながら、甘く囁いてもらう。
 お姉さんの手料理を食べて、お姉さんがくれた本を読んで、お姉さんが勧めてくれた音楽を聴いて。外側も内側も、すっかり彼女のものになるのがたまらなく幸せなのだ。もう、彼女なしでは生きていけないのではないかとすら感じた。
 冬の次に春が過ぎ、そろそろ本格的に夏が来る季節。あの日は青空に入道雲が大きく広がっていた。暑くて眩しくて、彼女の日傘に入れてもらっていた。
「ネズくん、随分かっこよくなったね」
 当たり前だ。あなたの好みそのままの男になったのだから、そう思ってもらえないと意味がない。
「彼女とかできた?」
「……え……」
 世間話のトーンで軽く問われたので、一瞬思考が止まった。おれは立ち止まった。お姉さんは少し歩みを進めてから立ち止まり、「どしたの」と不思議そうに振り返る。
「あの、おれ――」
 付き合っていた、わけではない。それは理解している。でも「おれがお姉さんに恋している」ということは伝わっていると思い込んでいた。というより、その瞬間におれは「恋」というものをはっきり自覚した。そうだ、これは恋だ。お姉さんが好きだから、彼女の色に染まるのがなによりも快かったのだ。
 おれに興味を持ってくれたから、おれをかわいそうだと認めてくれたから、おれを――
「わたしね、来月結婚するよ」
 それだけ言って、彼女は前を向いて歩き出した。おれの返事も待たず、もう振り返りもせず。
 気の早い蝉が鳴き始め、おれは途方に暮れてぼうっと立ち尽くし、
「好き、なのに、なんで」
 やっと絞り出した言葉を聞く者は誰もいなかった。
 その日からお姉さんとは会えなくなった。部屋に行ってもドアを開けてくれなくなり、電話もメールも無視された。中途半端なおれのプライドは彼女に泣きついてでも縋り付くという選択ができず、項垂れて自室に篭ることだけを許した。それでも彼女の好きな髪型にし、服に袖を通して、教えてもらったメイクで毎日過ごした。
「おねえちゃんの結婚式の招待状きとる」
 夏真っ盛り、妹がキラキラした白い封筒を差し出した。「楽しみやなあ」そう呟く妹は純粋に彼女を祝福していた。
 ペーパーナイフも使わず、乱暴に封を開ける。とても小さな意趣返しだ。くだらない。
 披露宴の出席・欠席を問うカードに小さな付箋がついていた。彼女の直筆でなにかメッセージが書かれている。動揺して、手のひらでぐしゃりと握りしめた。動悸が激しくなったので部屋に逃げ、それから手のなかで小さくなった紙屑を広げる。
「ネズくんはわたしの自慢のダイヤモンドだよ」
 流れるような字でそう書いてあった。膝の力が抜け、冷たい床に座り込む。
 つまり、そういうことだった。
 彼女はおれという原石を見つけ、適切に研磨した。あとはリングになろうがチョーカーになろうが、さして興味がない。だからあれは「愛情」ではなく、たぶん「興味」だったのだろう。おれがひとりでのぼせて、浮かれて、はじめての感覚に恋してしまっただけ。結局誰からもまともな「愛情」を与えられず、とても惨めなのに、そんなおれはいま――人生でいちばん輝いているのだった。

- - - - - - -