ふわふわする頭、不確かな視界、柔らかすぎるシーツに身体がいうことをきかない。ここはどこだろう。伸びすぎた爪がみっともない手をゆっくりと握って、開く。何度もそれを繰り返し、やっぱりここがどこだか分からなくて寝返りを打った。 思い切り振りかぶった左腕にふかふかしたものが当たる。「いてっ」低い声が呻いた。隣で男が寝ているなんて日常茶飯事で、ああまたやっちゃったんだなと冷静に考える。今日の相手は誰だろう。 「……随分なご挨拶ですね」 「ネズかあ」 「ご不満でしたか」 で、隣で寝ているのがネズだったっていうのも数えきれないくらいあることで。 大きな枕を抱えたネズが恨めしそうな目でわたしを見ている。文字通り叩き起こしてしまったみたいだ。ごめんねと全く気持ちのこもっていない謝罪をしたら彼はいかにもつまらなそうに「昨日は不満げには見えませんでしたけど」と憎たらしいことを言うのだった。 「覚えてないからノーカンね」 「それ聞くの5回目だよ」 「え、やだなあ、そんなに?」 「なんだ、また薬飲んでたんですか……」 「うん、えへ、あはは」 どうしてそんなことをするのかと訊かれたら答えには窮する。嫌なことを忘れたくて、気持ちよくなりたくて、暇を持て余していて、癖になっていて。そんなところ。手のひらいっぱいの甘い錠剤を飲めばなんでもできる気がした。多少記憶が飛んだって、嫌な思いをするよりはマシだ。 オーバードーズしたわたしは大抵誰かに面倒臭いメッセージを送る。男女を問わず。その日反応してくれた人がターゲットだ。電話して延々と泣きついたり、すごくハッピーな気持ちで遊びに行ったり、自分でもなにをしでかすかは分からない。気を失っているのと同じだ。ふと気がついたら通話のしすぎでバッテリーが切れたスマホが目の前にあったり、どこか分からない駅のトイレで茶色の瓶に囲まれて寝落ちていたりする。 それで、今日はネズとホテルでそういうことをした、それだけ。知らない男と知らない場所にいないだけ、上出来な夜だったと思えばいい。 「昨日のわたしどんなだった?」 「可愛かったですよ」 「そういうことじゃなくて、変なことしてない?」 恋人じゃない男と寝るのだって一般常識と照らし合わせたら十分変なことではあるけど、そういうことじゃなく。 「……映画を、観に行きました」 「わあ、全然覚えてないや」 「お前が観たいって言ってたやつ……あの、暗いやつ……タイトルは忘れちまいましたが……」 「眠いの?」 「……眠いです……」 「そか。シャワー浴びてくるからまだ寝てていいよ」 ふかふかの髪を撫でる。大型犬の毛並みみたい。気持ちよくてそのままずっと手を動かしていたらネズはかったるそうにわたしの手首を掴んだ。 「昨日は振り回されましたよ」 「うーん、薬飲みすぎてたかも」 「映画のあと……知らないバーに連れていかれて……」 「もーいいって。覚えてないんだから。変なことしてないならいいよ」 「いえ、」 ぐい、と引っ張られてネズの腕のなかに収まる。低い体温。 「覚えてないなら全部言います、ぜんぶ」 「なんで? 薬飲んでるわたしはわたしじゃないから意味ないよ」 前もこんな風に話したっけなあ。抗うつ剤をたくさん飲んで、ネズを呼び出して、確か呆れるくらいにセックスしまくって、結局なんにも覚えてなかった。どうやってわたしを抱いたかぽつりぽつりと話すネズに「もういいってば」って怒った気がする。正体をなくすために薬を飲んだのだから、あまりそのときのわたしについて話されたくないのだ。「変なことしてない?」なんて世間話のひとつ。ただ「してない」と答えてもらえればそれでいい。 「悔しいじゃないですか、そんなの」 ぎゅうっと抱き締められる。昨夜を思い出してどきどきするかと思いきや、わたしの身体は無反応だった。このなんともいえない感情を「悔しい」と表現していいものか。 「楽しそうでした、すごく。だからおれもなんとなく楽しくて……おれの言うことなんかひとつも聞いてなさそうでしたけど、とにかく楽しそうだったので……」 「あは」 そりゃあしこたまドーピングしているのだから楽しんでいなければ損だ。テンション高い自分を想像して思わず笑う。でも、本当にわたしじゃないんだなあ、それって。 「我儘だなあ、わたし。たぶんいつも言ってるけど忘れていいからね」 「……たぶんおれもいつも言ってますけど、忘れませんよ」 「やだよ、恥ずかしいじゃん……」 「だってどれも、ぜんぶ、おまえだから」 いよいよ眠そうな声音になってきた。前を向いたまま手探りでネズのこめかみの辺りをぽんぽんと撫でる。うぅん、と彼はちょっと可愛い声を出した。 「でも、爪は切った方がいい、ですよ……」 「え?」 「かたいたいんで……」 遺言みたいに呟き、次はとうとう寝息になった。なにを聞き返してももう答えがない。抱き締められたままだからバスルームにも行けなくなってしまった。 せめて昨日観た映画を思い出そうとして、ひとつも映画のタイトルが出てこなかったので断念した。起きたらネズが教えてくれるだろう。毎回こうやって甘える自分が嫌いではない気がした。 そういえばまだネズにきちんと謝っていないことに気づく。振り向いてごめんね、と囁いたら、ネズはまたうぅんと可愛い声を洩らした。 - - - - - - - |